表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/11

第7節 ― 空名会の白紙

死者名記録庁へ戻るころには、白花市場の甘い匂いは、リシェの指先からほとんど消えていた。


代わりに残っていたのは、冷たい棺の感触。

アスターの手の薄さ。

残響の中で聞いた、あの声。


――ニアを、ひとりにしないで。


名前ではなかった。

けれど、願いだった。


死者が最後に残した願い。

それが白紙に塗り潰される瞬間を、リシェは見た。


記録官として、彼女は怒っていた。

けれど、その怒りをそのまま表に出すことはできない。


死者名記録庁では、感情は証拠にならない。

涙も、怒りも、直感も、帳に記すには形が足りない。


必要なのは記録だった。


誰が死んだのか。

どの名で死んだのか。

どの名で葬られようとしていたのか。

どの時点で、名が失われたのか。


それを探さなければならない。


リシェは記録庁の裏口から中へ入った。


玄関広間を抜けると、朝よりもさらに慌ただしくなっていた。

長い記録机の上には、死者名簿、葬送申請書、仮名照合書、墓碑転写依頼、灰化許可申請書が山のように積まれている。


見習い記録官たちは、相変わらず甘い焼き菓子を片手に走り回っていた。


「東墓碑回廊の綴り修正、戻りました!」


「違う、それは東じゃなくて西! 東の死者を西に移したら、遺族が迷子になる!」


「記録上は近道です!」


「記録上で近道するな!」


「誰ですか、私の白花菓子に『供物』って札をつけたの!」


「名前を書いてなかったから」


「またその理屈ですか! ここ死者名記録庁ですよ!」


その騒がしさの中で、アスターは目を丸くしていた。


「ここ、さっきの市場より騒がしくない?」


「仕事中です」


リシェは淡々と答えた。


「これで?」


「はい」


「死者名記録庁って、もっと荘厳な場所だと思ってた」


「荘厳な場所にも締切はあります」


「締切って、死者にもあるんだ」


「あります。葬送予定、墓碑記入、閉帳式、遺族照合。遅れると全員が困ります」


「死んでも予定に追われるのか……」


アスターは少し遠い目をした。


「僕、予定表がない死者でよかったのかもしれない」


「よくありません」


「即答」


リシェは調査帳を胸に抱えたまま、記録検索室へ向かった。


その入口に、主任記録官オルヴァ=セインが立っていた。

相変わらず皺ひとつない制服。

冷たい眼鏡。

手元には、すでに数枚の報告書がある。


「戻りましたか、ベルレイン記録官」


「はい」


「顔色が悪い」


「残響を見ました」


「何を」


「白花市場。花売りの少女。金箱の盗難騒ぎ。濡れ衣。白い布の人物。空名会の可能性があります」


オルヴァの表情は変わらなかった。


だが、周囲の空気がわずかに硬くなる。


「空名会、ですか」


「断定はできません。ただ、言葉が一致しています」


リシェは調査帳を開いた。


「苦しい名なら、消してあげましょう。罪名も、痛みも、誰かに奪われた呼び名も、すべて消せる。白紙は、優しい眠りです」


オルヴァの指が、書類の端を静かに押さえた。


「……その言い回しは、記録庁内で扱いを制限しているものです」


アスターがリシェの後ろから小声で聞いた。


「扱いを制限って?」


リシェも小声で返す。


「不用意に広めると、模倣や便乗が出るためです」


「犯罪者の決め台詞って、管理されるんだ」


「犯罪者とは限りません」


「え?」


リシェは言葉を止めた。


言ってから、自分で気づく。


空名会は犯罪組織だ。

少なくとも、死者名簿を白紙化し、墓碑から名を消し、遺族の記憶を削る行為は重罪である。


けれど。


罪名を消してほしいと願ったニアの声まで、リシェは否定できない。


姉を「盗人」として記されたくなかった。

その願いだけは、間違っていなかった。


オルヴァはリシェの一瞬の沈黙を見逃さなかった。


「迷っていますね」


リシェは目を伏せずに答えた。


「はい」


「よろしい」


「よろしい、のですか」


「迷わない記録官は危険です。死者の名を扱う者が迷わなくなれば、それは記録ではなく処理になる」


オルヴァは記録検索室の扉を開いた。


「ただし、迷いながらでも手は動かしなさい。記録は待ってくれません」


「死者は待ってくれるが、書類は待ってくれない、ですか」


「覚えているなら遅刻も減らしなさい」


「努力します」


「それは減らない返答です」


アスターが小さく笑った。


「この人、リシェの扱いに慣れてる」


オルヴァの目が、わずかにリシェの後ろへ向いた。


リシェは一瞬、身構える。


「主任」


「何かいますね」


アスターの笑顔が固まる。


「え、見えるの?」


オルヴァは眼鏡を押し上げた。


「見えません。ただ、ベルレイン記録官が背後に向けて会話を挟んでいるときは、だいたい死者か猫か子どもです」


「私の分類が雑ではありませんか」


「過去の統計です」


アスターは少し安心したように胸を撫で下ろした。


「猫と同じ枠かあ」


「猫に失礼です」


リシェが即答すると、アスターは目を丸くする。


「今の、僕に失礼じゃない?」


「はい」


「認めた」


オルヴァは二人のやり取りには深く踏み込まず、検索室の中へ進んだ。


記録検索室は、死者名記録庁の中でも特に静かな部屋だった。


壁一面に、背の高い記録棚が並んでいる。

棚には、都市の各区画ごと、死亡日ごと、葬送分類ごとに死者名簿の写しが収められていた。

部屋の中央には、黒い石でできた検索台がある。


検索台の表面には、無数の細い溝が刻まれていた。

名を探すための構文溝。

筆記具で名や属性を書き込むと、該当する記録が棚から浮かび上がる仕組みである。


リシェは検索台の前に立った。


「対象候補。白花市場。下層花売り。ニアの姉。市場金箱盗難。罪名、白花盗み。死亡または灰化申請済み。期間、過去七日以内」


オルヴァは傍らで腕を組む。


「まず生前名から」


リシェは頷き、調査帳に残ったかすかな音を思い出した。


ミ――


そこから先は白く濁った。

けれど、残響の中で一瞬だけ聞こえた輪郭がある。


「ミア=ルベル」


検索台に、骨白の筆記具でその名を書く。


墨が溝に流れ込んだ。


黒い線が淡く光る。

棚の奥で、何冊かの帳がかすかに揺れた。


だが、すぐに静まる。


検索台の中央に、白い文字が浮かび上がった。


――該当記録なし。


アスターが覗き込む。


「ないって」


リシェは表情を変えず、もう一度書く。


「ミア。白花市場。下層。ニア。姉」


墨が流れる。


――該当記録なし。


「ミア=ルベル。花売り。仮名登録」


――該当記録なし。


「ルベル家。死亡記録。下層区」


今度は、棚の奥で一冊の薄い帳が揺れた。


しかし、浮かび上がってきたのは古い債務記録の写しだった。


リシェはそれを開く。


ルベル家。

両親死亡済み。

未成年扶養者二名。

債務引継ぎ未整理。

花売り登録あり。


姉妹の記録があるはずだった。

だが、姉の名前が書かれていたと思われる欄だけが、白く抜けていた。


妹の欄には、ニア=ルベルとある。


姉の欄は空白。


アスターが小さく言う。


「また、抜かれてる」


リシェは帳の端を押さえる指に力を込めた。


「生前記録からも」


オルヴァが静かに言う。


「死亡後だけではないようですね」


「生者の記録にまで干渉しているということですか」


「少なくとも、家族構成の記録には穴が開いています」


リシェは別の検索語を入れる。


「白花盗み」


検索台の溝が、今度は強く光った。


棚の一角から、灰色の綴じ紐でまとめられた書類束が浮かび上がる。

それは通常の死者名簿ではなかった。


灰化許可院への転送記録。


リシェは書類束を受け取った瞬間、指先にざらつきを感じた。


灰の感触。

それも、ウル=マリスの正式な清算灰とは少し違う。

残響の中で見た白い札の冷たさに近いものがある。


表紙にはこう記されていた。


対象名――白花盗みのミア。

処理区分――罪名清算申請中。

遺体状態――灰化済み。

葬送名――未定。

備考――遺族希望により名の伏せを検討。


リシェは呼吸を止めた。


アスターが読み上げる。


「白花盗みのミア……」


彼の声が、少しだけ低くなる。


「それ、名前なの?」


リシェは答えられなかった。


オルヴァが淡々と補足する。


「罪名を含む仮死者名です。罪状が未確定のまま死亡した者、または審理中に死亡記録へ移行した者に、一時的に付与される場合があります」


「一時的って言うけど」


アスターは眉を寄せた。


「こんなの、呼ばれたら嫌だよ」


「そうですね」


リシェは静かに答えた。


「この名では、眠れません」


リシェは書類をめくった。


申請者欄。

そこには、遺族名としてニア=ルベルの名が記されている。

ただし、筆跡が不安定だった。


幼い手で書いたものではない。

誰かに導かれて書かされた署名。

あるいは、署名だけを取られた書類。


リシェの眉がわずかに動く。


「ニアさんが、これを理解して申請したとは思えません」


オルヴァは書類を覗き込む。


「申請補助者の欄は」


リシェは頁をめくる。


空白だった。


記録されていない。

いや、記録された跡が白く抜かれている。


アスターが指をさす。


「ここ、何か書いてあった?」


「はい」


「消えてる?」


「抜かれています」


「名前を書く場所ごと?」


リシェは頷いた。


「空名と同じです」


検索室の空気が冷えた。


リシェは、申請補助者欄の空白を見つめた。


そこは、ただ何も書かれていない欄ではなかった。

書かれるはずだったものが、欄ごと白く抜き取られている。


紙の繊維は残っている。

帳の形式も崩れていない。

けれど、そこにあったはずの名だけが、紙の奥から剥がされたように消えていた。


リシェは指先を近づけた。


「触れるな」


オルヴァの声が飛ぶ。


リシェは手を止めた。


「主任」


「白く抜けた記録は、空欄ではありません。傷です」


その言葉に、アスターが少しだけ眉をひそめる。


「傷……」


「紙についた傷。帳についた傷。死者についた傷。どれも、見た目より深い」


オルヴァは淡々と言った。


リシェは、手を下ろした。


そのときだった。


申請補助者欄の白さが、ふいに揺れた。


風が吹いたわけではない。

記録検索室の窓は閉じている。

棚に並ぶ死者名簿も、検索台の灯も、動いていない。


揺れたのは、その白く抜けた欄だけだった。


細い波紋が、紙の奥へ走る。


リシェは目を細めた。


白い欄の底に、何かが映っている。


黒いシルクハット。

白い外套。

細い杖。


そして、見る角度によって白い獣を思わせる、奇妙に整った貌。


その紳士は、紙の向こう側から、こちらを覗き込んでいた。


「白紙、か」


声がした。


耳に届いたのか、指先に触れたのか、リシェには分からなかった。


「人はいつも、余白と白紙を取り違える」


リシェは息を止めた。


アスターは気づいているのか。

オルヴァは見えているのか。


分からない。


少なくとも、誰も声を上げなかった。


白い紳士は、空欄の奥で楽しそうに目を細める。


「余白は、まだ記されていない場所だ。だが白紙は、記されたものを消した跡であることがある」


リシェの黒手袋の下で、指先が冷えた。


第3節で聞いた問いが、胸の奥で蘇る。


聞こえない名を、君は名と呼ぶのかな。


今度の問いは、それよりも少しだけ鋭かった。


「記さないことは、時に慈悲だ。けれど、記されたものを奪うことは、たいてい暴力だ」


白く抜けた欄の端が、ぱきりと乾いた音を立てた。


アスターが小さく肩を跳ねさせる。


「今の、聞こえた?」


リシェは答えられなかった。


オルヴァは、白く抜けた欄から目を離さずに言った。


「記録の傷が、鳴っただけです」


その声は冷静だった。


だが、リシェには分かった。


主任は、何かを見たのではない。

けれど、何かがそこを通ったことには気づいている。


リシェはもう一度、申請補助者欄を見た。


そこに紳士の姿はなかった。

黒い帽子も、白い外套も、獣の貌もない。


ただ、紙は白いままだった。


けれどリシェには、もうそれが無垢な白には見えなかった。


空白ではない。

余白でもない。


誰かが記されたものを奪い、そこに白さだけを残した跡。


リシェは、静かに息を吸った。


「続けます」


オルヴァは短く頷いた。


「そうしなさい。見えたものに立ち止まるな。記録官は、見えたものの先を追う仕事です」


リシェはさらに記録を追う。


搬入先。

灰化許可院、第三灰室。

灰化理由。

罪名清算に伴う仮処理。

遺体状態。

灰化済み。


リシェの指が止まった。


「遺体は、すでに灰化されています」


アスターが顔を上げる。


「じゃあ、あの棺が空だったのは」


「死者がいなかったからではありません」


リシェの声は、自分でも驚くほど低かった。


「本来眠るべき名が、遺体から切り離されていたからです」


アスターは何も言わなかった。


オルヴァはリシェを見た。


「落ち着きなさい」


リシェは答えない。


書類の上で、白花盗みのミアという文字が目に刺さる。


白花を売り、妹にパンを半分分けた少女。

朝が弱く、寝癖のまま走り出し、妹の花籠を必ず半分持った少女。

ニアをひとりにしないで、と願った少女。


その死者に、残された仮名がこれなのか。


白花盗みのミア。


盗人としての名。


しかも、その名すら清算という名目で灰化され、最後には白紙にされようとしている。


リシェの胸の奥で、何かが熱を持った。


「これは救いではありません」


静かな声だった。


だが、検索室の空気が震えた。


アスターがリシェを見る。


オルヴァも、書類から顔を上げる。


リシェは書類を握りしめなかった。

記録を乱さないために、指先だけを静かに置いたまま、言った。


「これは救いではありません。死者を、もう一度殺しているだけです」


検索室に沈黙が落ちる。


遠くの作業室から、誰かが菓子を奪われて抗議する声が聞こえた。


「それ、私のです!」


「供物札がついてた!」


「生者の食べ物に供物札をつけないでください!」


その声はすぐに遠ざかった。


日常の騒がしさが、この部屋だけ届きにくくなる。


オルヴァはゆっくりと言った。


「ベルレイン記録官。怒りは理解します」


リシェは顔を上げる。


「では」


「ですが、記録官が感情で判断してはなりません」


その言葉は冷たかった。


けれど、リシェは知っている。

オルヴァの声が冷たいのは、感情がないからではない。

感情で死者の記録を壊さないために、冷たくしているのだ。


それでも、今はその冷たさが痛かった。


「遺族が名の抹消を望む場合もあります」


オルヴァは続ける。


「罪名、虐待名、蔑称、呪名。死者に押しつけられた名を消すことで、ようやく眠れる者もいる。ウル=マリスの灰化許可は、そのために存在します」


「それは、本人の意思を確認した場合です」


リシェはすぐに返した。


「今回、死者本人の意思は確認されていません。ニアさんも、姉そのものを消したかったわけではありません」


「あなたは残響で見た」


「はい」


「それは正式な証言ではありません」


リシェは言葉に詰まった。


終名聴取や残響確認は、記録官の重要な技術だ。

だが、すべてが法廷証拠になるわけではない。

特に、記録が干渉を受けている場合、残響は歪む。


リシェはそれを知っている。


知っているからこそ、悔しかった。


アスターが横から口を開いた。


「でも、ニアは泣いてた」


オルヴァの視線が、声のした方へ向く。


見えてはいない。

だが、声の輪郭を感じ取っているようだった。


リシェは小さく説明する。


「アスターです」


「その仮称の死者ですね」


「はい」


アスターは少し緊張したように背筋を伸ばした。


「えっと、初めまして。記録できない死者です」


「自己紹介としては最悪ですね」


オルヴァが淡々と言う。


アスターは少し傷ついた顔をした。


「リシェの上司、厳しい」


「事実です」


「リシェまで」


オルヴァは続けた。


「ニアが泣いていた。それは重要です。ただし、涙は証拠ではありません」


アスターの表情が少し変わった。


「じゃあ、何なの」


「手がかりです」


オルヴァは即答した。


「証拠にはならなくても、記録官が向かうべき方向を示すことはある」


リシェはオルヴァを見る。


オルヴァはリシェに視線を戻した。


「私は止めていません。手順を踏めと言っています」


リシェは唇を引き結んだ。


「……承知しました」


「まず、灰化許可院で灰化記録を確認しなさい。誰が申請し、誰が処理し、どの灰室を通ったのか。申請補助者欄が抜けているなら、原本か灰室写しに痕跡が残っている可能性があります」


「はい」


「次に、白花市場の金箱盗難記録を商人組合から取り寄せること」


「はい」


「そして、ニア=ルベルの保護申請を出しなさい。遺族記憶への干渉が継続している可能性があります」


リシェは一瞬、目を見開いた。


「ニアさんを、保護対象にしてよいのですか」


「当然です」


オルヴァは眼鏡を押し上げた。


「死者を記録するには、生者の証言が必要です。その証言者が削られかけているなら、守るのも記録庁の仕事です」


リシェの胸の奥に、少しだけ熱とは違うものが広がった。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。書類を三枚出しなさい」


「三枚」


「保護申請、証言保持申請、葬送裁定保留申請」


アスターが小声で言う。


「急に現実的」


リシェも小声で返す。


「記録庁ですから」


オルヴァが言う。


「そこ、私語をしない」


「聞こえているのですか」


「ベルレイン記録官の私語の癖は把握しています」


「私の扱いも厳しい」


アスターがぽつりと言うと、オルヴァは少しだけ口元を動かした。


「記録されたいなら、まず扱われることに慣れなさい」


アスターは目を丸くした。


その言葉は、厳しい。

だが、拒絶ではなかった。


記録できない死者を、存在しないものとして扱わない。

見えなくても、声しかなくても、そこにいるものとして扱う。


アスターは少しだけ視線を落とした。


「……努力します」


「よろしい」


オルヴァは書類束を閉じた。


リシェは、改めて灰化許可記録を見た。


対象名――白花盗みのミア。

処理区分――罪名清算申請中。

遺体状態――灰化済み。

葬送名――未定。

備考――遺族希望により名の伏せを検討。


名を消すことは、時に救いになる。


それは事実だ。

リシェも否定できない。


罪名を背負わされた死者。

生前に利用された名前。

呼ばれるたびに苦痛を呼び戻す名。

遺族が縛られ続ける名。


そうしたものを、閉じる必要はある。


だが、閉じることと、なかったことにすることは違う。


リシェは、書類の上の「ミア」という文字を見つめた。


完全な名ではない。

罪名に汚された名。

けれど、そこにはまだ、ニアの姉へ繋がる細い糸がある。


それさえ切られたら、ニアは何を抱いて泣けばいいのだろう。


アスターが、そっと言った。


「ねえ、リシェ」


「はい」


「死者を記すのって、救いなの?」


リシェは答えようとして、止まった。


いつもの彼女なら、答えられた。


死者を記すことは、死者を名なしに捨てないための行為です。

死者名は、眠るための最後の権利です。

記録は、死者を生者の世界から正しく死者の眠りへ移すためにあります。


そう答えられた。


けれど今は、その答えが少しだけ揺れている。


ミアを「白花盗みのミア」と記すことは、救いではない。

ニアの願いを無視して本名だけを刻むことも、救いとは限らない。

だが、空名会のように白紙へ還すことは、もっと違う。


リシェは静かに答えた。


「わかりません」


アスターは驚いたように彼女を見た。


「記録官なのに?」


「記録官だからです」


リシェは書類を閉じる。


「記すことが救いになる死者もいます。記されたことで縛られる死者もいます。消してほしいと願う死者もいるでしょう。けれど、消されたくなかった死者もいるはずです」


「じゃあ、どうするの」


「聞きます」


リシェは顔を上げた。


「死者に。遺族に。記録に。残響に。どの名で眠りたいのか、何を閉じたいのか、何を残したいのか。聞ける限り聞きます」


「聞けなかったら?」


その問いは、アスター自身の問いでもあった。


記録できない死者。

声が欠けている死者。

名を書く場所ごと抜かれた死者。


リシェは、彼を見た。


「聞けるところまで、探します」


「頑固だね」


「はい」


「そこは否定しないんだ」


「否定する記録がありません」


アスターは少しだけ笑った。


その笑みは、残響の中で黒く滲んだときより、ほんの少しだけ温度があった。


オルヴァが書類を差し出した。


「灰化許可院へ行きなさい。第三灰室の記録を確認すること。ルゼ=カロウにも同行させなさい」


「ルゼさんをですか」


「無名死者受付所の札番として、仮札と灰化記録の照合に慣れています。加えて」


オルヴァは少し間を置いた。


「空名会に関して、彼は記録以上のことを知っている可能性があります」


リシェはそれ以上問わなかった。


ルゼが元・空名会関係者であること。

それは、本人が語るまでは記録にしてはいけない種類の過去だと感じた。


「承知しました」


「それと」


オルヴァは机の端に置かれていた白花菓子を一つ、リシェへ投げた。


リシェは驚きながら受け取る。


「主任?」


「食べなさい。顔が仕事をしすぎています」


「顔が仕事を」


「死者の前で倒れられると迷惑です」


アスターが小さく笑った。


「優しいんだか厳しいんだかわからないね」


「両方です」


リシェは白花菓子を見つめた。


朝、非常用として半分だけ残しておいたものではない。

新しい菓子だ。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。経費では落ちません」


「自腹ですか」


「記録しなくてよろしい」


リシェは少しだけ微笑んだ。


それから菓子を半分に割る。


半分を自分の口へ。

もう半分を、アスターへ差し出しかけて、手を止めた。


アスターは死者だ。

食べられない。

匂いも、味も、たぶん届かない。


アスターはその手元を見て、少し笑った。


「気持ちだけもらう」


リシェは頷いた。


「では、記録しておきます」


「何を?」


「アスター=ヴェイル。白花菓子を気持ちだけ受領」


「それ、残す必要ある?」


「あります」


「どうして」


リシェは真面目に答えた。


「あなたが、ここにいた記録です」


アスターは、何も言えなくなった。


オルヴァは二人を見て、ほんのわずかに目を細める。


「行きなさい、ベルレイン記録官」


リシェは調査帳と灰化許可記録を抱え直した。


「はい」


検索室を出ると、広間の騒がしさが戻ってくる。


菓子を取り合う見習いたち。

墓碑師への謝罪文を書かされている若い記録官。

死者名簿の束を抱えて走る職員。

甘い匂いと、インクの匂いと、古い帳の匂い。


死と生活が同じ場所にある。


その中を、リシェは歩く。


隣には、記録できない死者がいる。

腕には、罪名を背負わされた死者の記録がある。

胸の中には、ニアの「お姉ちゃん」という呼び声が残っている。


死者を記すことは救いか。


それとも、名で縛ることか。


まだ答えはない。


けれど、空白にすることだけは違う。


リシェは、灰化許可院へ向かう廊下の先を見据えた。


「行きましょう、アスター」


「了解、記録官殿」


アスターは軽く応じた。


だが、その声にはもう、ただの軽さだけではない。


自分の名を探す死者として。

誰かの名を取り戻すために歩き始めた者として。


彼もまた、リシェの隣を歩いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ