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第9節 ― 葬送名

墓碑回廊は、ネム=レクスの中心を囲むように造られている。


地上に開かれた白い回廊。

黒い石柱。

天井のない長い廊下。

その両側には、無数の墓碑が並んでいた。


墓碑は、ただの石ではない。


死者の名を受け止め、閉じ、眠りへ送るための記録器官である。

そこに刻まれた名は、生者の呼び声から少しずつ離れ、ネム=レクスの眠りへ移される。


名を消すためではない。

名を縛るためでもない。

死者が、もう戻らなくてよいように。

生者が、死者を無理に呼び戻さなくてよいように。


そのための場所だった。


リシェは、墓碑回廊の入口で足を止めた。


灰化許可院から運ばれてきた空の灰壺。

無名死者受付所から戻された空欄の棺。

死者名記録庁で見つかった灰化記録。

ニアの証言を記した調査帳。

そして、封印布に包まれた白紙片。


それらが、仮の裁定卓の上に並べられている。


本来なら、葬送法院に回されるべき案件だった。

死者名の欠落。

罪名清算。

空名会の関与。

遺族記憶への干渉。


一つでも十分に重い。

それがいくつも重なっている。


だが、待っていれば、空白が進む。


ニアの記憶はまだ完全ではない。

アスターの葬送札にも黒い滲みが残っている。

空欄の棺の内側の傷は、時間とともに深くなっている。


このまま正式手続きを待てば、正しさだけが残って、死者が消える。


リシェは、それを恐れていた。


回廊の奥で、鐘守が立っている。

黒い外套をまとい、胸には眠りの鐘の小さな紋章。

その隣には、オルヴァ主任。

さらに少し離れて、ルゼが札箱を抱え、壁にもたれている。


アスターはリシェの隣にいた。

首元の空欄札は、まだわずかに黒く滲んでいる。

けれど、先ほどより輪郭は安定していた。


彼は回廊に並ぶ墓碑を見上げて、少しだけ肩をすくめる。


「ここ、静かだね」


「墓碑回廊ですから」


「いや、墓地の静かさとは違う。誰かが黙ってるんじゃなくて、ちゃんと眠ってる感じ」


リシェは少し驚いて、アスターを見た。


「わかるのですか」


「なんとなく。ここにいる死者は、呼んでも戻ってこなさそう」


「それが葬送の目的です」


「じゃあ、いい場所なんだ」


アスターは小さく言った。


「ちょっと怖いけど」


リシェは答えなかった。


怖いのは当然だ。

ここは死者が眠る場所だ。

アスター自身が、いつかここに送られるかもしれない場所でもある。


それを言葉にすることはできなかった。


ルゼが壁際から声をかける。


「幽霊が墓碑回廊でしんみりしてると、絵面が重いぞ」


アスターは顔を向ける。


「じゃあ何してればいいの」


「踊るなり、消えるなり」


「後半が不吉」


「じゃあ踊れ」


「死者に芸を求めないで」


リシェは軽く咳払いした。


「二人とも、ここは葬送の場です」


ルゼは肩をすくめる。


「だから軽くしてやってるんだろ」


アスターが頷く。


「僕、いま少し助かった」


リシェは二人を見る。


ルゼはだらしなく立っている。

アスターは軽く笑っている。


けれど、二人とも本当は、この場の重さをわかっている。


ルゼは、名のない死者に仮名を与えてきた男だ。

アスターは、自分の名を失った死者だ。


軽口は、逃げではない。

消えないための小さな杭なのかもしれない。


回廊の向こうから、ニアが歩いてきた。


白花市場の店主に付き添われている。

借り物の黒い外套。

袖は相変わらず長く、指先を覆っている。

両手には、白花の小さな束。


ニアは回廊に入ると、足を止めた。


白い墓碑の列。

空欄の棺。

灰壺。

記録官たち。


そのすべてを見て、彼女は怯えたように肩を縮めた。


リシェは彼女の前まで歩み寄り、膝をついた。


「ニアさん。来てくださってありがとうございます」


ニアは小さく首を振った。


「わたし、来たほうがいいって……お店の人が。でも、まだ、よくわからないんです」


「無理にすべて思い出す必要はありません」


「でも、思い出さなきゃ、お姉ちゃんが……」


言いかけて、ニアの唇が震える。


お姉ちゃん。


その呼び声だけは、もう消えない。

けれど、呼び声の向こうにある顔は、まだ曇っている。


リシェは静かに言った。


「今日は、お姉さんの名前を決めに来たのではありません」


ニアは目を上げた。


「え?」


「お姉さんが、どの名で眠れるかを探しに来ました」


ニアはその違いがよくわからないようだった。


リシェ自身も、数時間前なら、もっと簡単に説明したかもしれない。

正しい名を探す。

葬送名を確定する。

墓碑に刻む。


でも今は、それだけでは足りないとわかっていた。


名は、正しければよいわけではない。

記録に合っていればよいわけでもない。

生者が望めばよいわけでもない。


死者が眠れる形でなければならない。


オルヴァが裁定卓の前に立った。


「臨時葬送名審理を始めます」


声は淡々としている。


「対象死者。白花市場下層花売り。ルベル家長女と推定。生前名、部分欠落。死者名記録においては、対象名『白花盗みのミア』として灰化許可院に転送済み。罪名清算申請中。遺体状態、灰化済み。灰壺、空。葬送名、未定」


ニアが震えた。


「白花盗み……」


その言葉が、幼い胸を刺す。


リシェはニアのそばに立った。


「これは、確定した名ではありません」


「でも、お姉ちゃんのことですか」


リシェはすぐに答えられなかった。


嘘はつけない。


「お姉さんに押しつけられた可能性のある名です」


ニアは顔を歪めた。


「違います。お姉ちゃんは、盗ってない」


「はい」


リシェは頷く。


「私も、そう考えています」


オルヴァは視線を動かさずに言った。


「現時点で、選択肢は三つあります」


リシェは胸の前で調査帳を抱えた。


三つ。


一つ目。


公的記録に従い、「白花盗みのミア」として葬る。


それは制度上、最も簡単な方法だった。

記録に残っている名を採用する。

灰化許可院に回された対象名を、そのまま墓碑へ仮刻する。


だが、それでは死者は濡れ衣に縛られる。


ニアは、一生その墓碑を見るたびに思うだろう。

姉は盗人ではなかった、と。


死者は眠るのではなく、罪名に括りつけられる。


二つ目。


空名会のように、名を白紙にする。


罪名は残らない。

誰も姉を盗人とは呼べなくなる。

ニアが恐れていた痛みは、消えるかもしれない。


けれど、それは姉そのものも奪う。


パンを半分くれた人。

白花を枕元に置いてくれた人。

寝坊して、寝癖のまま花籠を持ってくれた人。

ニアをひとりにしないで、と願った人。


その人まで、白紙にされる。


三つ目。


生前名の断片と、妹の呼び声を合わせて葬送名を作る。


規則の余白を使う判断だ。

危うい。

完全な生前名が復元できていない。

死者本人の明確な同意も、まだ取れていない。


だが、それでも、そこには残っているものがある。


ニアの呼び声。

死者の願い。

残響に残った温度。


リシェは、三つ目を選ぶしかないと思っていた。


けれど、それはリシェだけで決めてよいことではない。


彼女はニアへ向き直った。


「ニアさん。お姉さんについて、もう一度教えてください」


ニアは布切れを握る。


「でも、名前はまだ……」


「名前でなくてかまいません」


リシェは静かに言った。


「お姉さんが、どんな人だったかを教えてください」


ニアは不安そうに回廊を見た。


墓碑。

記録官。

鐘守。

灰壺。

空欄の棺。


こんな場所で話すには、あまりにも小さな記憶ばかりだと思ったのかもしれない。


けれどリシェは待った。


死者は待ってくれる。


生者の言葉も、急かしてはいけない。


やがて、ニアは小さな声で話し始めた。


「お姉ちゃんは、朝が苦手でした」


回廊の空気が、少しだけ変わる。


「いつも、もう少しだけって言うんです。でも、わたしが花籠を持つと、慌てて起きて。髪が跳ねてるのに、そのまま走ってきて……『あんた一人に持たせるわけないでしょ』って」


リシェは調査帳へ記す。


アスターは、ニアのそばに立っていた。

彼女には見えていない。

けれど彼は、まるで証言を聞く参列者の一人のように、静かに耳を傾けている。


ニアは続けた。


「寒い日は、パンを半分くれました。お姉ちゃんのほうが、お腹が空いてたのに。『私は売りながらつまみ食いしたから』って言うんです。でも、嘘です。お姉ちゃん、つまみ食いしたら顔に出るから」


アスターが小さく言う。


「いいお姉ちゃんだね」


ニアには聞こえない。

けれど、リシェは頷いた。


「はい」


ニアの声は、涙で震えながらも少しずつ強くなる。


「売れ残りの白花を、枕元に置いてくれました。『売れ残りじゃないよ、今日いちばんきれいだったやつ』って。嘘だってわかってたけど、わたし、嬉しかった」


彼女は白花の束を見下ろした。


「お姉ちゃんの手、いつも赤かったです。花の茎で切れて、冬はひび割れて。それでも、わたしの花籠の持ち手には布を巻いてくれました。自分の手には巻かないのに」


ルゼが壁際でぼそりと言う。


「そういうやつから先に削られる」


リシェは振り返る。


ルゼは目を逸らした。


「何でもない」


ニアは気づかず続ける。


「市場の人に怒鳴られたときも、わたしを後ろに隠しました。借金取りが来たときも、『この子は関係ない』って。金箱のことだって……」


声が詰まる。


「お姉ちゃん、盗ってない」


リシェは筆を止めた。


「はい」


「でも、わたしのほうをみんなが見たんです。妹も同じだろうって。お姉ちゃん、それで……自分が悪いみたいに、黙って」


ニアは白花を握りしめた。


「わたしを、守ろうとしたんです」


回廊の奥で、空欄の棺が小さく軋んだ。


全員が振り向く。


棺の内側の傷が、わずかに形を変えている。

文字ではない。

花弁のように。

あるいは、手のひらのように。


アスターが息を呑む。


「反応してる」


リシェは棺を見た。


死者の名は、まだ戻らない。

だが、死者の輪郭は戻りつつある。


ニアの言葉が、空白に杭を打っている。


オルヴァが静かに言った。


「ベルレイン記録官。葬送名案を」


リシェは目を閉じた。


ミア。


残響の中で、白く塗り潰される直前に聞こえた名。

完全ではない。

だが、死者名記録庁の検索にも、罪名の中にも残っていた音。


ルベル。


家名は残っている。

妹ニアの記録に、ルベル家の欄があった。


そして、関係の名。


お姉ちゃん。


墓碑に「お姉ちゃん」とだけ刻むことはできない。

それはニアの呼び声であり、世界全体の名ではないからだ。


けれど、その呼び声を葬送名の核にすることはできる。


リシェは調査帳を開き、筆を取った。


「葬送名案」


彼女の声は震えなかった。


「ミア=ルベル。白花を売り、妹に春を残した者」


ニアが顔を上げた。


「ミア……」


その音が、彼女の口の中で震える。


「それが、お姉ちゃんの名前……?」


リシェは慎重に答える。


「完全に戻ったわけではありません。ですが、記録の中に残っていた音と、あなたの証言が一致します」


「ミア」


ニアはもう一度呼んだ。


その瞬間、空欄の棺の内側に残っていた白い花粉が、ふわりと浮かんだ。


墓碑回廊の空気が動く。


名のない墓碑の列の奥から、かすかに白い光が返ってくる。


アスターが静かに言った。


「今、少し温かかった」


ルゼがぼそりと返す。


「幽霊の温度感想は当てになるのか」


「たぶん」


「たぶんは禁止だって言ったろ」


「じゃあ、かなり温かかった」


「雑に強めるな」


リシェは二人のやり取りに少しだけ息を緩めた。

だが、すぐに表情を正す。


「罪名は墓碑に刻みません」


オルヴァが問う。


「記録から消すのですか」


「いいえ」


リシェは首を振った。


「罪名が付与された事実は、封印記録として墓碑裏面に残します。金箱盗難と濡れ衣の可能性、灰化申請の不備、空名会関与の疑いも併記します」


「なぜ残すのですか」


オルヴァの声は試すようだった。


リシェはまっすぐ答える。


「完全に消せば、同じことが繰り返されます。けれど表に刻めば、死者が罪名で呼ばれ続けます。だから、死者を縛らない形で閉じます」


オルヴァは黙っていた。


リシェは続ける。


「記録は、死者を罰し続けるためのものではありません。ですが、都合よく消すためのものでもありません」


アスターがリシェを見る。


ルゼも、珍しく何も言わない。


ニアは、まだ意味をすべて理解しているわけではない。

それでも、姉の名が盗人として刻まれないことだけはわかったのだろう。


白花を抱えたまま、涙をこぼした。


オルヴァはゆっくりと頷いた。


「臨時葬送名案、受理します」


リシェは息を吸った。


「墓碑師を」


「呼んであります」


オルヴァが言うと、回廊の奥から一人の男が現れた。


白髪混じりの墓碑師だった。

背は低いが、腕は太い。

作業用の黒前掛けに、石粉がついている。

手には、細い銀鑿と骨槌。


彼は状況をざっと見て、眉をしかめた。


「また面倒な名だな」


リシェは頭を下げる。


「お願いします」


墓碑師は鼻を鳴らした。


「記録官ってのは、いつも簡単に言う。石に刻むのはこっちだぞ」


「すみません」


「謝るなら、最初から読みやすい字で書け」


「努力します」


「努力じゃなくて練習しろ」


ルゼが横から笑った。


「言われてるぞ、ベルレイン」


「あなたの字も相当です」


「俺は正式墓碑に刻まない」


「仮札に書きます」


「仮札は気合いで読め」


「死者に不親切です」


墓碑師が二人を睨む。


「葬送の前に喧嘩するな。石が迷う」


アスターが小声で言う。


「石って迷うんだ」


リシェも小声で返す。


「墓碑師の方は、よくそう言います」


「職人の世界だ」


墓碑師は空欄の墓碑をひとつ選んだ。


白い石。

何も刻まれていない。

ただ、中央にわずかな凹みがある。

まるで、最初からこの名を待っていたようだった。


ニアが震える手で白花を握る。


リシェは彼女のそばに立つ。


「見ていてください」


「はい」


墓碑師が鑿を当てる。


最初の一打が、回廊に響いた。


こん。


澄んだ音だった。


二打目。

三打目。


石に文字が生まれていく。


ミア=ルベル。


その名が刻まれた瞬間、空欄の棺が静かに軋んだ。

先ほどまで内側にあった文字未満の傷が、ふっと薄くなる。


まるで、棺の中で爪を立てていた誰かが、ようやく力を抜いたように。


ニアは口元を押さえた。


「ミア……」


また、名前を呼ぶ。


今度は、少しだけ自然に。


墓碑師は続ける。


白花を売り、妹に春を残した者。


長い名だ。

けれど、ただの説明ではない。


生きた証。

誰かに残したもの。

死者が罪名ではなく、関係と行為によって眠るための言葉。


刻み終えた墓碑師は、額の汗を拭った。


「これで表はいい」


リシェは頷く。


「裏面をお願いします」


墓碑師はリシェを見る。


「本当に残すんだな」


「はい」


「残せば、いつか誰かが読むぞ」


「読まれるべき時のために残します」


「消したほうが楽だ」


「楽な葬送が、正しいとは限りません」


墓碑師は少しだけ口元を歪めた。


「若いのに面倒なことを言う」


「よく言われます」


「だろうな」


墓碑師は墓碑の裏側へ回った。


そこには、表より小さな文字で封印記録が刻まれる。


白花市場金箱盗難疑義。

罪名付与未確定。

灰化申請不備。

空名会関与疑い。

死者本人の願い――ニアをひとりにしないで。


最後の一文を刻むとき、リシェは少しだけ目を閉じた。


残響の中で聞いた声。

裂かれ、黒く塗り潰されかけた声。


それを、完全には戻せない。


けれど、ここに置くことはできる。


死者を縛らない場所に。

それでも消えない場所に。


墓碑師が一歩下がった。


「終わりだ」


回廊が静まった。


鐘守が前へ出る。

胸に抱えていた小さな鐘を、両手で持ち上げる。


だが、リシェはその前に一歩進み出た。


「ニアさん」


ニアは顔を上げる。


「最後に、お姉さんへ花を」


ニアは震えながら墓碑へ近づいた。


白い花束を、墓碑の前に置く。


その手はまだ小さい。

姉に守られていた手。

花籠の布を巻いてもらっていた手。


ニアは墓碑に刻まれた名を見た。


ミア=ルベル。


完全に顔を思い出せたわけではなかった。

声も、まだ霧の向こうだ。

けれど、パンを半分くれた手を覚えている。

白花を枕元に置いてくれた夜を覚えている。

寝癖のまま走ってきた姿を覚えている。


それだけで、彼女はもう、誰のために泣いているのかわかった。


「おやすみ」


ニアの声は、震えていた。


「おやすみ、お姉ちゃん」


その瞬間、眠りの鐘が鳴った。


ごぉん。


今度は、正しい鐘だった。


朝に鳴った異常な鐘とは違う。

勝手に葬送を終わらせる音ではない。


死者の名が定まり、記録が閉じられ、生者の呼び声から死者の眠りへ移される音。


ごぉん。


鐘の音は、墓碑回廊を抜け、黒い石柱を震わせ、白花市場のほうへ流れていく。


どこかで、花売りたちが声を止める。

棺職人が手を止める。

記録庁の見習いたちが、菓子を取り合う手を一瞬止める。


ネム=レクスの街が、一人の死者の眠りを認める。


空欄の棺が、静かに閉じた。


誰も触れていないのに、蓋がゆっくりと降りる。

内側の傷は、完全には消えない。

けれど、もう爪を立てる痛みではなかった。


白花の花弁のような痕だけが残る。


アスターが息を吐くように言った。


「……閉じた」


リシェは頷く。


「はい」


「消えたんじゃないんだね」


「はい」


「眠った?」


「そうであってほしいです」


「記録官なのに、そこは断定しないんだ」


「死者の眠りを断定するのは、少し傲慢です」


アスターは小さく笑った。


「そういうところ、リシェらしい」


ルゼが札箱を閉じながら言う。


「ひとまず、空っぽの棺は迷子じゃなくなったな」


「迷子、ですか」


リシェが聞き返す。


「名前がない死者は迷子だって言ったろ」


「はい」


ルゼは墓碑を見る。


「今日は、帰る場所ができた」


ニアは墓碑の前で泣いていた。


今度は、理由のある涙だった。


リシェは彼女の横に膝をつく。


「ニアさん」


「はい」


「お姉さんの顔を、全部思い出せなくても構いません」


ニアは涙の中でリシェを見る。


「でも」


「忘れてしまったところを責めないでください。奪われたものまで、あなたのせいにしてはいけません」


ニアの目が揺れる。


「わたし、忘れたくなかった」


「はい」


「お姉ちゃんのこと、忘れたくなかった」


「はい」


リシェは静かに頷いた。


「だから、ここに記しました」


ニアは墓碑を見る。


ミア=ルベル。

白花を売り、妹に春を残した者。


「これは、消えませんか」


リシェは少し考えた。


絶対に消えないとは言えない。

空名会はまだいる。

白紙は、記録にも記憶にも干渉する。


それでも、リシェは答えた。


「消させません」


ニアは、こくりと頷いた。


その答えだけで、今は十分だった。


オルヴァがリシェのそばへ来る。


「危うい判断でした」


リシェは立ち上がる。


「はい」


「規則の余白を使った」


「はい」


「葬送法院に報告が必要です」


「はい」


「書類は増えます」


リシェは少しだけ沈黙した。


アスターが横から囁く。


「そこが一番こたえてる顔だ」


リシェは小声で返す。


「否定できません」


オルヴァは眼鏡の奥で、ほんのわずかに目を細めた。


「ですが、悪くありませんでした」


リシェは顔を上げる。


「主任」


「死者を白紙にせず、罪名にも縛らず、遺族の呼び声だけにも閉じ込めなかった。記録官として、最善ではなくとも、今日選べる誠実ではありました」


リシェは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。報告書を三倍書きなさい」


「三倍」


「危うい判断には、危うくない記録が必要です」


アスターが笑う。


「やっぱり最後は書類なんだ」


ルゼも肩をすくめる。


「葬送都市だからな。泣いても笑っても最後は帳に戻る」


リシェは墓碑を見た。


ミア=ルベル。

白花を売り、妹に春を残した者。


名は、生者が所有するものではない。


死者が、眠るために持っていく最後の荷物。


リシェは、その言葉を心の中で確かめた。


それは、今日見つけたばかりの答えだった。

まだ脆く、まだ未完成で、いつか別の死者を前にしたとき揺らぐかもしれない。


けれど今、この墓碑の前では、その答えでよかった。


アスターが、ふと自分の首元の葬送札に触れた。


黒い滲みは、まだ残っている。

名欄は空白のまま。

彼の葬送名は、まだない。


リシェはそれに気づいた。


「アスター」


「何?」


「あなたの名も、探します」


彼は少し驚いた顔をした。


「いま言うんだ」


「今、言うべきだと思いました」


「僕の墓碑も、こんなふうに長くなる?」


「必要なら」


「『よく喋り、よく忘れ、記録官に迷惑をかけた者』とか?」


「候補には入れません」


「即却下」


「ですが」


リシェは少しだけ考えた。


「あなたがどんな名で眠りたいのかは、あなたに聞きます」


アスターは、しばらく何も言わなかった。


鐘の余韻が、まだ回廊に残っている。


やがて彼は、いつものように軽く笑おうとして、少し失敗した。


「じゃあ、忘れないでね」


リシェはまっすぐ答えた。


「忘れません」


アスターは首元の空欄札を押さえたまま、小さく頷いた。


墓碑回廊に、白花の香りが薄く広がっていく。


アスターには、たぶんその匂いは届いていない。

それでも彼は、花のほうを見た。


そして、誰にも聞こえないほど小さく言った。


「おやすみ、ミア」


その呼び声に応えるように、墓碑の文字が一度だけ、淡く白く光った。

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