第九節 ――生者を、生者へ
地下書庫から戻ったあとも、リシェの指先には古い紙のざらつきが残っている気がした。
主任室の窓には夕方の光が薄く差し、机の上にはさきほどの帳面から取った照合票が置かれている。原本はすでに地下へ戻された。それでも、余白にあった一文だけは、目を閉じればすぐに浮かんだ。
――この者、まだ死者にあらず。
机を挟んで座るオルヴァは、急かさなかった。アスターも窓際に立ったまま、珍しく何も言わない。窓硝子にはもう白い獣面など映っておらず、夕方の庁舎と、向かいの屋根に灯り始めた葬送灯が淡く重なっているだけだった。
「どこまで、分かっているんですか」
リシェが先に尋ねた。
声は自分で思っていたより落ち着いていた。
オルヴァは手元の照合票へ目を落とす。
「多くはありません」
「……はい」
「あなたがネム=レクスへ運び込まれた日、複数の死傷者が同時に搬送されています。身元を確認できない者も多かった。あなたもその中の一人でした」
帳面で見たものと同じだ。
番号。
名のない欄。
死者と負傷者が同じ日付の下へ連なっていた。
「誰の子だったのかは分かりません。名前を示す札も、保護者の記録も残っていない。当時のあなたはひどく衰弱していて、死者を運ぶ列に混じった状態で庁へ入っています」
リシェは膝の上で指を組んだ。
「死者として」
「仮受理されかけました」
オルヴァはそこで言葉を切った。
「ですが、受理の途中で呼吸が確認された」
リシェの指がわずかに動く。
「当時の記録官が手続きを止めました。正式な死者名簿へ移さないために仮受理を取り消し、余白へあの一文を残した。そのあと、あなたは生者側へ移されています」
説明は、それだけだった。
災害だったのか。
争いだったのか。
なぜそこに幼い自分がいたのか。
誰が抱いて運んだのか。それとも、本当に死者たちと同じように運ばれてきたのか。
そのどれにも、オルヴァは触れなかった。
触れられないのだと、リシェにも分かった。
彼女は自分の手を見た。
死者の墓碑へ触れ、名を聞く手だった。何度も死者の残響へ触れてきた。そのたびに、どこかで考えていたことがある。
自分自身も、もしかすると。
正式な出生帳がなく、死者名簿の余白にだけ最初の痕跡が残っている自分は、本当は最初から生者ではなかったのではないか。
死者として運ばれ、何かの間違いでこちら側へ残った存在なのではないか。
その問いを、声にすることはほとんどなかった。
声にしてしまえば、恐れている形がはっきりしてしまうからだ。
「では……私は」
続きがうまく出なかった。
オルヴァは、代わりに余計な言葉を足すこともしなかった。
「生きていました」
短い声だった。
リシェは顔を上げる。
「少なくとも、それだけは記録されています」
胸の奥で、張りつめていた何かがわずかに緩んだ。
安心した、と一言で済ませるには妙だった。出生地は分からない。両親も分からない。リシェという名が最初から自分のものだったのかさえ、古い帳面は答えてくれない。
終名を聞き取れる理由だって、どこにも書かれてはいない。
それでも、一つだけ。
あの日の自分は呼吸をしていた。
誰かがそれを確かめて、死者名簿へ入れる手を止めた。
それだけは、紙の上に残っている。
「それより前は」
リシェは訊いた。
「分かりません」
「両親も」
「記録にはありません」
「私の名前が、いつからリシェ=ベルレインだったのかも」
「現時点で、あの帳面からは分かりません」
オルヴァは答えを作らなかった。
リシェは少しだけ俯き、それから頷いた。
「分かりました」
「不満そうですね」
「分からないことが増えました」
「そうでしょうね」
「主任は、もう少し申し訳なさそうにしてもいいのでは」
「記録にないことまで私に責任を取らせないでください」
アスターが窓際で、ようやく小さく息を漏らした。
「いつもの二人に戻ってきた」
「黙っていてください」
「安心しただけなのに」
リシェが振り向くと、アスターは肩を竦めた。それ以上は笑わず、ただ少しだけ表情を和らげる。
オルヴァが机の上の照合票を閉じた。
「ベルレイン」
「はい」
「記録がないことと、過去がないことは同じではありません」
リシェは返事をしなかった。
代わりに、その言葉を一度だけ胸の中でなぞる。
自分の過去は分からない。
だが、空白だったわけではない。
誰かに抱かれたかもしれない。泣いたかもしれない。何かを見て、怖がって、眠って、ここまで運ばれてきた。そのどれも記録されていないからといって、起きなかったことにはならない。
オルヴァはそこで話を終えた。
「では、仕事へ戻りましょう」
「……切り替えが早いですね」
「一人の生者が、鐘が鳴るたび死者側へ引かれています」
その一言で、リシェの背筋が伸びた。
「はい」
「あなたの過去は逃げません。マレナ=フォルクは、今も生きています」
机の上に、別の書類が置かれる。
《封緘生者記録》適用申請。
その横には、身元不明女性の再仮受理票。
リシェは二枚を見比べ、筆を取った。
*
訂正処理は、ひとつの名前を消して終わる仕事ではなかった。
死者名記録庁の照合室には、マレナの死者名簿、生者側の登録票、七年前の水難事故記録が並べられている。オルヴァが葬送法院の限定承認を確認し、リシェは訂正欄へ記載する内容を一つずつ読み上げた。
「死亡者名、マレナ=フォルク。七年前の水難事故における身元誤認を確認。死亡記録を取消」
筆先が古い死亡記録の訂正欄へ触れる。
元の記録を塗り潰しはしない。
《マレナ=フォルク、死亡》。
その文字は、七年間この街で事実として扱われてきた。間違いだったからといって、最初から存在しなかったことにすれば、誰が、いつ、どのように誤ったのかまで消えてしまう。
リシェは取消印を押し、その隣へ新しい文字を残した。
――水難事故における誤認死。本人の生存を確認。死亡記録取消。
乾ききっていない墨を見つめる。
七年前の間違いは残る。
ただし、もう現在のマレナを死者とはしない。
「生者側を」
オルヴァに促され、リシェは別の記録を開いた。
朝鐘亭の営業登録。納税。住居。これまで簡易的な保護登録の上へ積み重なっていた生活の記録がある。
「生存状態、正式復帰」
印を押す。
次に、その復帰記録そのものへ封緘符号を付した。
住所。
就労地。
現在の生活照合。
過去の配偶者情報との接続。
一つずつ、死亡取消後の現在へ通常照会から辿れないよう閉じていく。
最後の封緘印を押す前に、リシェは手を止めた。
「これで、ラス=フォルクが通常照会をかけても?」
「生存復帰も、現在地も、《朝鐘亭》も出ません」
オルヴァは確認票から目を上げた。
「制度上、マレナ=フォルクは正式な生者です。ただし、その現在記録へ一般照会から到達することはできない。旧配偶者であることも、閲覧理由にはなりません」
リシェは封緘符号をもう一度確かめた。
「……分かりました」
最後の印を押す。
生きていることを正す。
けれど、その正しさを誰にでも差し出すわけではない。
筆を置いたところで、胸の中に小さく息が通った。
その隣では、もう一つの処理が待っている。
墓の女性。
名前は、まだない。
リシェは七年前の葬送記録を開いた。
「《マレナ=フォルク》として行われた葬送を解除します」
墓碑記入。
閉帳。
眠りの鐘。
いずれも、死者そのものが存在しなかったわけではない。間違っていたのは、その死者へ結びつけられた名前だ。
だから葬送自体を無かったことにはしない。
誤認名による葬送記録を解除し、身元不明死者として改めて仮受理する。
「名前欄は」
隣にいた見習い職員が訊いた。
リシェは空欄を見た。
終名聴取でも聞こえなかった。
残響歩きでも拾えなかった。
分からない。
「空けてください」
「仮名もなしですか」
「正式な名は、まだ書けません」
見習いが少し困った顔をしたところで、入口から眠そうな声が飛んだ。
「なら、うちの仕事だろ」
ルゼ=カロウが、肩のずれた外套を直しながら入ってきた。
片手には札箱を抱えている。本人の身なりとは対照的に、箱の留め具も革紐もきちんと整えられていた。
「主任から聞いた。七年も他人の名札ぶら下げてたんだって?」
「言い方」
リシェが眉を寄せる。
「事実だろ。死者に聞こえてたら、そっちの方が怒るぞ」
ルゼは机へ札箱を置くと、蓋を開いた。
中には白札、灰札、細い銀紐、封印用の小札が寸分乱れず並んでいる。彼はその中から何も書かれていない白札を一枚取り出した。
アスターが少し近づいた。
自分の胸元に結ばれた小さな札へ、無意識に指を寄せる。
《星屑》。
正式な名ではない。
けれど、空白から一歩だけこちらへ寄せるために、ルゼが渡した屑札だ。
「名前、つけるんですか」
リシェが訊く。
「勝手につけねえよ」
ルゼは白札を指で弾いた。
「分からねえなら、分からねえままでいい。受付番号は振る。仮札もつける。そうすりゃ、少なくとも『誰もいない』扱いにはならない」
「白いまま?」
アスターが言った。
ルゼには見えていないはずだったが、彼はなぜか一瞬だけアスターの方へ顔を向けた。
「白いからって、何もないわけじゃねえだろ」
その返答が誰へ向けたものなのか、リシェは訊かなかった。
ルゼは白札へ受付番号だけを記し、銀紐を通した。名前の場所には何も書かない。
「無名死者受付所で引き継ぐ。遺品と事故記録もこっちへ回せ」
「お願いします」
「頼まれなくてもやる。仕事だからな」
「主任と同じことを言っています」
「一緒にすんな」
離れた机で書類を確認していたオルヴァが顔も上げずに言う。
「聞こえていますよ」
「地獄耳だな」
「勤務中です」
「はいはい」
ルゼは面倒そうに返しながら、白札だけは両手で丁寧に封筒へ収めた。
それを見届けてから、リシェは身元不明女性の再仮受理票へ署名した。
名前の欄は、最後まで白いままだった。
けれど、その下には受付番号があり、発見場所があり、水難事故の日付があり、マレナ=フォルクではない一人の女性が確かに死亡したことが記された。
*
墓碑から《マレナ=フォルク》の名が消えたのは、その日の夕方だった。
削り直された白い石の表面には、まだ細かな石粉が残っている。墓碑師が最後に布で払っていった跡が、斜めから差す夕日の中で薄く見えた。
生年月日も、家名もない。
新しい名前を刻むこともしなかった。
ただ、正式な墓域番号だけが目立たない位置へ残されている。
そこに一人の死者がいる。
今は、それだけだった。
マレナは墓碑の前に立ち、長いあいだ何も言わなかった。
朝鐘亭の仕事着ではなく、濃い色の外套を羽織っている。腕には、朝と同じ花が抱えられていた。白い小花に淡い青を混ぜた、墓域では珍しくない束だ。
リシェとアスターは、少し離れた場所で待った。
マレナには、手続きの内容をすべて伝えてある。
死亡記録は取り消された。
生者として正式に戻った。
生存復帰を含む現在記録は封緘され、ラスから通常の照会で彼女の生存や店、住所へ辿ることはできない。
墓に眠っていた女性は、身元不明死者として新しく受け付けられた。
説明を聞いたとき、マレナは何度も頷いた。
けれど墓の前へ来てからは、一度もこちらを見ていない。
「変ですね」
やがてマレナが言った。
視線は白い石へ向いたままだった。
「何がですか」
「七年ずっと、ここは私の墓だと思ってました」
花を抱え直す。
「最初に見たときは、気味が悪かったんです。自分の名前が石に刻まれてるんですよ。生きてるのに」
口元が少しだけ歪んだ。
「でも、そのうち慣れました。たまに花を持ってきて、まだあるなあって確認して。変な話ですけど、この墓があると安心してたんです」
リシェは黙って聞いた。
「ここにマレナ=フォルクが眠ってるなら、私は見つからないって」
その名前は、もう石にはない。
マレナは白くなった部分へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。触れずに指を下ろし、代わりに花束を両手で持つ。
「なのに、本当は」
言葉が一度途切れた。
「ずっと、あなたがいたんですね」
返事はない。
墓域では、少し離れた通路を老夫婦が歩いている。花桶の水を替える音がして、その向こうでは墓碑師たちが今日の道具を片づけていた。
特別な風は吹かなかった。
白い花びらも揺れない。
リシェが墓碑へ意識を向けても、声は聞こえなかった。
終名の残響もない。
ただ白い石がそこにある。
「ごめんなさい」
マレナが言った。
声は小さかったが、はっきりしていた。
彼女は膝をついた。
「あなたの名前を借りるつもりなんて、なかった」
花束を置く場所を探すように、手が墓前を彷徨う。
「外套だって、寒そうだったから渡しただけで。私の代わりに死んでほしいなんて、そんなこと思ってなかった」
当たり前のことを、言わずにはいられないようだった。
「最初は訂正するつもりだったんです」
そこから先は、リシェもすでに聞いている。
それでも止めなかった。
「でも、私が死んだって紙を見たら、嬉しかった」
マレナの喉が動く。
「もう帰らなくていいって思った。もう探されないって。あの人があなたを私だと思ってくれたことまで、都合がいいって思った」
声が震え始めた。
それでも、言葉は途切れなかった。
「そのまま逃げました。あなたが誰なのか調べもしなかった。名前が間違ってるって知ってたのに、七年も」
マレナは俯いた。
指が花の茎を強く握り、細い葉が擦れる音がした。
「ごめんなさい」
もう一度、同じ言葉を口にする。
今度は、すぐには続かなかった。
肩が小さく上下する。
それでも泣くまいとしているように、何度か呼吸を整えた。
「でも」
声が詰まった。
マレナは目元を押さえなかった。
涙が頬を伝うまま、白い墓碑を見た。
「あなたがいたから、私は逃げられた」
その言葉にも、答えは返らなかった。
知らない女性がマレナを赦したと告げる声もなければ、墓碑が温かくなることもない。
リシェにも、何も聞こえなかった。
聞こえないまま、そこにいた。
マレナは泣いていた。
大きな声ではない。息を噛み殺すような泣き方でもなく、ただ涙を止めることを諦めたように静かに流している。
「私、生きたかったんです」
震える声で言う。
「生きられて、嬉しかった」
しばらくして、もう一つ続ける。
「今も、生きたいです」
その言葉を口にしてから、マレナは目を閉じた。
「それなのに、あなたが死んだことを使ったのも、本当です」
どちらも取り消さなかった。
生き延びられたことへの安堵も。
見知らぬ人の死を利用した罪悪感も。
リシェは慰めの言葉を探さなかった。どちらか片方だけを正しい感情にしてしまえば、マレナが七年間抱えてきたものをまた別の形へ押し込めることになる気がした。
隣を見ると、アスターも黙っていた。
いつもなら人の涙を見続けることを少し気まずそうにする彼が、今は目を逸らしていない。
マレナはやがて花束へ手を戻した。
白と淡い青の花。
朝、この場所へ供えていたものと同じだった。
彼女は石の前へそっと置き、茎の向きを指で整えた。何度もやってきた動作なのだろう。迷いのない手つきだった。
ただ、その手が最後に離れるまで、少し時間がかかった。
「名前、分からないんですよね」
マレナが訊いた。
「はい」
リシェは答える。
「これから分かるかもしれません。分からないままかもしれません」
「そうですか」
「分からない名前を、こちらで決めるつもりはありません」
マレナは白い石を見つめた。
「じゃあ、何て呼べばいいんでしょう」
リシェはすぐには答えなかった。
正式な名を与えることはできない。
死者本人が何と呼ばれたかったのかも聞こえない。
けれど、名前が分からないからといって、この女性へ何も語りかけてはいけないわけではない。
「今は、無理に決めなくていいと思います」
マレナが振り返る。
「分からないなら、分からないままで」
リシェは墓碑を見る。
「それでも、ここにいる人へ花を置くことはできます」
マレナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
立ち上がる前に、もう一度だけ墓碑へ向き直った。
「また来ます」
今度は謝らなかった。
白い石は、何も答えない。
それでも墓前には、一束の花が残った。
七年間、マレナ=フォルクが自分自身の墓へ供えてきた花だった。
今はもう、自分の墓ではない。
名前の分からない、一人の死者のための花だった。




