第8節 ― 灰化許可院の小火
灰化許可院は、死者名記録庁の西隣にあった。
隣、といっても、建物同士は直接つながっていない。
そのあいだには、黒い石畳の細い中庭があり、中央には燃え尽きた羽根のような形をした噴水が置かれている。
水は流れていない。
代わりに、噴水の底には灰が積もっていた。
風が吹くと、灰は舞わずに、淡く光る。
ウル=マリスの祝灰。
記録を焼き尽くすためではなく、記録を清め、死者を縛る余分な名をほどくための灰だ。
灰化許可院の扉には、黒い炎を抱く白い手の紋章が掲げられている。
その下に刻まれた文は、死者名記録庁のものとは違っていた。
――焼くべき名と、残すべき名を取り違えるな。
リシェは、その文の前で足を止めた。
灰化許可院は、記録を消す場所ではない。
本来は、死者を苦しめる記録を清算するための場所だ。
冤罪の罪名。
呪われた呼称。
死後も人を縛る蔑称。
遺族の執着によって墓碑に刻まれようとする名。
生者が死者に押しつけた、眠りを妨げる言葉。
それらを、ウル=マリスの炎に通す。
灰にすることで、死者がもうその名に縛られなくてよいように。
だが、炎は扱いを誤れば、救済ではなく隠蔽になる。
リシェは、腕に抱えた灰化記録を見下ろした。
対象名――白花盗みのミア。
処理区分――罪名清算申請中。
遺体状態――灰化済み。
葬送名――未定。
空欄の棺が空だった理由。
それが、ここにある。
アスターはリシェの隣で、灰の噴水を覗き込んでいた。
「これ、噴水なのに水じゃないんだ」
「灰です」
「灰の噴水。葬送都市、発想が攻めてるね」
「ウル=マリスの祝灰を納める場所です。清算された名の残滓を、風に流さず留めるためのものです」
「留めるんだ。消したあとも?」
「消すのではなく、閉じるためです」
アスターは少し首を傾げた。
「その違い、まだ難しい」
リシェは扉の文字を見たまま答える。
「私にも、難しくなってきました」
アスターは黙った。
いつものように軽口を返さなかった。
その少し後ろで、ルゼが欠伸を噛み殺していた。
無名死者受付所から呼び出された彼は、不満そうに札箱を肩にかけている。
「記録庁に戻ったと思ったら、今度は灰化許可院か。今日はやたら働かされるな」
「主任命令です」
「主任は俺の上司じゃない」
「ですが、死者名記録庁との協働要請書が出ています」
リシェは書類を一枚差し出した。
ルゼはそれをちらっと見て、顔をしかめる。
「正式書類で殴ってくるな」
「協力をお願いします」
「それは脅迫のあとに添える言葉じゃない」
アスターが楽しそうに言う。
「ルゼ、書類に弱いんだ」
「幽霊は黙ってろ。お前は記録されないから書類の怖さがわからない」
「ちょっと羨ましい?」
「いや、面倒すぎる」
「面倒って言われた」
「褒め言葉だ」
「絶対違う」
リシェは扉を開けた。
灰化許可院の中は、熱かった。
死者名記録庁の冷たい石壁とは違う。
ここには、炎の気配がある。
だがそれは、燃え盛る炎ではない。
壁の奥、床の下、記録炉の内部で、静かに息をしている炎だった。
空気には、紙の焦げる匂いと、香木の甘い匂いが混じっている。
長い廊下の両側には、灰壺を収める棚が並び、ひとつひとつに封印札が貼られていた。
その奥から、職員たちの声が聞こえる。
「だから、罪名は強火だって言ったでしょう!」
「強火にしすぎると、本人の生前名まで焦げるんですよ!」
「噂名は弱火! これは基本!」
「噂名は弱火でも、百人以上に語られた噂は中火です!」
「恋文は?」
「本人確認してから!」
「相手が三人いた場合は?」
「それは灰化前に修羅場確認!」
「灰化許可院で恋愛相談を始めるな!」
リシェは足を止めた。
アスターが感心したように言う。
「ここも元気だね」
「灰化許可院は、火加減にうるさい部署です」
「料理みたい」
奥の作業室では、灰化職員たちが炉の前で真剣な顔をしていた。
黒い耐火外套。
灰色の手袋。
額には汗。
手元には、罪名記録、噂名綴り、遺族申請書、封印用の赤紐。
その緊張感に対して、飛び交う言葉は妙に生活じみている。
「この蔑称、何年ものですか!」
「十五年もの!」
「長期熟成の悪口じゃないですか!」
「火を強めますか!」
「駄目です! 悪口だけ飛ばして、本名を残すんです!」
「本名が悪口に飲まれてます!」
「じゃあ先に祈祷水!」
「祈祷水切らしてます!」
「誰ですか補充係!」
「昨日、灰を被って早退しました!」
リシェは静かに作業室を通り過ぎようとした。
だが、ルゼがふと足を止める。
一つの卓上に、小さな封書が置かれていた。
古い恋文らしい。
端に灰化申請札がついている。
ルゼはそれを見て、真面目な顔で言った。
「恋文は燃やす前に読みたい派だ」
リシェは冷たい目で見た。
「最低です」
「死者が隠したがるものほど、手がかりがある」
「それらしい理屈をつけても最低です」
アスターが頷く。
「でも、ちょっと気になるよね」
リシェはアスターも見た。
「最低です」
「死者にも容赦ない」
「必要ならします」
ルゼは肩をすくめた。
「冗談だ。恋文は本人確認してから、が鉄則だ」
「確認後でも読まないでください」
「仕事内容による」
「倫理によります」
「記録官は堅いな」
「灰化受付官ではありませんから」
「受付官も読まないほうがいいと思う」
アスターが小さく言うと、ルゼは横目で彼を見る。
「お前、恋文もらったことあるのか」
「覚えてない」
言ってから、アスターは少し黙った。
その沈黙に、三人の足がわずかに止まる。
記憶がない。
それは、どんな冗談の中にも入り込んでくる。
アスターはすぐに笑った。
「もらってたらいいな。しかも三通くらい」
ルゼが鼻で笑う。
「欲張るな」
「死後くらい夢を見たい」
「夢見の申請は隣の部署だ」
「あるの?」
「たぶんない」
「嘘が雑」
リシェは二人の会話を聞きながらも、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
アスターが何かを覚えていないたびに、そこに誰かの手が入った跡を想像してしまう。
彼の恋文。
友人。
家族。
誕生日。
死亡日。
最後に呼ばれた名。
それらも、どこかで白紙にされているのかもしれない。
三人は、灰化許可院の奥へ進んだ。
奥へ行くほど、喧騒は薄れていく。
炉の熱はある。
だが、空気は冷たくなる。
紙の焦げる匂いから、石と封蝋と古い灰の匂いへ変わっていく。
灰化許可院の第三灰室。
ミアの記録灰が保管されているはずの場所だった。
扉の前には、灰色の長衣を着た女性職員が立っていた。
年は三十代前半ほど。
髪を後ろでまとめ、目元には灰除けの薄い眼鏡をかけている。
腕には、灰化許可院の印章。
彼女はリシェたちを見ると、すぐに頭を下げた。
「死者名記録庁の方ですね。連絡は受けています。第三灰室担当、セナ=グレイです」
リシェは名乗る。
「リシェ=ベルレインです。対象記録、白花盗みのミア。灰化記録と灰壺の確認をお願いします」
セナは少し眉をひそめた。
「その件ですか」
「何か問題が?」
「問題というより……妙なんです」
セナは鍵束を取り出しながら、扉の封印を確認した。
「第三灰室は昨夜から封鎖状態でした。許可なく出入りはできません。ですが、記録灰の反応が途切れています」
「途切れている?」
「通常、灰化された記録は、灰壺内に微弱な残響を残します。罪名を焼いた場合でも、生前名や関係名と完全に切り離すわけではありませんから」
リシェは頷いた。
「閉じるためであって、消すためではない」
「はい。ですが、この件の灰壺は、反応が空です」
アスターの輪郭がわずかに揺れた。
「空……」
セナは不思議そうにアスターのいる辺りを見たが、何も見えていないようだった。
「何か?」
リシェは短く答える。
「同行者です。気にしないでください」
「それは気にする言い方では」
「記録庁の案件です」
「それなら気にしません」
セナは慣れた様子で扉を開いた。
第三灰室の中は、灯りが少なかった。
円形の部屋。
壁に沿って、灰壺を納める棚が並ぶ。
中央には小さな黒炉があり、今は火が落とされている。
床には白い灰で描かれた円があり、その内側に入るには専用の手袋が必要だった。
セナが灰色の手袋を差し出す。
リシェは受け取り、手袋を替える。
ルゼも面倒くさそうにしながら、しかし手つきは丁寧に替えた。
アスターは自分の手を見た。
「僕は?」
ルゼが即答する。
「お前は触るな」
「言われなくても、触れるかどうか怪しい」
「触れたときが面倒だ」
「それはそう」
セナは棚の一角へ向かった。
「こちらです」
灰壺は、白い陶器でできていた。
蓋には黒い封蝋が施され、対象記録の札が貼られている。
対象名――白花盗みのミア。
第三灰室。
罪名清算申請中。
未閉帳。
リシェは札を確認し、息を整えた。
「開封を」
セナは頷き、封蝋に小さな灰筆を当てた。
封蝋が淡く光り、音もなくほどける。
蓋が開く。
中は、空だった。
リシェは言葉を失った。
灰がない。
本来なら、灰壺の底に薄く白灰が残っているはずだった。
記録を燃やしたあとの祝灰。
罪名を清算したなら、その名の残滓が。
遺体灰であれば、死者の眠りへ移すための核が。
だが、そこには何もない。
灰壺の内側は、洗ったように白かった。
いや、白すぎた。
白紙と同じ白。
ルゼが低く呟く。
「やられたな」
セナが顔色を変える。
「そんな……封印は破られていませんでした」
リシェは灰壺の内側を覗き込んだ。
底に、何かがある。
灰ではない。
小さく折り畳まれた白い紙片だった。
リシェが手を伸ばすより早く、ルゼが言う。
「素手で触るな」
「わかっています」
リシェは挟み具で紙片を取り出した。
白い紙。
文字は灰色。
だが、インクではない。
紙そのものの繊維が抜け落ち、文字の形に白さが沈んでいる。
リシェはゆっくりと読み上げた。
「死者を名で縛るな。
すべての死者名を、白紙へ還せ」
部屋の温度が下がった気がした。
セナが口元を押さえる。
「空名会……」
ルゼは舌打ちした。
「灰壺の中に宣言文か。趣味が悪い」
アスターは紙片を見つめていた。
「それ、残響で聞いた声と同じ?」
リシェは頷く。
「同じ思想です」
アスターが一歩近づく。
リシェは手を上げる。
「触れないでください」
「わかってる。ただ、なんか……呼ばれてる気がする」
「呼ばれている?」
アスターは自分の首元の葬送札を押さえた。
「さっきの残響のときと同じ。ここが、ざわざわする」
ルゼが鋭く言う。
「下がれ」
だが、アスターの視線は紙片から離れなかった。
「大丈夫。触らなければ――」
言い終える前に、紙片が揺れた。
風はない。
紙片から白い粉のようなものが舞い上がり、アスターの指先へ吸い寄せられた。
「アスター!」
リシェが叫ぶ。
アスターが反射的に手を引こうとした。
だが、白い粉はすでに彼の指に触れていた。
その瞬間、アスターの身体が薄くなった。
輪郭が一気に霧へ溶ける。
髪の色が淡くなる。
目の焦点が揺れる。
彼の首元の空欄札が、黒く滲んだ。
リシェは紙片を落とし、アスターの手を掴んだ。
冷たい。
さっきまでより、ずっと冷たい。
「アスター、私を見てください」
「うん……見てる」
「私の名前を言ってください」
アスターは口を開いた。
「リ……」
そこで止まる。
彼の表情が困惑に変わった。
「リ……えっと」
リシェの胸が凍る。
「アスター」
「ごめん。待って。わかってる。わかってるんだ。君は、記録官で、真面目で、死者に説教して、白花菓子を半分くれようとして……」
彼は苦しそうに笑った。
「でも、名前が……」
ルゼが札箱を開ける音がした。
「ベルレイン、名乗れ!」
リシェはアスターの手を強く握った。
「リシェ=ベルレインです」
彼女は、はっきりと言った。
「死者名記録庁所属、リシェ=ベルレイン。あなたにアスター=ヴェイルという仮称を置いた記録官です。忘れないでください」
アスターの目が揺れる。
「リ……シェ」
「はい」
「リシェ=ベルレイン」
「はい」
「記録官殿」
「はい」
アスターは苦しそうに笑った。
「了解。記録官殿」
リシェは息を吐いた。
しかし、手は離さなかった。
ルゼはアスターの足元に白札を二枚置き、短い筆で素早く書く。
――余白。
――寒い。
――アスター。
「三つも書くのですか」
リシェが問うと、ルゼは手を止めずに答えた。
「どれか引っかかれば戻る」
「正式な処置ではありません」
「正式な処置を待ってる間に幽霊が消える」
「消えないよ」
アスターが弱々しく抗議した。
「たぶん」
ルゼは睨む。
「たぶんは禁止だ。お前も覚えろ」
「リシェみたいなこと言う」
「似るな、不本意だ」
「私も不本意です」
リシェが即答すると、アスターは小さく笑った。
その笑いで、彼の輪郭が少しだけ戻った。
セナは壁際に下がりながら、震える声で言う。
「これは、灰化反応ではありません。記録灰の消失でもない。もっと直接的に、関係者の記憶へ干渉しています」
リシェは紙片を見た。
白い紙片は、床の上に落ちている。
だが、そこに書かれた言葉はまだ残っていた。
死者を名で縛るな。
すべての死者名を、白紙へ還せ。
「死者だけではない」
リシェは低く言った。
「この白紙は、死者に関わった者の記憶も削る」
アスターは自分の手を見た。
「僕、リシェの名前、忘れかけた」
「はい」
「怖かった」
その言葉は、軽口ではなかった。
アスターは目を伏せたまま続ける。
「名前が出てこないって、こんなに怖いんだね。さっきまで知ってたのに。さっきまで何度も呼んでたのに。口の中にあるはずなのに、白くなって……」
彼は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「僕、自分の名前もそうやって忘れたのかな」
リシェは手を握ったまま答えた。
「まだ、わかりません」
「うん。記録官は、そう言うよね」
「ですが」
リシェはアスターを見る。
「あなたは、私の名前を取り戻しました」
アスターが顔を上げる。
「え?」
「忘れかけても、戻れました。完全に奪われたわけではありません」
「それ、慰め?」
「事実です」
「リシェの慰め、やっぱり硬い」
「柔らかい表現は苦手です」
「知ってる」
アスターは少しだけ笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
リシェは、ようやく彼の手を離した。
だが、すぐに調査帳を開く。
アスターが覗き込む。
「今のも記録するの?」
「はい」
「僕が名前を忘れかけたって?」
「はい」
「ちょっと恥ずかしいな」
「重要な証拠です」
「そう言われると断れない」
リシェは筆を動かした。
――白紙片に接触後、アスター=ヴェイルの輪郭が希薄化。
――対象はリシェ=ベルレインの名を一時的に想起不能。
――名乗りにより復帰。
――白紙は死者本人だけでなく、関係者の記憶・呼称にも干渉する可能性あり。
文字は滲まなかった。
少なくとも、この現象は記録できる。
リシェはそれに少しだけ安堵した。
記録できるなら、対抗できる。
完全な空白ではない。
ルゼは床の紙片を銀挟みで拾い、封印用の黒布に包んだ。
「これは記録庁じゃなく、封印室に回せ。普通の証拠箱だと、中の札が全部空になる」
セナが青ざめたまま頷く。
「はい。すぐに」
「すぐに、だ。途中で誰かに読ませるな」
「わかっています」
ルゼの声はいつになく厳しかった。
アスターがそれを見て、小声で言う。
「ルゼ、空名会のことになると顔が怖い」
ルゼは答えない。
リシェは彼を見る。
「ルゼさん」
「聞くな」
まだ何も聞いていない。
だが、ルゼは先に遮った。
「今は、その花売りの死者が先だ」
リシェは頷く。
「はい」
ルゼは灰壺を見た。
「灰壺は空。灰化済み記録はある。だが灰そのものは奪われてる。つまり、死者名の核はまだどこかで使われている可能性がある」
「使われている?」
アスターが嫌そうに言う。
「名前って、使われるものなの?」
ルゼは短く答えた。
「悪い連中にとってはな」
リシェは灰壺の底を見た。
空。
白い底。
何も残っていないように見える。
しかし、そこに紙片があった。
宣言があった。
誰かが意図を持って残した言葉があった。
これは、終わった事件ではない。
進行中の葬送妨害だ。
「ミアさんの葬送名を確定する必要があります」
リシェは言った。
セナが驚いたように顔を上げる。
「ですが、生前名は欠落しています。遺体灰もありません。罪名清算中で、葬送名未定。通常なら、裁定待ちになります」
「待てば、空白が広がります」
リシェははっきりと言った。
「ニアさんの証言があります。残響があります。罪名が濡れ衣である可能性も高い。今必要なのは、罪名を残すことでも、白紙にすることでもありません」
アスターがリシェを見る。
ルゼも、黙って続きを待つ。
リシェは、灰壺の前で静かに言った。
「死者が眠れる形で、名を閉じることです」
それは、まだ完全な答えではない。
けれど、いま彼女が選べる答えだった。
灰化許可院の奥で、小さな炉がぱちりと鳴った。
小火のような、かすかな音だった。
セナが灰壺を封印し直す。
ルゼが白紙片を黒布で包む。
アスターが自分の葬送札を確かめるように触れる。
リシェは調査帳を閉じる。
次に向かうべき場所は決まっていた。
墓碑回廊。
ニアの証言を正式に取り、葬送名を刻む場所。
リシェは灰化許可院の扉へ向かって歩き出した。
背後で、アスターが呼ぶ。
「リシェ」
彼女は振り返る。
アスターは少し照れくさそうに笑った。
「忘れないように、呼んだだけ」
リシェは一瞬、言葉を失った。
それから、静かに頷く。
「はい。アスター」
アスターの輪郭が、ほんの少しだけ濃くなった。
名前を呼ぶ。
それだけで、空白に抵抗できることがある。
リシェは、その小さな事実を胸に刻みながら、灰化許可院を出た。




