第4節 ― 記録されない死者
墓碑の亀裂は、文字になりかけていた。
リシェは霧を押し分けるように、名のない墓碑の前まで歩いた。
アスターはその後ろを、足音もなくついてくる。
白い墓碑の表面に、細い裂け目が走っている。
縦に一本。
斜めに一本。
途中で折れて、そこからまた細く伸びる。
それは、偶然のひび割れではなかった。
誰かが石に文字を刻もうとして、途中で力尽きたような形をしている。
だが、読めない。
読める形になろうとするたび、石そのものが白く崩れ、文字の輪郭を失っていく。
リシェは手袋をした指先を近づけ、触れる直前で止めた。
「これは……」
アスターが横から覗き込む。
「何か書いてる?」
「書こうとして、失敗しています」
「石も失敗するんだ」
「石は失敗しません。刻む側が失敗しているか、刻まれることを拒まれています」
「うわ、石にも気を遣うんだ、記録官」
「死者の名を刻むものですから」
「じゃあ、僕より丁寧に扱われてる」
リシェはアスターを見た。
彼は笑っていた。
だが、冗談として流すには、その言葉の端が少し冷たかった。
「あなたも丁寧に扱います」
「本当?」
「調査対象として」
「急に距離ができた」
「死者名記録官として、適切な距離です」
「相棒っぽくなったと思ったのに」
「いつ相棒になりましたか」
「余白に住まわせてくれたあたりで」
リシェは返答に困った。
アスターは楽しそうに笑う。
その笑みは軽い。
軽すぎる。
霧の上に置いた花弁のように、触れればどこかへ流れてしまいそうだった。
リシェは調査帳を開いた。
先ほど余白に記した仮称は、まだ残っている。
アスター=ヴェイル。
しかし、文字の周囲には黒い滲みが広がっていた。
紙に染み込んでいるというより、そこだけ紙が夜に侵されているようだった。
リシェは慎重に、仮称の下へ記録を足そうとした。
――出現場所:空白墓地。
――状態:未葬送死者と思われる。
――死亡記録:不明。
――死因:不明。
――本名:不明。
筆先を置くたび、文字が震える。
出現場所、という単語の端が曖昧になる。
未葬送死者、という語の「死者」の部分だけが濃く沈む。
不明、不明、不明。
その文字だけが、やけに鮮明だった。
リシェは筆を止めた。
「アスター」
呼ぶと、少年は少し嬉しそうに顔を上げた。
「はい、仮名の本人です」
「あなたは、自分の死因を本当に覚えていませんか」
「覚えてない」
「痛みは」
「うーん……覚えてない」
「最後に見た景色は」
「霧かな。いや、これは今見てる景色か」
「最後に聞いた声は」
「君の声」
「それは今です」
「じゃあ、最後じゃないね。よかった」
リシェは眉をひそめた。
「ふざけないでください」
アスターは肩をすくめる。
「ふざけてるつもりは半分くらいしかないよ」
「半分はふざけているのですね」
「残り半分は困ってる」
その言葉は、さらりと落ちた。
軽口の形をしているのに、妙に正直だった。
リシェは少しだけ声を落とした。
「死亡日は」
「わからない」
「死亡年は」
「わからない」
「生前の年齢は」
「見た目どおりなら十六か十七。たぶん。死んでから縮んでなければ」
「死後に身長は基本的に変わりません」
「基本的に、ってつけるところが怖いね」
「特殊例はあります」
「僕、特殊例に入りそう?」
「かなり」
「やっぱり」
アスターは墓碑にもたれた。
彼の肩は、石をすり抜ける直前で止まっている。
完全な幽霊ではない。
だが、生者でもない。
記録されていないのに、ここにいる。
その矛盾が、リシェの目には痛いほどはっきり見えた。
「死んだ日まで忘れてるなら、誕生日より気楽じゃない?」
アスターが笑う。
リシェは即座に答えた。
「死者にとって、死亡日は大切な記録です」
「そうなの?」
「はい。死亡日は、生者の記録から死者の記録へ移る境目です。いつ生を終え、いつ葬送を受けるべきだったのか。それを定めるために必要です」
「ふうん」
「ふうん、ではありません。死亡日が不明な場合、死者名簿への編入、遺族照合、墓碑記入、閉帳式のすべてに支障が出ます」
「じゃあ、僕は大切なものをだいぶなくしてるね」
一瞬だけ、アスターの表情から軽さが消えた。
ほんの一瞬だった。
だが、リシェは見た。
笑っていた口元が止まり、目がどこか遠くを見る。
霧の向こうではなく、もっと内側。
自分の中にあるはずの空白を、見つめるような目だった。
「アスター」
リシェが呼ぶと、彼はすぐに笑みを戻した。
「なに?」
「今、何を思い出しましたか」
「何も」
「本当に?」
「本当に」
「では、何を思い出せなかったのですか」
アスターは黙った。
霧が流れる。
名のない墓碑の列が、二人の沈黙を聞いているようだった。
やがて、アスターは小さく息を吐く真似をした。
死者に息は必要ないはずなのに、その仕草だけは妙に人間らしかった。
「誰かに、呼ばれてた気がする」
「名前を?」
「わからない。声だけ。たぶん、僕を呼んでた。でも、それが僕の名前だったのか、違う呼び方だったのか、全然わからない」
リシェは調査帳に書こうとした。
――誰かに呼ばれていた記憶あり。
しかし、文字は紙に乗る前に黒く滲んだ。
筆先から落ちた墨が、虫のように這い、記録の形を拒む。
リシェは唇を引き結ぶ。
「記録できない」
アスターが覗き込む。
「僕、また紙に嫌われた?」
「紙ではありません。記録構文が拒絶されています」
「ごめん。難しい言葉で振られたほうが傷つく」
「振っていません」
「よかった。仮名をもらってすぐ振られるのは早すぎる」
「そういう意味でもありません」
リシェは筆を置いた。
正式な死者名簿ではない調査帳でさえ、この状態。
アスターを記録しようとすればするほど、文字が崩れる。
まるで、彼について確定させることそのものが禁じられているようだった。
「あなたは、普通の未葬送死者ではありません」
「だろうね。普通だったら、もっと歓迎されてる?」
「通常は、まず保護されます」
「僕も保護されてる?」
「観察中です」
「保護に格上げしてほしいなあ」
「あなたが危険ではないと確認できれば」
「危険そうに見える?」
リシェはアスターを見た。
霧のような輪郭。
破れた葬送札。
記録できない仮名。
軽口ばかりで、自分の核心に触れられると一瞬だけ表情を失う少年。
危険かどうかと問われれば、答えは難しい。
少なくとも、彼自身が望んで危険であろうとしているようには見えない。
「危険というより」
リシェは慎重に言葉を選んだ。
「危ういです」
アスターは瞬きをした。
「危うい」
「はい。放っておくと消えそうです」
アスターは少しだけ笑った。
今度の笑みは、軽口を乗せる前の、素の表情に近かった。
「それ、危険より怖いね」
リシェは答えなかった。
怖い。
そう思うことを、職務中に認めるのは少しだけ難しかった。
死者名記録官は、死者の前で取り乱してはならない。
死者の名を聞く者が怯えれば、死者はますます不安定になる。
けれど、記録できない死者を前にして、リシェは確かに怖かった。
この少年は、今ここで消えても、誰の記録にも残らないかもしれない。
彼が笑ったことも。
「僕は君の余白にいる」と言ったことも。
アスター=ヴェイルという仮名さえも。
何もなかったことになるかもしれない。
リシェは迷子札を握った。
白い札は冷たい。
けれど、冷たさの底に、小さな重みがある。
自分の名前を遠くしないための重み。
「リシェ」
不意に、アスターが呼んだ。
リシェは顔を上げる。
「はい」
「今、ちょっと怖い顔してる」
「そうですか」
「うん。死者に説教する顔とは別の怖さ」
「分類しないでください」
「記録官の仕事は問題を分類することなんでしょ」
「それは私の台詞です」
「借りた」
「返してください」
「嫌だ。僕、持ち物が少ないから」
また軽口だった。
けれど、その奥の空白に、リシェは気づいてしまう。
持ち物が少ない。
名前もない。
記録もない。
死因もない。
死亡日もない。
自分を呼んだ声の形さえない。
そんな死者が、冗談のようにそれを言う。
リシェは調査帳を閉じた。
「一度、無名死者受付所へ戻ります」
「戻るの?」
「ルゼさんに確認します。あなたの状態は、無名死者の分類にも未葬送死者の分類にも当てはまりません」
「受付のだらしない人?」
「だらしなく見えますが、死者の仮札には詳しい方です」
「じゃあ、僕のことも変な名前で呼ぶかな」
「可能性はあります」
「アスターより変だったら抗議する」
「あなたには抗議する権利があります」
アスターは少し目を丸くした。
「死者にも?」
「死者にも、です」
リシェはまっすぐ答えた。
「葬送名は、生者が一方的に押しつけるものではありません。死者がどの名で眠りたいかを探すために、私たちは記録します」
アスターはしばらく黙った。
その顔から、ふっと軽さが薄れる。
「じゃあ、僕は」
彼は首元の破れた葬送札を指でつまんだ。
「どの名前で眠りたいんだろうね」
リシェは答えられなかった。
それは、彼女が答えてはいけない問いだった。
答えるべきは、アスター自身だ。
たとえ本人が何も覚えていなくても。
そのとき、背後から声がした。
「そいつは普通の無名死者じゃない」
リシェが振り返る。
霧の向こうから、ルゼ=カロウが歩いてきていた。
黒い外套をだらしなく羽織り、片手に携帯用の札箱を持っている。
もう片方の手には、湯気の立つ紙杯。
彼は歩きながら、紙杯の中身を一口すすった。
そして顔をしかめた。
「まずい」
リシェは思わず言った。
「なぜ来たのですか」
「茶を淹れ直した」
「質問に答えていません」
「空欄の棺の傷が増えた」
リシェの表情が変わる。
「傷が?」
「ああ。お前が出ていったあと、内側の傷が深くなった。ついでに、星屑の仮札が二回揺れた」
「星屑?」
アスターが反応した。
ルゼは初めて、アスターのほうを見た。
いや、正確には、アスターのいるあたりを見た。
琥珀色の目が、少し細くなる。
「……いるな」
アスターは目を輝かせた。
「見えてる?」
ルゼは紙杯を持ったまま、無表情で答えた。
「見えてない」
「いや、今こっち見たよね」
「墓碑の上に幽霊っぽいものが立ってる気配がするだけだ」
「それ、だいたい見えてるよ」
「見えてない。俺は面倒なものは見えないことにしてる」
リシェは軽くため息をついた。
「ルゼさん、彼がアスター=ヴェイルです。仮称ですが」
ルゼの眉が動く。
「お前がつけたのか」
「はい」
「星屑じゃ不満だったか」
「それは棺につけた仮札名でしょう」
「同じようなもんだ」
「違います」
アスターが手を上げる。
「あの、星屑って僕?」
ルゼはアスターを見ないふりをしたまま言った。
「棺につけた名だ。お前が棺ならそうだな」
「棺扱いは嫌だなあ」
「じゃあ文句言うな、墓碑上の不審者」
「ひどい。リシェ、あの人のほうが僕より危険じゃない?」
「勤務態度以外は、おおむね有用です」
「勤務態度は?」
「危険です」
ルゼは鼻で笑った。
「二人して俺の記録を悪くするな」
「記録に残す価値があるほど勤務してください」
「やだね。働きすぎると生者に見える」
「生者です」
「不本意だ」
アスターはくすくす笑った。
その笑い声を聞いて、ルゼの目がほんの少しだけ変わった。
彼は紙杯を石畳の上に置き、札箱を開けた。
中には、白札、灰札、黒札、銀留めの仮札、封印用の細紐、短い筆記具が整然と収められている。
普段の机とは違い、札箱の中だけは驚くほど整っていた。
ルゼは白札を一枚取り出し、アスターへ向けた。
札は何も反応しない。
次に灰札。
表面が一瞬だけ曇り、すぐに白く戻る。
黒札。
端がわずかにひび割れた。
ルゼは舌打ちした。
「やっぱりな」
リシェが尋ねる。
「何がわかったのですか」
ルゼは黒札を箱に戻した。
「そいつは普通の無名死者じゃない。空名だ」
「空名?」
リシェは聞き返した。
アスターも首を傾げる。
「空名って、名前が空っぽってこと?」
「雑に言えばな」
ルゼは札箱を閉じた。
「無名死者は、名前がわからない死者だ。身元不明、記録欠損、遺族不明、いろいろある。だが、無名でも名を入れる器は残ってる。仮札をつければ、少なくとも仮番号は乗る」
彼はアスターを見た。
今度は、見えていないふりをしなかった。
「空名は違う。名前がないんじゃない。名前が抜かれてる。名を書く場所ごとくり抜かれて、空っぽの器だけ残ってる状態だ」
霧が、少しだけ重くなった。
アスターの笑みが消えた。
彼は自分の首元の破れた葬送札を見下ろす。
「僕、器だけなの?」
「今の状態はな」
ルゼの言い方はぶっきらぼうだった。
けれど、その声には雑さがなかった。
リシェは問う。
「抜かれている、とは誰に」
「それを調べるのがお前の仕事だろ、記録官」
「ルゼさん」
「ただ」
ルゼは空白墓地の奥へ目を向けた。
「この手口は、空白を救いだと思ってる連中に近い」
リシェの胸が冷えた。
「空名会ですか」
アスターが顔を上げる。
「空名会?」
ルゼは口を閉じた。
リシェは簡潔に説明する。
「死者名を白紙へ還すことを救済と考える集団です。墓碑や死者名簿から名を消す事件に関わっている疑いがあります」
「死者の名前を消すのが、救い?」
アスターは本気で不思議そうに言った。
「それ、救いなの?」
ルゼが低く答える。
「そう思うやつもいる」
「名前がないのって、寒いよ」
その言葉は、ふいに落ちた。
アスター自身も、言ってから気づいたようだった。
リシェとルゼは、同時に彼を見る。
アスターは少し困ったように笑った。
「いや、今のは……なんとなく」
リシェは調査帳を開こうとし、やめた。
今の言葉は、記録できない気がした。
いや、記録してしまうと何かを壊す気がした。
ルゼは、かわりに自分の白札へ短く書いた。
――寒い。
リシェは目を向ける。
「それは?」
「正式記録じゃない。俺の札」
「何に使うのですか」
「忘れないため」
ルゼはその札を札箱へ戻した。
「空名は、見てる側の記憶も削る。だから言葉の欠片だけでも拾っとく。名前じゃなくても、温度くらいは残る」
リシェは、その言葉を胸の中で繰り返した。
名前じゃなくても、温度くらいは残る。
アスターは、どこか照れくさそうに頬をかいた。
「なんか、僕、死者にしては世話されてるね」
ルゼは即答する。
「記録できない死者ほど面倒なんだよ」
「面倒って言われた」
「褒め言葉だ」
「絶対違う」
リシェは二人のやり取りを見ながら、少しだけ息を吐いた。
重い事態の中に、奇妙な軽さがある。
アスターは笑う。
ルゼは悪態をつく。
自分は注意する。
そのやり取りが、なぜかこの墓地の霧を少しだけ薄くしていた。
だが、問題は何一つ解決していない。
空欄の棺。
記録できない死者。
名を抜かれた状態。
そして空名会。
リシェは墓碑の亀裂へ向き直った。
「アスター。あなたは、空欄の棺に引き寄せられて現れたと言いましたね」
「うん。たぶん」
「あなたと、あの棺の死者は同じ状態にあるのかもしれません」
「同じ?」
「記録されない死者同士が、残響で繋がっている可能性があります」
アスターは、少しだけ真面目な顔になった。
「じゃあ、あの棺の誰かを探せば、僕のこともわかる?」
「可能性はあります」
「逆に、僕を調べれば、あの棺の誰かも見つかる?」
「それも、可能性があります」
アスターは少し考えた。
それから、いつものように笑った。
「じゃあ利害一致だ。僕、自分の名前が知りたい。君は棺の死者を記録したい」
リシェは頷く。
「はい」
「で、あのだらしない受付の人は?」
ルゼが紙杯を拾いながら答える。
「俺は巻き込まれたくない」
「でも来たよね」
「棺の傷が増えたからな」
「心配だった?」
「備品管理だ」
「優しいんだ」
「死者は黙ってろ」
「死者にも発言権はあるってリシェが言ってた」
「余計な権利を与えるな、記録官」
リシェは真顔で返した。
「必要な権利です」
「真面目か」
「真面目です」
「知ってた」
ルゼは諦めたように肩をすくめた。
そのとき、空白墓地の奥で、また音がした。
かたり。
今度は一つではない。
かたり。
かたり。
かたり。
名のない墓碑が、列をなして小さく震えていた。
白い石の表面に、細い亀裂が浮かび上がる。
どれも文字になりかけ、すぐに崩れていく。
アスターの輪郭が、わずかに揺れた。
リシェは彼に手を伸ばしかける。
「アスター」
「大丈夫」
彼は笑おうとした。
だが、その声は少し震えていた。
「たぶん、呼ばれてる」
ルゼが低く言う。
「空白が共鳴してる。長居はまずい」
「では、次の手がかりを探します」
リシェは白花の花弁を取り出した。
葬列の跡に残っていたもの。
「この花粉。白花市場のものです」
ルゼが頷く。
「安いほうの白花だな。下層の花売りがよく扱う」
アスターは首を傾げた。
「花を売ってる人を探すの?」
「はい。葬列にいた少女も、白花を握っていました。彼女が誰のために泣いていたのかを確認します」
「名前を忘れてても?」
「忘れていても、悲しみは残っています」
リシェは静かに言った。
「名前が抜かれても、関係まですべて消えたとは限りません」
アスターは、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。
「関係、か」
ルゼは札箱を抱え直す。
「行くなら急げ。白花市場は朝のうちが一番騒がしい。騒がしい場所のほうが、消された名前は見つけやすい」
「なぜですか」
「静かな場所だと、空白の音が大きすぎる」
ルゼは墓碑の列を見た。
「生者の声に紛れてるほうが、死者の欠け方がわかることもある」
リシェは頷いた。
「白花市場へ向かいます」
アスターがふわりと隣へ並ぶ。
「僕も?」
「あなたは事件の関係者です」
「保護に格上げ?」
「監督付き同行です」
「言い方」
「不満なら、墓地で待機してもらいます」
アスターは即答した。
「同行します、記録官殿」
ルゼが半眼で見る。
「幽霊が市場を歩くのか。営業妨害だな」
「見えてないんじゃなかったの?」
「見えてない幽霊でも邪魔なもんは邪魔だ」
「ひどい」
リシェは二人のやり取りを聞きながら、空白墓地を振り返った。
名のない墓碑の列は、また静かになっている。
だが、その静けさは先ほどまでとは違った。
沈黙ではない。
何かを待っている空白。
リシェは胸元の迷子札を握った。
リシェ=ベルレイン。
そう心の中で名乗る。
死者名記録官。
出生記録なし。
だが、今は生者。
死者の名を聞く者。
そして、余白にひとつの仮名を置いた者。
アスター=ヴェイル。
その名が、消えないうちに。
リシェは白花市場へ向かって歩き出した。




