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第6節 ― 残響歩き

ニアが語り終えたとき、白花市場の朝は、少しだけ午後に近づいていた。


市場の喧騒は相変わらず明るい。

花売りたちは声を張り、客は値切り、焼き菓子屋の老婆は「泣いても泣かなくても二つ買えば安いよ」と、もはや葬送と商売の境目が曖昧な文句を並べている。


けれど、北庇の下だけは静かだった。


ニアは、布切れを胸に抱いたまま、小さく丸くなって座っていた。

語ったことで、かえって疲れたのだろう。

涙は止まっていたが、目元は赤く、時折、何かを思い出そうとするように唇だけが震える。


「お姉ちゃん……」


その呼び声だけは、もう消えなかった。


名前はまだ戻らない。

顔も、声も、完全ではない。

それでも、ニアの中に残っていた空白の中心に、ひとつだけ小さな杭が打たれたようだった。


リシェは調査帳を閉じた。


そこには、ニアが語った姉の断片が丁寧に記されている。


朝が弱い。

妹の花籠を必ず半分持つ。

白花を枕元に置く。

黒麦パンを半分分ける。

手が赤くなるまで花を売る。

妹をひとりにしないと言った。


死者名簿に載せるには、まだ足りない。

葬送名を決めるにも、まだ足りない。


けれど、空白に抗うには十分すぎるほど、人の温度があった。


市場の店主が、ニアの肩に古い毛布をかける。


「この子は、うちで見ておきます。記録官さま」


リシェは頭を下げた。


「お願いします。目を離さないでください。もし、何か思い出したら、無理に言わせず、近くの記録庁詰所へ」


「はい」


店主は少し迷ってから、小声で尋ねた。


「あの子の……お姉さんは、もう死者なんですか」


リシェはすぐには答えなかった。


死者名記録官としては、曖昧なことを断定すべきではない。

けれど、ニアの涙はすでに葬送の形をしていた。

空欄の棺は、彼女の姉のために組まれたものだ。


「死者である可能性が高いです」


店主は目を伏せた。


「そうですか」


「ただし、まだ葬送は終わっていません」


リシェは、はっきりと言った。


「名が定まっていませんから」


その言葉に、店主は小さく頷いた。


「……なら、お願いします。あの子が、誰のために泣いていたのか、ちゃんと戻してやってください」


「戻せる限りは」


「全部じゃなくてもいいんです」


店主は、ニアの髪をそっと撫でた。


「全部戻らなくても、人は泣けますから」


リシェはその言葉を胸に留めた。


全部戻らなくても、人は泣ける。

けれど、何も残らなければ、泣くことすらできなくなる。


空名会が奪うものは、名だけではない。

悲しみの行き先さえ奪う。


「アスター」


リシェは振り返った。


アスターは白花の束の前に立っていた。

花を見ている。

けれど、触れようとはしない。


「戻ります」


「棺のところ?」


「はい。ニアさんの記憶と、空欄の棺の残響を照合します」


「残響……」


アスターは小さく繰り返した。


その声には、先ほどまでの軽さが少し薄い。


「何か感じますか」


「うん。あの棺、たぶんまだ残ってる」


「何が」


「足跡」


リシェは眉を寄せる。


「棺に?」


「棺っていうか、その周り。記録が剥がれたあとに残る、ざらざらしたもの。さっきから少し、引っかかってる」


アスターは自分の胸元にある破れた葬送札を指で押さえた。


「僕のここにも、同じ感じがある」


リシェは息を呑んだ。


「同じ……」


「たぶんね。あんまり触りたくない感じだけど」


「無理はしないでください」


アスターは少し笑った。


「記録官、僕を心配してる?」


「調査対象を失うと困ります」


「その言い方、安心できるようでできない」


「では訂正します」


リシェは少しだけ考えた。


「あなたが消えると困ります」


アスターは一瞬、目を丸くした。


それから、視線をそらす。


「……そっちのほうが困る」


「なぜですか」


「返事に困るから」


「そうですか」


「そうです」


リシェはそれ以上踏み込まなかった。


二人は白花市場を離れ、無名死者受付所へ戻った。


受付所の裏手には、まだ空欄の棺が置かれている。

黒布は外され、蓋は開いたまま。

内側の白布には、白花の粉と、冷たい灰のようなものが残っている。


棺のそばでは、ルゼが片膝を立てて座り込み、内側の傷を数えていた。


「戻ったか」


顔を上げずに言う。


リシェは近づいた。


「傷は増えていますか」


「三本増えた。あと一本は、増えたというより深くなった」


「どの傷ですか」


ルゼは棺の右側面を指した。


「これだ。最初はただの引っかき傷に見えた。今は、文字の払いに近い」


リシェは覗き込んだ。


確かに、傷は文字になろうとしている。

だが、完成しない。

形を持つ直前に、何かに削られる。


アスターは棺から少し離れた場所で立ち止まった。


「うわ」


ルゼが横目で見る。


「どうした、幽霊」


「これ、寒い」


「棺なんだから寒いだろ」


「そういう寒さじゃない」


アスターは眉をひそめた。


「風が吹いてるみたい。外からじゃなくて、中から。何かが、どこにも行けなくなって、ぐるぐるしてる」


ルゼは表情を変えずに言った。


「記録官」


「はい」


「そいつ、今わりとまともなこと言ってる」


「はい」


「普段からその調子で頼む」


「僕にも評価権はあると思うんだけど」


アスターが抗議すると、ルゼはすぐに返した。


「死者の苦情は受付時間外だ」


「ここ無名死者受付所でしょ」


「営業時間外だ」


「勤務中って概念を持って」


リシェは二人を止めるように手を上げた。


「アスター。あなたは、この棺の残響に触れられますか」


アスターは棺を見た。


喉元の破れた葬送札が、かすかに揺れる。


「たぶん」


「たぶん?」


「できる気はする。でも、やったことがあるかどうかは覚えてない」


「危険は」


「あると思う」


アスターは少しだけ笑った。


「でも、僕はもう死んでるから、危険の分類が難しいね」


リシェは厳しい声で返した。


「死者であっても、損なわれることはあります」


「損なわれる」


「記録が欠ける。残響が裂ける。葬送札が崩れる。最悪の場合、あなたという形を保てなくなる」


アスターの笑みが少し固まった。


ルゼがぼそりと言う。


「要するに、幽霊でも壊れる」


「ルゼさん」


「噛み砕いてやったんだ」


「噛み砕きすぎです」


アスターは自分の手を見た。

霧のように薄い指。

光に透ける輪郭。


「壊れる、か」


その声は、先ほどの軽口とは違っていた。


リシェは言った。


「無理に行う必要はありません。別の方法を探します」


「別の方法って?」


「記録庁での照合。灰化許可院への問い合わせ。葬列参列者の証言。白花市場の搬入記録」


ルゼが肩をすくめる。


「全部時間がかかる。空白は待ってくれない」


リシェはルゼを見る。


「それは、残響歩きをさせろという意味ですか」


「違う」


ルゼは即座に否定した。


「俺は、死者を道具扱いする趣味はない」


アスターが意外そうにルゼを見る。


ルゼは棺から目を離さずに続けた。


「だが、選べるのは本人だ。記録官じゃない。俺でもない。そいつだ」


リシェはアスターへ向き直った。


「アスター。あなたが決めてください」


アスターは二人を見た。


リシェはまっすぐに自分を見ている。

ルゼは見ていないふりをしているが、札箱を手元に引き寄せている。

何かあればすぐ仮札を打つつもりなのだろう。


アスターは少しだけ笑った。


「死者にも発言権があるんだっけ」


「あります」


リシェは即答した。


アスターは棺へ近づいた。


「じゃあ、やる」


「理由を聞いても?」


「僕は、自分の名前が知りたい」


彼は棺の内側を見下ろした。


「でも、今はたぶん、この棺の誰かが先だ。だって、ニアはまだ泣いてる」


軽い声だった。

けれど、そこには初めてアスター自身の意志があった。


リシェは深く頷いた。


「わかりました」


ルゼは札箱から銀留めの仮札を一枚取り出し、アスターの足元に置いた。


「緊急用だ。引っ張られたら、そこを目印に戻れ」


アスターが札を覗き込む。


「何か書いてある?」


「書いてない」


「また空白?」


「お前が自分で戻ってこい。俺が勝手に名前を書いて引っ張ると、余計な傷になる」


「……意外と気を遣うんだね」


「死者にはな」


「生者には?」


「相手による」


「リシェと同じ質問したくなるな」


リシェが言う。


「今は集中してください」


「はいはい、記録官殿」


アスターは棺に手を置いた。


その瞬間、白い布がふわりと揺れた。


風はない。


だが、棺の内側から、白い霧が溢れ出した。

冷たい。

名前のない冷気。

それは普通の霊気とは違い、触れたものから色を抜いていくような静けさを帯びていた。


リシェは一歩前に出る。


「アスター」


「大丈夫。たぶん」


「たぶんは禁止です」


「じゃあ、そこそこ大丈夫」


「それも曖昧です」


「記録官、最後まで細かい」


アスターは笑った。


だが、その笑みはすぐに崩れる。


彼の指先が棺に沈んだ。

木に触れているのではなく、木の中に残った何かへ入り込んでいる。


アスターの瞳が、ゆっくりと焦点を失っていく。


「……見える」


リシェは彼の左手を掴んだ。


一瞬、冷たさが腕を這い上がる。


死者の手を握る感覚は、人の手を握る感覚とは違う。

温度ではなく、記録の薄さに触れるような感覚だった。


「リシェ?」


アスターの声が遠くなる。


「離しません」


「そういうの、先に言われるとちょっと恥ずかしいんだけど」


「必要な確認です」


「うん。君らしい」


次の瞬間、世界が裏返った。


白花市場の喧騒も、受付所の冷気も、ルゼの気配も、すべてが遠ざかる。

リシェの足元から石畳が消え、代わりに、記録になり損ねた景色が流れ込んできた。


色が薄い。


空は灰色。

街の輪郭はぼやけている。

人々の顔は、ところどころ白く塗り潰されている。


けれど、音だけは妙に鮮明だった。


花売りの声。

車輪の音。

硬いパンを割る音。

誰かの咳。

市場の金箱が開く音。


リシェは息を呑んだ。


「ここは」


「記録の隙間」


隣で、アスターの声がした。


彼は少し苦しそうだったが、まだ意識はある。


「死者が落とした足跡みたいなところ。たぶん、これが僕にできること」


「残響歩き」


リシェが言うと、アスターは少し笑った。


「名前ついた。やっぱり君、何でも記録するね」


「名前がないと、扱えません」


「そういうところ、本当に記録官」


二人の前に、数日前の白花市場が広がっていた。


現実よりも色が薄く、音だけが近い。

その中を、一人の少女が歩いている。


白花を抱えた少女。

年は十六か十七ほど。

髪はくすんだ栗色で、結び方は少し雑。

手は赤く荒れており、指先には白花の茎でできた細かな傷がある。


彼女は片手に花籠、もう片手に黒麦パンを持っていた。


そばには幼いニアがいる。


「ほら、先に食べな」


少女は黒麦パンを半分に割り、ニアへ渡した。


ニアは首を振る。


「お姉ちゃんも」


「私はあとで食べる」


「いつもそう言う」


「いつもそうしてるから、今日もそうなの」


「それ、理由になってない」


「うるさいなあ。小さいくせに口だけ育つんだから」


少女は笑った。

疲れた笑みだった。

けれど、ニアに向ける目だけは温かかった。


アスターが小さく言う。


「この人が、ニアのお姉ちゃん?」


「可能性が高いです」


リシェは少女を見つめた。


名前はまだ聞こえない。

だが、確かに彼女の周囲だけ、空白に抗うような温度がある。


場面が揺れた。


次の残響へ移る。


白花市場の端。

少女が花籠を抱えて立っている。

その前に、柄の悪い男が二人。


借金取りだろう。

衣服は整っているが、目つきが悪い。


「今月分、足りねえな」


「昨日払いました」


少女が答える。


声は震えているが、ニアを後ろに隠す手は動かない。


男は笑った。


「昨日のは先月分だ。お前の親が残したぶん、まだ残ってる」


「そんなの、もう何度も」


「帳面にある」


男は紙をひらひらさせる。

そこに何が書かれているのか、残響の中では見えない。


だが、少女の顔色が変わった。


「その帳、前と数字が違う」


「文句があるなら記録庁に行けよ。死者の帳は見てくれても、生きてる貧乏人の帳は見ちゃくれねえぞ」


ニアが泣きそうになる。


少女はニアの肩を抱き寄せた。


「大丈夫。あんたは何も心配しなくていい」


「でも」


「大丈夫って言ったら、大丈夫」


アスターの表情が曇る。


「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃないよね」


リシェは小さく答えた。


「そうですね」


場面がまた揺れる。


次は、市場の金箱の前だった。


店主たちが騒いでいる。


「金がない!」


「今朝の売上だぞ!」


「誰が触った!」


「さっき、あの子が近くにいた!」


視線が、白花の少女へ集まる。


少女は顔をこわばらせた。


「違います。私は花を納めに来ただけで」


「じゃあ何で箱のそばにいた」


「呼ばれたからです。数を確認しろって」


「誰に?」


少女は口を開く。


だが、その声だけが白く塗り潰された。


呼んだ者の名が、残響の中で消されている。


リシェは目を細めた。


「ここも欠けています」


アスターが苦しそうに眉を寄せる。


「誰かが、この場面から名前を抜いてる」


市場の人々の声が重なる。


「盗ったんだろ」

「親も借金まみれだったし」

「やっぱりな」

「花売りの子なんて、信用できるか」

「妹まで同じになるぞ」


ニアが泣き出す。


少女はニアの前に立った。


「妹は関係ありません」


その声だけは、はっきり残っていた。


「言うなら、私に言ってください」


男の一人が笑う。


「じゃあ、お前が盗ったんだな」


少女は唇を噛んだ。


否定しようとした。

しかし、ニアが震えているのを見て、言葉を飲み込んだ。


アスターが小さく言った。


「……かばったんだ」


リシェは頷く。


「自分が罪を受ければ、妹に向かう疑いを止められると思ったのでしょう」


「そんなの、ひどい」


「はい」


場面が白く揺れた。


次の残響は、夕暮れだった。


白花市場の北庇。

ニアが泣いている。


少女の姿はない。

代わりに、白い布をまとった人物が、ニアの前に立っていた。


顔は見えない。

白い布が頭から肩までを覆い、声も男か女かわからないほど平らだった。


その人物は、ニアのそばにしゃがみ込む。


「かわいそうに」


ニアは布切れを握りしめている。


「お姉ちゃん、盗んでない」


「ええ。あなたは知っているのですね」


「盗んでないのに、みんな、お姉ちゃんを泥棒って言う」


「苦しい名ですね」


白い布の人物は、優しく言った。


「その名で葬らせたいですか」


ニアは顔を上げる。


「葬る……?」


「人は、死ねば名を残されます。けれど、名が苦しければ、死んだあとも苦しみます」


ニアは震える。


「やだ。お姉ちゃんを、泥棒にしないで」


「では、消してあげましょう」


リシェの手に力が入る。


アスターが低く言った。


「あれが、空名会?」


「おそらく」


白い布の人物は、ニアの手を取った。


「罪名も、痛みも、誰かに奪われた呼び名も、すべて消せます」


「本当に?」


「白紙は、優しい眠りです」


声は穏やかだった。


恐ろしいほど穏やかだった。


悪意の声なら、ニアも逃げただろう。

だが、その声には慈悲に似たものがあった。

苦しむ子どもに、痛みを消してあげると囁く声。


ニアは泣きながら頷いた。


「泥棒って名前だけ、消して」


白い布の人物が、微かに首を傾ける。


「ええ」


その返事には、ほんのわずかなずれがあった。


ニアは罪名だけを消したかった。

姉の存在まで消したかったわけではない。


けれど、白い布の人物は、そこを正さなかった。


「名は、すべて重いものです」


その人物は白い札を取り出した。


「ならば、すべて白紙へ」


残響が歪んだ。


白い札が広がる。

小さな葬送札のはずなのに、視界全体を覆うほど大きくなる。


市場の音が遠ざかる。

ニアの泣き声が白く塗り潰される。

少女の顔がぼやける。

彼女の名が、記録の奥から引き抜かれていく。


その瞬間、どこかから声がした。


「ニアを、ひとりにしないで」


少女の声だった。


名前はない。

けれど、願いはあった。


リシェはその声を掴もうとした。


「待って」


手を伸ばす。


だが、白い札の中央に黒い線が走った。


声が裂ける。


「ニ――」


その先が、黒く塗り潰された。


リシェの耳に、鋭い痛みが走る。

終名聴取のときとは違う。

名を聞く痛みではない。

名が裂かれる痛み。


アスターが呻いた。


「っ……!」


リシェが振り向く。


アスターの首元の空欄札が、黒く滲んでいた。

まるで、今見た白い札と呼応しているかのように。


「アスター!」


「だい、じょうぶ……」


彼はそう言おうとしたが、声が途切れる。


残響の景色が崩れ始めた。


白花市場が紙のように裂ける。

人々の顔が剥がれる。

金箱の音が遠ざかる。

ニアの泣き声が細くなる。

白い布の人物だけが、最後まで輪郭を保っていた。


その人物が、こちらを見た気がした。


顔はない。


だが、確かに見られた。


「記録するのですか」


声が響く。


リシェはアスターの手を強く握った。


「戻ります」


「リシェ、待って、あれ……」


アスターが何かを言おうとする。


だが、白い布の人物の声が重なる。


「記録は、死者を縛る鎖です」


視界が真っ白になる。


次の瞬間、リシェは現実へ戻っていた。


無名死者受付所の保管室。

空欄の棺。

冷たい床。

棺のそばに立つルゼ。


リシェは大きく息を吸った。


自分の手は、まだアスターの手を掴んでいる。

だが、その手は先ほどよりずっと薄い。


アスターは膝をついた。


「アスター!」


リシェも膝をつく。


アスターは片手で首元の葬送札を押さえていた。

空欄だった札の中央に、黒い滲みが広がっている。


ルゼが即座に札箱を開いた。


「動くな、幽霊」


「言い方……もうちょっと……」


「黙れ。喋ると散る」


「散るって……花じゃないんだけど」


「似たようなもんだ」


ルゼは銀留めの仮札を取り出し、アスターの足元に置く。

その上に、先ほど書いた小さな白札を重ねた。


――寒い。


その文字が、黒く沈みかけたアスターの輪郭を、わずかに引き戻す。


リシェはアスターの手を離さなかった。


「アスター、私の声は聞こえますか」


「聞こえる」


「自分の仮名を言えますか」


「アスター=ヴェイル」


声は少しかすれていたが、言えた。


リシェはほっと息をつく。


「もう一度」


「アスター=ヴェイル。記録不能死者。リシェの余白の住人」


「最後の項目は不要です」


「でも、気に入ってる」


リシェは言葉に詰まり、それから少しだけ眉を下げた。


ルゼが横から言う。


「余裕があるなら大丈夫だな」


「死者への扱いが雑」


「死者だから雑なんじゃない。お前だから雑なんだ」


「もっとひどい」


それでも、アスターの声には少しずつ力が戻っていた。


リシェは彼の葬送札を見る。


黒い滲みは、完全には消えない。

だが広がりは止まっている。


リシェは低く呟いた。


「同じです」


ルゼが顔を上げる。


「何が」


「白い布の人物が使った札と、アスターの葬送札の反応が同じでした」


アスターは目を伏せる。


「僕も、同じように抜かれたってこと?」


リシェは答えられなかった。


答えたくないのではない。

まだ確定できないからだ。


けれど、彼女の沈黙だけで、アスターは察したらしい。


「そっか」


彼は軽く言った。


軽く言おうとした。


だが、その声はうまく軽くならなかった。


リシェは握った手に少しだけ力を込めた。


「まだ、可能性です」


「記録官の慰めって、慎重だね」


「不確かなことを断定しないだけです」


「それでも、慰めようとはしてくれてるんだ」


「……はい」


アスターは少しだけ笑った。


「じゃあ、受け取っとく」


ルゼが棺の内側を見た。


「で、何を見た」


リシェは短く息を整え、調査帳を開いた。


今度は、記録できる。


残響で見たものは、アスターの存在そのものではない。

空欄の棺の死者に関する記録だ。


筆先が震えずに紙に触れる。


「花売りの少女。妹はニア。借金取りに絡まれていた。市場の金箱が盗まれた騒ぎで、濡れ衣を着せられた可能性があります」


ルゼの顔が険しくなる。


「白花市場の金箱か。あそこは、下層の商人組合が管理してる。金が消えたとなれば、弱いやつに押しつけるのはよくある話だ」


「その後、白い布の人物がニアに接触しました」


ルゼの目が細くなる。


「空名会か」


「断定は避けます。ただし、言葉は一致しています」


リシェは記録を読み上げる。


「苦しい名なら、消してあげましょう。罪名も、痛みも、誰かに奪われた呼び名も、すべて消せる。白紙は、優しい眠りです」


ルゼは舌打ちした。


「連中の言い回しだ」


アスターはまだ膝をついたまま、ぽつりと言った。


「優しい言い方だった」


リシェは彼を見る。


アスターは自分の黒く滲んだ札に触れながら言った。


「怖いことを言ってるのに、優しかった。あれ、子どもだったら信じるよ」


「はい」


リシェは頷いた。


「だから危険です」


悪意ではない。

少なくとも、悪意の形をしていない。


苦しんでいる者に近づき、痛みを消すと言う。

罪名を消すと言う。

死者を救うと言う。


その先で、死者そのものを白紙へ還す。


リシェの胸に、静かな怒りが生まれた。


大きな炎ではない。

冷たく、細く、確かな怒り。


死者の名は、生者の所有物ではない。

だが、誰かが勝手に消してよいものでもない。


「ニアは、姉の罪名だけを消したかった」


リシェは言った。


「姉そのものを消したかったわけではありません」


「だろうな」


ルゼは棺の傷を見下ろす。


「願いの一部だけを聞いたふりをして、全部持っていく。善意の顔をした盗人だ」


アスターが小さく言う。


「名を盗むんだ」


「そうだ」


ルゼは短く答えた。


「だから、空名だ」


リシェは調査帳を閉じた。


「次は、死者名記録庁で該当記録を探します。白花市場の金箱盗難、花売りの少女、罪名、灰化申請。どれかに残っているはずです」


ルゼが頷く。


「俺は灰化許可院の搬入記録を探る。灰が絡んでるなら、どこかに手続きの跡がある」


「お願いします」


「お願いじゃねえ。貸しだ」


「記録しますか」


「するな」


アスターが少し笑った。


その笑みはまだ弱い。

けれど、戻ってきている。


リシェは彼を見た。


「立てますか」


「死者に立てるか聞くの、変じゃない?」


「立てないなら支えます」


アスターは一瞬、言葉に詰まった。


それから、軽く笑って手を差し出した。


「じゃあ、少しだけ」


リシェはその手を取った。


冷たい。

けれど、さっきより少しだけ重みがあった。


アスターは立ち上がりながら、わざと明るく言った。


「記録官殿。僕、今日だけでだいぶ働いてない?」


「はい。助かりました」


「素直に褒められると照れるな」


「では、訂正します」


「しなくていい」


「今後も協力をお願いします」


「それ、褒めてる?」


「期待しています」


アスターは少し目を見開いた。


それから、困ったように笑った。


「……それも、困るなあ」


ルゼが横から言う。


「幽霊が照れるな。温度が下がる」


「そういう仕組みなの?」


「知らん」


「知らないのに言ったの?」


「雰囲気だ」


リシェは小さく息を吐いた。


重いものを見たあとで、二人のやり取りは少しだけ救いだった。


だが、胸の奥には、白い布の人物の声が残っている。


記録は、死者を縛る鎖です。


リシェは、答えをまだ持っていなかった。


記録が死者を縛ることはある。

罪名が死者を汚すこともある。

墓碑が生者の執着になることもある。


それでも。


リシェは、空欄の棺を見た。


そこには誰もいない。

けれど、誰かがいた。


ニアをひとりにしないで、と願った誰かが。


その願いまで白紙にしてよいはずがない。


「行きましょう」


リシェは言った。


「この死者の名を、探します」


アスターは首元の黒く滲んだ葬送札を押さえたまま、頷いた。


「うん」


ルゼは札箱を閉じる。


「まずは記録庁だな。甘い菓子の匂いがするほう」


「死者名記録庁です」


「同じだろ。あそこは朝から糖分で動いてる」


「否定はしません」


「否定しろ、所属職員」


リシェは棺に最後の一礼をした。


空欄の棺は、何も答えない。


だが、内側の傷の一つが、ほんのわずかに形を変えた。


今度は、文字ではなく、花弁のように。


リシェはそれを見つめ、胸の中でそっと呼んだ。


お姉ちゃん。


それはまだ正式な名ではない。

けれど、白紙に抗うには十分な呼び声だった。

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