第5節 ― 白花市場の妹
白花市場へ向かう道は、朝の気配で満ちていた。
空白墓地の冷えた霧を抜けると、街の音が戻ってくる。
車輪の軋む音。
店主たちの呼び込み。
石畳を走る子どもの靴音。
葬列案内人の銀杖がこつこつ鳴る音。
どこかの窓から漏れる鍋の湯気と、焼き菓子の甘い匂い。
ネム=レクスは死者の街だ。
けれど、死者の街だからといって、生者まで静かにしているわけではない。
むしろ、死者が静かに眠るぶん、生者はよく喋る。
「白花二束で一束分のお値段! 本日中に供える方限定だよ!」
「おい、それ半額って言え!」
「葬送用の言い回しを大事にしてるんだよ!」
「物は言いようだな!」
通りの先から、威勢のいい声が飛んでくる。
アスターはリシェの隣を歩きながら、物珍しそうにあたりを見回していた。
「ねえ、ここ、本当に葬送都市?」
「はい」
「もっとこう、全員が黒い服でうつむいて、道端で鐘が鳴ってて、通行人が意味深に『お前もいつか眠る』とか言ってくる感じかと思ってた」
「観光案内書の読みすぎです」
「僕、観光案内書を読んだ記憶もないんだけど」
「では偏見です」
「死者に厳しいね、リシェ」
「偏見は死後も訂正すべきです」
「説教の幅が広い」
リシェは足を止めずに答えた。
「ネム=レクスでは、葬送は生活の一部です。花も、棺も、記録も、食事も、すべて続いています」
「死んでも腹は減る?」
「死者は減りません」
「じゃあ、僕はいま損してる」
「食欲があるのですか」
「ある気がする。気がするだけで、実際にはよくわからないけど」
アスターは少しだけ考え込むように、自分の腹のあたりを見下ろした。
「お腹が空いてるって、どんな感じだったっけ」
その言葉は、何気なく落ちた。
リシェは横目で彼を見る。
アスターは笑おうとしている。
けれど、笑う前に答えを探してしまった顔をしていた。
空腹。
匂い。
温度。
重さ。
生きていれば当たり前にあるはずの感覚が、彼の中ではところどころ抜け落ちている。
リシェはそれに気づいたが、あえて指摘しなかった。
指摘すれば、それは記録になる。
記録は、ときに死者を傷つける。
「市場についたら、匂いの確認をお願いします」
「え、僕、匂い担当?」
「白花の種類を確認するためです」
「記録官、僕にできることを見つけるのが早いね」
「同行者には役割が必要です」
「保護じゃなくて労働だった」
「監督付き同行です」
「言い方がどんどん冷たくなる」
そう言いながらも、アスターは少し嬉しそうだった。
その後ろから、ルゼが遅れて歩いてくる。
札箱を肩にかけ、紙杯を片手に、相変わらず眠そうな顔をしている。
「おい、幽霊」
アスターが振り返る。
「僕?」
「他にいるなら紹介しろ」
「見えてない設定は?」
「邪魔な気配は見える」
「便利だね、その設定」
ルゼは紙杯をあおり、また顔をしかめた。
「まずい」
リシェは振り返った。
「まだ飲んでいるのですか」
「淹れ直したのにまずい。これはもう茶葉の問題じゃない。人生の問題だ」
「勤務中の飲食習慣の問題だと思います」
「記録官はすぐ個人の責任にする」
アスターが感心したように頷いた。
「この人、ずっとこんな感じ?」
「勤務中はだいたいこうです」
「勤務外は?」
「もう少し悪い」
「悪くなるんだ」
ルゼは半眼で二人を見た。
「本人の前で人事評価するな」
「では同行理由を説明してください。受付所へ戻るのでは」
リシェが問うと、ルゼは市場の入口を顎で示した。
「ここまでだ。市場の連中は俺の顔を知ってる。無名死者受付所の夜番がうろつくと、勝手に縁起を悪がるやつがいる」
「葬送都市で縁起を気にするのですか」
「死者を扱う街ほど気にする。あと、俺がいると花が売れない」
アスターが口を挟む。
「見た目の問題?」
「幽霊に言われたくねえ」
「僕、わりと清潔感あると思うけど」
「透けてる時点で清潔感以前の問題だ」
「ひどい」
ルゼはリシェに小さな札を一枚渡した。
「市場奥の北庇に、花売りの子どもたちが集まる場所がある。葬列にいた少女が戻ってるなら、たぶんそこだ」
「なぜわかるのですか」
「葬列の布切れだ」
彼はリシェが持っていた安い布の切れ端を見た。
「下層の花売りが、花籠の持ち手に巻く布だ。手が切れないようにな。安物だが、色の染み方に癖がある。北庇の連中がよく使う」
「詳しいですね」
「死者が握ってくる遺品は、だいたい安物だ」
ルゼは少しだけ目を伏せた。
「高い物は、生者が先に持っていく」
リシェは返す言葉を探したが、ルゼはすぐにいつもの調子へ戻った。
「で、記録官。少女に話を聞くなら、いきなり名前を尋ねるな」
「なぜですか」
「名前から抜かれてるなら、そこを突くと壊れる。まず、覚えてるものから聞け。匂い、手触り、食べ物、癖、声。名前は最後だ」
アスターが小さく手を上げる。
「僕にもその聞き方してほしかったな」
リシェは真面目に振り返った。
「今後はそうします」
「そこで真面目に反省されると、こっちが困る」
ルゼは札箱の紐を直した。
「俺は受付所に戻る。棺の傷がまた増えたら知らせる」
「連絡手段は」
「迷子札を弾け。三回」
「雑では」
「死者に引っ張られてから正式手順を踏むよりましだろ」
リシェは頷いた。
「わかりました」
ルゼは踵を返し、少し歩いてから肩越しに言った。
「ベルレイン」
「はい」
「生者の涙は、死者の名前より先に残ることがある」
リシェはその言葉を受け止める。
「覚えておきます」
「覚えるだけじゃなく使え」
「はい」
ルゼは軽く手を振って去っていった。
アスターはその背中を見送りながら呟く。
「だらしないけど、妙に格好いいこと言うね」
「そういう方です」
「人気出そう」
「何の話ですか」
「こっちの話」
リシェは少し首をかしげたが、深く追及しなかった。
白花市場は、朝の盛りを迎えていた。
通りの両側には、白花を扱う露店がずらりと並んでいる。
供花用の大きな束。
子どもが持つ小さな一輪包み。
墓碑の隙間に挿す細い花枝。
遺影の前に置く香花。
喪章に縫いつける乾燥花。
白、灰白、青白、淡い銀。
同じ白でも、死者の身分、葬送の種類、遺族の財政事情によって使われる花は違う。
店主たちは、それを当然のように売り分けていた。
「こっちは正式葬送用! 眠りの鐘まで香が持つよ!」
「そっちは仮葬送用だ! 安いが半日で萎れる! 短期決戦向け!」
「短期決戦って何だよ、葬送に!」
「日程が詰まってる家もあるんだよ!」
「本日中なら二束目半額! ただし死者は一名様に限る!」
「お前の店、売り方が雑なんだよ!」
「雑でも売れる花は偉い!」
リシェは一軒一軒、花の状態を見ながら進んだ。
手元の花粉と照合する。
花弁の厚み。
茎の切り口。
白花特有の青い筋。
アスターは露店の間をふわふわと歩き、時々売り物に顔を近づけていた。
ある店先で、彼は小さな白花の束に顔を寄せた。
鼻先が花弁に触れそうになる。
だが、花は揺れない。
アスターは目を閉じる。
少し待つ。
それから、何でもないように顔を上げた。
「うん、わからない」
リシェは彼を見た。
「匂いがしませんか」
「しない。たぶん」
「たぶん?」
「匂いがした記憶があるかどうかも、ちょっと怪しい」
アスターは笑った。
「花の匂いって、どんな感じだったっけ。甘い? 冷たい? それとも、白い?」
「白は匂いではありません」
「知ってる。でも、白花は白い匂いがしそう」
「感覚的には間違っていないかもしれません」
「え、いま褒めた?」
「少しだけ」
「やった」
アスターは小さく笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
彼はもう一度、花を見下ろす。
白い花弁。
朝露。
生きている者なら感じられるはずの匂い。
それが、自分には届かない。
リシェは何も言わなかった。
代わりに、店主に声をかける。
「この花は北庇の花売りから仕入れたものですか」
店主の女は、リシェの記録官制服を見るなり姿勢を正した。
「はい、記録官さま。今朝の分は北庇の子たちが持ってきましたよ。安いけど、朝露の持ちがいいんです」
「その中に、十歳前後の少女は?」
「少女? そりゃ何人もいますが……」
「黒い外套。袖が長すぎるものを着ていた可能性があります。葬列に参列していたかもしれません」
店主の顔色が変わった。
「……ニアのことですかね」
リシェは名を繰り返した。
「ニア」
名前は、問題なく音になった。
少なくとも、妹の名はまだ消されていない。
「どこにいますか」
店主は市場の奥を指した。
「北庇です。けど、今朝から様子がおかしくてね。花を並べるでもなく、泣くでもなく、ずっと布切れを握ってる。声をかけても、自分が何をしに来たのかわからないって」
アスターの表情が少し曇った。
リシェは静かに頷いた。
「ありがとうございます」
「記録官さま」
店主が呼び止める。
「ニアは、何か悪いことをしたんですか」
「まだ何もわかりません」
「だったら、どうか、あの子を怖がらせないでやってください。あの子、姉さんと二人で……」
店主はそこで口を押さえた。
「姉さん?」
リシェが問う。
店主は眉をひそめた。
「いま、私、何て言いました?」
「姉さんと二人で、と」
「そう……言いましたか」
「はい」
店主は困惑したように、自分の手元の花束を見下ろした。
「変ですね。私、ニアに姉がいたなんて……いや、いたはずなんです。いたはずなのに、顔が……」
声が震える。
「名前が、出てこない」
リシェはそれ以上聞かなかった。
アスターはそっと店先の白花を見た。
「ここにも、抜けてるんだね」
「はい」
リシェは北庇へ向かった。
市場の奥、古い石造りの庇の下には、子どもたちが使う花籠や空の木箱が積まれていた。
雨の日には、ここで花売りたちが休む。
冬には小さな火鉢が置かれ、夏には水桶が並ぶ。
その片隅に、少女が座っていた。
前に葬列で泣いていた少女だった。
借り物の黒い外套。
長すぎる袖。
白花の花粉がついた手。
膝の上には、安い布の切れ端。
彼女は泣いていなかった。
けれど、頬には乾ききらない涙の跡がある。
涙は止まったのではない。
泣く理由を見失って、流れ方を忘れているように見えた。
リシェは少女の前で膝をついた。
「ニアさん」
少女はびくりと肩を震わせた。
「……はい」
「私は死者名記録庁のリシェ=ベルレインです。今朝の葬列について、お話を聞かせてください」
ニアはリシェの制服を見て、怯えたように布切れを握りしめた。
「わたし、何か悪いことをしましたか」
「いいえ」
リシェはすぐに答えた。
「あなたを責めに来たのではありません」
「でも、みんな、変なんです。わたしを見て、何か言いかけて、やめるんです。わたしも、何か言わなきゃいけない気がするのに、何を言えばいいかわからなくて」
アスターはリシェの後ろで少し身をかがめた。
「この子、僕のこと見える?」
リシェは小さく首を振る。
「たぶん、見えていません」
「そっか」
「怖がらせないでください」
「僕、そんなに怖い?」
「透けています」
「差別だ」
ニアは二人のやり取りには反応しなかった。
やはり、アスターの姿も声も届いていないらしい。
リシェはニアに向き直る。
「誰のために泣いているのか、わかりますか」
ニアは唇を震わせた。
ゆっくりと首を横に振る。
「わからないんです」
彼女は布切れを握る手に力を込めた。
「でも……誰かが、わたしにパンを半分くれたんです」
声が、少しずつほどけていく。
「寒い日に。白い花を売って、手が真っ赤で、それでも笑って。『ニア、あんたは先に食べな』って。自分はお腹が空いてたはずなのに、いつもそう言って」
ニアの目に、また涙が浮かぶ。
「夜になると、売れ残りの白花を枕元に置いてくれました。『売れ残りじゃないよ、今日いちばんきれいだったやつを持ってきたんだよ』って言って。嘘なんです。売れ残りなんです。でも、わたし、嬉しくて」
アスターは黙っていた。
白花の匂いがわからない少年が、花をもらった記憶を聞いている。
その横顔に、リシェは一瞬だけ視線を向けた。
ニアは続ける。
「雨の日は、花籠に布を巻いてくれました。手が痛くならないようにって。この布も、そうです」
彼女は握っていた布切れを見下ろした。
安い布。
何度も濡れて、乾いて、擦り切れている。
赤とも茶ともつかない色に染まっていた。
「誰が、巻いてくれたのですか」
リシェは静かに尋ねた。
ニアは口を開いた。
だが、声が出ない。
喉が、何かに塞がれたように震える。
「だれ……」
彼女は必死に思い出そうとした。
「だれ、だっけ。わたし、知ってるのに。毎日一緒にいたのに。声も、手も、歩き方も、覚えてるのに」
涙がぽろぽろ落ちる。
「名前だけ、ないんです」
市場の喧騒が、少し遠くなった。
リシェは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
名前だけがない。
顔は消えていない。
声も、手も、パンを半分くれた記憶も、枕元の白花も残っている。
けれど、それを結び直す名が失われている。
記憶の輪郭はある。
中心だけが、白く抜かれている。
空名。
リシェはその言葉を思い出した。
名前がないのではない。
名前が抜かれている。
アスターが小さく呟く。
「寒いね」
リシェは彼を見た。
アスターは、ニアではなく、自分の手を見ていた。
自分もまた、名前を抜かれた死者だからだ。
リシェはニアへ手を差し出した。
「その布を、少しだけお借りしてもいいですか」
ニアは怯えたように布を抱え込む。
「取らないで」
「取りません。ここで触れるだけです」
「これまでなくなったら、わたし、本当に何も……」
「なくしません」
リシェははっきりと言った。
「私は、あなたから奪いに来たのではありません。残っているものを、一緒に探しに来ました」
ニアはリシェの目を見た。
黒い記録官制服。
白い襟。
真面目すぎるほど真っ直ぐな顔。
少しだけ寝不足の目元。
嘘を言っている顔ではなかった。
ニアはゆっくりと、布切れを差し出した。
リシェは黒手袋をはめ直す。
終名聴取用の銀糸が、朝の光に細く光った。
アスターが少し身を乗り出す。
「今度は聞こえる?」
「わかりません」
「また無音だったら?」
「それでも、聞きます」
「頑固だね」
「仕事です」
「そういうところ、ちょっといいと思う」
リシェは返事をしなかった。
布切れに指先を触れる。
瞬間、白花市場の音が遠ざかった。
呼び込みの声。
値切り合い。
車輪の音。
焼き菓子の匂い。
それらが薄い膜の向こうへ下がる。
代わりに、冷たい朝の空気が流れ込んできた。
手のひらの痛み。
花籠の重み。
湿った布。
白花の茎で切れた指先。
半分に割った黒麦パンの硬さ。
そして、声。
「ニア、先に食べな」
それは、名前ではなかった。
けれど、温かかった。
続いて、小さな声が聞こえる。
幼い少女の声。
「お姉ちゃん」
リシェの胸が震えた。
お姉ちゃん。
固有名ではない。
公的記録には載らない。
死者名簿の検索項目にもならない。
墓碑にそのまま刻むこともできない。
けれど、それは確かに名だった。
誰かが誰かを呼んだ、関係の名。
生者の所有ではなく、死者の役割でもなく、二人の間だけにあった呼び声。
「お姉ちゃん」
もう一度、声が響く。
その奥に、かすかに別の音があった。
ミ――
リシェは集中する。
ミ……
だが、そこから先が白く濁る。
名前の中心へ近づくほど、冷たい空白が割り込んでくる。
ミア。
そう聞こえた気がした瞬間、布の感触が遠のいた。
白いものが、音を塗り潰す。
リシェは反射的に迷子札を握った。
リシェ=ベルレイン。
自分の名を、心の中で強く呼ぶ。
死者名記録庁所属。
終名聴取担当。
ここにいる。
聞いている。
奪われない。
遠のきかけた感覚が戻った。
リシェは布から手を離した。
白花市場の音が一気に戻る。
「記録官!」
アスターの声が近くで響いた。
リシェは息を吸った。
喉が冷えている。
指先が少し震えていた。
ニアが不安そうに見つめている。
「大丈夫ですか」
「はい」
リシェはゆっくり頷いた。
「聞こえました」
ニアの目が見開かれる。
「誰の名前ですか」
リシェはすぐには答えなかった。
聞こえたのは、名前の手前だった。
名前そのものは、白い空白に阻まれた。
けれど、確かに残っているものがあった。
「あなたは、その人を」
リシェは静かに言った。
「お姉ちゃん、と呼んでいました」
ニアの顔が歪んだ。
「お……ねえちゃん」
言葉が、彼女の口の中で震える。
「お姉ちゃん……わたしの……?」
「はい」
リシェは頷く。
「あなたには、お姉さんがいました」
その瞬間、ニアの涙がまた溢れた。
今度は、理由のない涙ではなかった。
完全に思い出したわけではない。
名前も、顔も、まだ霧の向こうだ。
けれど、呼び声だけが戻ってきた。
お姉ちゃん。
それだけで、涙は方向を取り戻した。
「お姉ちゃん……」
ニアは布切れを胸に抱いた。
「そうだ。いた。いたんです。わたし、ひとりじゃなかった。お姉ちゃんが、いた」
アスターは黙ってそれを見ていた。
彼の輪郭が、朝の光の中で少しだけ薄くなる。
リシェは気づき、そっと声をかけた。
「アスター」
彼ははっとしたように笑った。
「ごめん。ちょっと、ぼんやりしてた」
「消えかけるなら、申告してください」
「幽霊にも報連相が必要?」
「必要です」
「ルゼと同じこと言うんだ」
「同じことを言われる状態だということです」
「手厳しい」
アスターは苦笑した。
だが、どこか安心したようでもあった。
ニアは涙を拭いながら、リシェを見上げた。
「記録官さま。お姉ちゃんの名前、わかりますか」
リシェは息を整えた。
「まだ、完全には」
ニアの表情が沈む。
リシェは続ける。
「でも、手がかりは残っています。あなたの記憶の中に。布の中に。白花市場に。そして、空欄の棺に」
「棺……」
ニアの顔に怯えが戻る。
「わたし、あそこにいましたよね。葬列に。なのに、どうしていたのか、何を送ろうとしていたのか、わからなくなって」
「あなたのせいではありません」
リシェは強く言った。
「誰かが、あなたから名前を奪おうとしています」
ニアは震えた。
「名前を……?」
アスターが静かに言う。
「消されると、寒いよ」
ニアには聞こえていない。
けれど、その言葉はリシェの胸に残った。
リシェはニアの持つ布切れを見た。
「もう少し、話を聞かせてください。お姉さんがどんな人だったのか。名前でなくても構いません。好きだったもの、苦手だったもの、よく言っていた言葉、歩き方、笑い方」
ニアは戸惑う。
「そんなことで、名前が戻るんですか」
「名前そのものは、まだ戻らないかもしれません」
リシェは正直に答えた。
「でも、死者を眠らせるために必要なのは、名前だけではありません。その人が、どんなふうに呼ばれ、どんなふうに生き、誰に何を残したのか。それも大切な記録です」
ニアは布を握りしめた。
「お姉ちゃんは……」
声が震える。
「朝、起きるのが下手でした」
リシェは少しだけ瞬きをした。
アスターも意外そうに顔を上げる。
ニアは泣きながら、少し笑った。
「いつも、もう少しだけって言うんです。でも、わたしが花籠を持つと、慌てて飛び起きて。寝癖のまま走ってきて、『あんた一人に持たせるわけないでしょ』って」
リシェは調査帳を開いた。
今度は、文字が滲まなかった。
――朝が弱い。
――妹の花籠を必ず半分持つ。
――白花を枕元に置く。
――黒麦パンを半分分ける。
固有名ではない。
だが、記録できる。
その人がいた証として。
アスターは調査帳を覗き込み、小さく笑った。
「こういう記録もあるんだね」
「あります」
「死者名簿って、名前だけじゃないんだ」
「名前だけでは、死者は眠れないことがあります」
リシェは筆を止めずに答えた。
「名は扉です。でも、扉の向こうに何があったのかを記さなければ、ただ閉じ込めるだけになる」
アスターはその言葉を聞いて、少し黙った。
「僕の扉、どこにあるんだろうね」
リシェは彼を見た。
「探します」
「また仕事?」
「はい」
「そっか」
アスターは笑った。
今度の笑みは、少しだけ柔らかかった。
市場の外では、相変わらず花売りたちが声を張っている。
「白花、残り三束! 死者は待つが花は萎れるよ!」
「それ、朝も言ってただろ!」
「真理は何度言ってもいいんだよ!」
その明るい声の中で、ニアはぽつりぽつりと姉のことを語り始めた。
名前のない姉の話を。
けれど確かにいた人の話を。
リシェは、その一つひとつを記録していく。
名前はまだ戻らない。
それでも、空白の中に、少しずつ輪郭が生まれていく。
そしてリシェは気づいていた。
今回の死者を眠らせる鍵は、公的な名前ではない。
妹が最後まで失わなかった呼び声。
お姉ちゃん。
それが、白紙に抗う最初の名だった。




