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終節 ― 生きています

 夕方のネム=レクスには、昼間より少しだけ濃い霧が戻っていた。


 死者名記録庁を出たリシェは、肩から提げた鞄の位置を直しながら石段を下りた。庁舎前では夜番へ入る職員たちが挨拶を交わし、少し離れた通りでは葬送灯にひとつずつ火が入れられている。白い墓碑の列は暮れかけた空の下で輪郭を淡くし、そのあいだを花を抱えた人や仕事帰りの職人が、いつも通り行き来していた。


「今日は長かったねえ」


 隣を歩くアスターが、疲れた様子もないのに大きく伸びをした。


「あなたは書類を書いていないでしょう」


「精神的に働いた」


「便利な労働ですね」


「残響にも入ったよ?」


「それは認めます」


「お、珍しい」


「認めるところは認めます」


「じゃあ今日の僕、かなり役に立った?」


「それ以上求めるなら撤回します」


「厳しいなあ」


 軽いやり取りをしながら、二人は墓域沿いの通りへ入る。朝には白かった空も、いまは薄い灰紫に染まり始めていた。昼のあいだ乾いていた石畳には霧の湿り気が戻り、靴底が触れるたびにわずかに色が濃くなる。


 曲がり角の先から、焼いた小麦の匂いがした。


 リシェは足を止めるほどではない速度で、ほんの少しだけ顔を上げた。


 《朝鐘亭》には明かりが灯っていた。


 昼間、一度は閉じられた扉が開き、窓には湯気が薄く曇っている。棚には夕方用に焼かれたパンが並び、仕事帰りらしい客が二人、紙包みを抱えて店から出てきた。


 店先では、見覚えのある子どもが籠を覗き込んでいた。


「ねえ、これ焦げてるから安くしてよ」


「焦げじゃなくて焼き目!」


 マレナの声が、通りまでよく響いた。


「黒いじゃん」


「しっかり焼いただけです」


「昨日より黒いよ」


「昨日より香ばしいんです」


「焦げた?」


「焼き目!」


 子どもが笑い、マレナも笑った。


 昼間、鐘の音とともに床へ倒れた人とは思えないほど、いつもの声だった。頬にはちゃんと血の色があり、包み紙を折る手も止まらない。客から代金を受け取ると釣り銭を返し、その途中で焼き台の方へ振り向いて、奥にいる誰かへ次の籠を出すよう声をかけている。


 そのとき、街の奥から眠りの鐘が鳴った。


 低い一音が、夕霧の向こうから石造りの街へゆっくり広がってくる。


 リシェの足が、わずかに緩んだ。


 視線が反射的に《朝鐘亭》へ戻る。


 マレナも鐘には気づいたらしい。紙袋へパンを入れようとしていた手が一瞬だけ止まり、音の来た方へ顔を上げた。


 それだけだった。


 顔色は変わらない。


 膝も崩れない。


 呼吸を失うこともなく、マレナはすぐに客へ向き直った。


「ほら、おまけ一個」


「焦げたやつ?」


「だから焼き目!」


「やっぱ焦げてるじゃん」


「返してください」


「やだ」


 子どもは紙袋を抱えて逃げ、マレナが店先から「次は定価だからね!」と声を飛ばした。


 アスターが隣で小さく笑った。


「平気そうだね」


「はい」


 リシェはそれだけ答えた。


 鐘の低い余韻は、墓碑と黒い屋根のあいだに長く残っている。


 マレナはもうこちらには気づかず、次の客へ釣り銭を数えていた。生者として帳面へ戻された女性が、生者の仕事をしている。


 リシェはそれを少しだけ見てから、歩調を戻した。


 アスターも声をかけなかった。


 《朝鐘亭》の明かりが背後へ遠ざかり始めたところで、彼が横から言った。


「じゃあ、君、本当に生きてたんだ」


 リシェはゆっくり彼を見る。


「失礼ですね」


「確認しただけ」


「私は最初から生きています」


「記録はなかったけど」


 リシェは足を止めかけた。


 アスターは横目でこちらを見ている。口元には、明らかに分かって言った人間の笑みが浮かんでいた。


「そこを今言いますか」


「だって、本当でしょ?」


「今朝までなら、もう少し気にして言ってください」


「今は?」


「今も気にしてください」


「面倒だなあ」


「誰が面倒ですか」


「記録官って繊細なんだね」


「あなたにだけは言われたくありません」


 言い返しながら、リシェ自身も少し笑ってしまった。


 ほんの一瞬だったが、それをアスターは見逃さなかったらしい。嬉しそうに眉を上げたものの、からかう言葉は続かなかった。


 二人はそのまま歩いた。


 夕方の市場では店じまいが始まっている。花屋が余った白花を束ね直し、墓碑師が作業着についた石粉を叩き落としていた。総菜屋の前では値引きを待つ客が妙に自然な列を作り、店主が「そこまで下げない」と笑いながら追い払っている。


 その向こうでは、葬列が一本、静かに大通りを横切っていた。


 話し声が少しだけ小さくなる。


 人々は道を空け、棺と葬送灯が通り過ぎるのを待つ。最後尾の遺族が角を曲がると、止めていた荷車がまた動き出し、市場の値段交渉も戻ってきた。


 ネム=レクスは、いつも通りだった。


 さきほどの鐘の音も、街じゅうの石壁へ薄くほどけながら、少しずつ遠ざかっていく。


 アスターが前を向いたまま口を開く。


「……よかったね」


 声から、いつもの軽さが抜けていた。


 誰のことを言っているのか、訊く必要はなかった。


 マレナだけではない。


 地下書庫の古い帳面も、《この者、まだ死者にあらず》という一文も、死者受理を取り消された幼い子どもの記録も、まだ胸の奥に残っている。


 リシェは答えなかった。


 ただ、歩幅をほんの少しだけ小さくした。


 アスターは先へ行かず、それに合わせた。


 夕霧の中を二人の足音が並ぶ。


 しばらくして、リシェは小さく息を吐いた。口元には、自分でも気づくかどうかという程度の笑みが残っていた。


 分からないことは、まだたくさんある。


 けれど、自分が死者だったのではないかという問いだけは、もう抱えなくていい。


 幼い自分は生きていた。


 誰かが呼吸を確かめ、死者名簿へ入るのを止めた。


 その先も、その前も分からない。それでも、その一つを知れたことは小さくなかった。


 二人は墓域を抜け、霧の濃い細い通りへ入った。


 先ほどまで黙っていたリシェが、ふいに隣を呼ぶ。


「アスター」


「なに?」


 少年がいつもの調子で振り向く。


 リシェはその顔を見た。


 正式な死者名簿には存在しない。


 死因も、生前名も、死亡地も分からない。手元にあるのは、自分が調査帳の余白へ書いた仮の名と、ルゼが渡した白札に残る《星屑》という呼び名だけだ。


 朝までの自分なら、記録のない存在について、もっと違う考え方をしていたかもしれない。


「あなたも、記録がないからといって」


 そこまで言って、止まった。


 アスターは待っている。


 続きを急かさず、軽口も挟まない。


 存在しないわけではありません。


 そう言えば簡単だった。


 実際、目の前にいる。話している。笑うし、腹は減らないのにパン屋を覗きたがる。残響の中へ入り、危ないと呼べば戻ってくる。


 けれど、その言葉だけで彼の空白を埋めてしまうのも違う気がした。


 記録がないから何なのか。


 名が分からないから何なのか。


 アスター本人がそれをどう思うのか。


 まだ、リシェはそこまで聞いていない。


「続きは?」


 アスターが首を傾けた。


 リシェは視線を前へ戻す。


「……まだ考えています」


 一拍遅れて、アスターが笑った。


「記録官って大変だね」


「誰のせいですか」


「僕?」


「かなり」


「僕、何もしてなくない?」


「何もしていない人は、こんなに調査帳の余白を使いません」


「それは君が書いてるんでしょ」


「原因はあなたです」


「責任転嫁だ」


「記録官判断です」


「強いなあ、それ」


 霧の向こうで、葬送灯が一つ、また一つと灯っていく。


 二人は歩き続けた。


 眠りの鐘の最後の余韻は、もう街のどこに残っているのかも分からないほど薄くなっていた。


 リシェは立ち止まらなかった。


 アスターも止まらない。


 二人の足音は、そのまま夕霧の奥へ続いていった。

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