第八節 ― この者、まだ死者にあらず
死者名記録庁の地下書庫は、地上より季節の変化が乏しい。
石段を降りるごとに外の気配が薄れ、代わりに乾いた紙と革表紙、古い防湿香の匂いが濃くなる。壁際の葬送灯は火を小さく絞られており、その下に並ぶ棚は天井近くまで帳面で埋まっていた。何十年も前に閉じられた死者名簿、訂正記録、葬送法院から差し戻された審理簿、すでに現場ではほとんど使われない古い条項の適用例。地上の執務室では一枚の照会票で済む情報も、ここでは人ひとり抱えるほどの帳面の中に眠っている。
「地下って、死者名記録庁の中でも特に死者っぽいね」
アスターが声を潜めて言った。
誰に注意されたわけでもないのに、自然とそうなる場所だった。
「書庫ですから静かにしてください」
「静かにしてるよ。今の僕、かなり書庫向けの音量だったでしょ」
「内容が書庫向けではありません」
「そこも審査されるんだ」
前を歩くオルヴァは振り返らなかった。ただし、棚の角を曲がる直前、わずかに眼鏡を押し上げる。その仕草だけで、聞こえているのだろうとリシェには分かった。
彼らが探しているのは、《封緘生者記録》が実際に使われた前例だった。
条文が残っていることと、それをマレナへ適用できることは別である。とくに、生者がいったん死者として受理され、閉帳に近い段階まで進んだ案件で、なお現在地を伏せたまま生存記録だけを復帰させた例が必要だった。
オルヴァが古い分類札を棚へ差し入れ、背表紙の番号を順に追う。
「誤受理。生存確認。受理取消。保護記録への移管……この辺りです」
リシェも隣の棚を見る。革表紙に刻まれた文字の多くは、日常の実務ではまず目にしない分類だった。死亡誤認、身元混同、搬送時錯誤。どれも起きてはならないことではあるが、長い年月の中では一件もなかったわけではない。
「ありました」
オルヴァが厚い一冊を抜き出した。
机まで運ぶと、古い金具が小さく鳴った。表紙には、現在使われている死者名簿よりひと回り古い庁印が押されている。
リシェは白手袋を直し、オルヴァと向かい合って腰を下ろした。アスターは当然のように横から覗き込む。
「読めるんですか」
「ところどころ。古い字、細いんだよ」
「書式が違いますから」
「君、楽しそうだね」
「古い帳面を見るのは嫌いではありません」
「そこ認めるんだ」
オルヴァが頁をめくりながら、淡々と言った。
「ベルレインは書庫整理を任せると時間を忘れます」
「主任」
「事実です」
「へえ」
「アスターまで嬉しそうにしないでください」
小さなやり取りを挟みながらも、リシェの目は紙面を追っていた。
最初に見つかったのは、鉱山事故で死亡者に混じって搬送された男性の記録だった。仮受理直後に呼吸が確認され、死者受理を取消。生者側へ移送。その後、家族間の争いを理由に居所を限定公開へ切り替えている。
ただし、これは封緘生者記録そのものではなかった。
二冊目には、身元不明の女性を別人として受理した例があった。生存していた本人が後から名乗り出て、死亡記録は訂正されたが、保護条項の適用はされていない。
「近いですが、弱いですね」
リシェが言うと、オルヴァも頷いた。
「法院へ出すなら、もう少し条件の重なる例が欲しい」
そこからしばらく、三人は黙って帳面をめくった。
頁を返す音だけが書庫に積もる。ときおり上階から微かな足音が響くものの、石の天井を通るころには誰のものか分からないほど遠くなっていた。
リシェが次の束へ手を伸ばしたとき、棚札の年代に目が留まった。
十六、七年ほど前。
無意識に指先が止まる。
その程度なら、ただ自分の年齢に近いというだけだった。けれど、何となく視線が離れなかった。
「どうしました」
「いえ」
答えながら、リシェはその帳面を引き出した。
思ったより重い。両手で机へ載せると、古い塵がわずかに舞った。オルヴァが隣から表紙を見る。
「それも誤受理記録です」
「確認します」
金具を外す。
最初の数頁は、身元不明者の搬送記録だった。
同じ日付が続いている。
死者。
重傷者。
身元不明。
搬送番号。
さらに死者。
ひとつの出来事からまとめて運ばれた者たちらしいことは分かるが、それが何だったのかは、この帳面には書かれていない。少なくとも、この場で必要なのは原因ではなく、誰がどの状態で受理されたかという事実だけだったのだろう。
「人数が多いですね」
アスターが覗き込んだ。
リシェも頷く。
頁をめくる。
いくつもの名前のない欄が続いた。年齢推定、性別、外傷、搬送番号。身元不明者には、本来なら名前が入る位置に短い線だけが引かれている。
さらに一枚。
そこで、リシェの手が止まった。
余白に文字があった。
本文とは違う筆跡。
急いで書いたように、わずかに墨の太さが揺れている。
――この者、まだ死者にあらず。
その一文を、リシェは知っていた。
自分に正式な出生記録が残っていないことも知っている。幼い自分について確かなものとして伝えられてきたのは、古い死者名簿の余白にその言葉があったということだけだった。
けれど、その一文が書かれた頁を、周囲の記録ごと見たことはなかった。
リシェは息を止めたまま、文字の下へ視線を落とす。
搬送番号。
推定年齢。
身元不明。
保護者記載なし。
名札、なし。
そして、死者仮受理を示す欄に引かれた取消線。
その横に、小さく追記がある。
幼児一名。
死者受理取消。
生者側へ移送。
「……」
紙が急に薄くなったように感じた。
指先の下には確かに帳面がある。古い紙のざらつきも、乾いた墨の凹凸も感じられる。それなのに、そこに書かれているものだけが現実から少し浮いて見えた。
リシェはもう一度、上の欄へ戻った。
同じ日。
何人もの死傷者。
名前の分からない者たち。
番号で運ばれた人々。
その列の中に、一人だけ死者としての受理を取り消された幼い子どもがいる。
余白には、自分がずっと知っていた一文がある。
「リシェ」
隣から呼ばれた。
アスターの声は小さかった。
いつもなら、何か言う。書庫で自分の名前を見つけるなんて記録官らしい、とか。死者名簿に先に載りかけるなんて君も変わってる、とか。
何も言わなかった。
リシェは自分の名前を探した。
現在の名と同じ綴りが、後から付された参照欄にあった。
《リシェ=ベルレイン》。
正式な出生欄ではない。
受理取消後の照合先を示す、後年の追記だった。
それでも、自分の名だった。
リシェの指が、その文字の手前で止まる。
「……私?」
声にした途端、ひどく幼い問いに聞こえた。
オルヴァはすぐには答えなかった。
眼鏡越しに帳面を見下ろし、次にリシェを見る。その表情からは、驚きも否定も読み取れなかった。
「主任」
リシェはもう一度呼んだ。
「この受理取消……私なんですか」
オルヴァは否定しなかった。
それだけで、胸の内側が冷えた。
何年も知っていたはずの言葉だった。
《この者、まだ死者にあらず》。
これまでは、それしかなかった。自分の出生記録が存在しない代わりに、どこかの記録官が「死者ではない」とだけ書き残した一文。
けれど今、その周りに人がいた。
同じ日に運ばれた死傷者がいた。
番号しか持たない身元不明者がいた。
そして自分らしい幼児が、死者として受理されかけ、その受理を取り消されている。
「どうして、今まで」
そこまで言って、リシェは口を閉じた。
何を訊こうとしたのか、自分でも定まっていなかった。
どうして見せなかったのか。
どうして教えなかったのか。
どうして自分はここにいたのか。
どこから来たのか。
誰の子なのか。
この帳面に並ぶ人々と何があったのか。
問いだけが一度に増え、どれから口にすればいいのか分からなくなる。
オルヴァは、その全部へ答えようとはしなかった。
「ここで分かるのは、書かれている範囲だけです」
いつもの声だった。
「主任……」
「続きを話すなら、帳面を閉じてからにしましょう」
リシェは返事をしなかった。
視線が、余白の一文へ戻る。
この者、まだ死者にあらず。
何度も聞かされ、何度も頭の中で繰り返した文字が、初めて誰かの手で書かれたものとして見えた。
死者名簿の余白に。
多数の死傷者の記録の中に。
自分の名より先に。
アスターがそっと机の向こうへ回った。
彼は何も訊かなかった。ただ、リシェが帳面から顔を上げるまで待っていた。
やがてリシェは指先を頁から離した。紙を傷めないようにゆっくりと帳面を閉じると、革表紙の上へ手を置く。
それでも、掌の下にあの一文が残っているような気がした。
地下書庫を出たときには、庁舎の窓に夕方の薄い光が差していた。
石段を上がりきったところで、リシェは足を止める。冷えた書庫から戻ったせいか、廊下の空気が妙に暖かかった。
壁際の窓硝子に、自分の姿が映っている。
黒い記録官制服。抱えた調査帳。少し青ざめた顔。
その肩越しに、白いものが見えた。
獣の面。
見間違いかと思うほど静かに、白い顔だけが硝子の奥からこちらを見ている。
「君は死者の名を聞く。では、君自身の名は誰が聞く?」
低くも高くもない声だった。
リシェが振り返る。
廊下には誰もいない。
もう一度窓を見ると、映っているのは自分と、その少し後ろに立つアスターだけだった。




