第七節 ――正しいことは、危険です
死者名記録庁へ戻った頃には、午後の光が窓の高い位置まで移っていた。
リシェが調査帳と水難事故の照合資料を抱えて主任室へ入ると、オルヴァは机の上にいつもの受理簿ではなく、何冊もの法規集を広げていた。黒い表紙、灰色の索引札、補遺を差し込んだ薄い冊子。普段なら寸分違わず揃っている机の端まで紙で埋まり、白手袋をした指が古い条文を追っている。
珍しい光景だった。
リシェが扉を閉めても、オルヴァはすぐには顔を上げなかった。
「報告を」
「はい」
促され、リシェは机の前へ進む。
朝鐘亭で聞いた七年前の経緯。水難事故でマレナ自身は生存し、別の女性が彼女の外套を身につけた状態で死亡していたこと。遺体は顔貌による確認が困難で、外套や流れ着いた所持品、装飾品、そして夫ラス=フォルクの証言によってマレナ本人として受理されたこと。
さらに、墓碑での終名聴取について報告する。
「《マレナ=フォルク》という名には応答がありませんでした。二度目は、むしろ拒むような反応がありました」
オルヴァの指が止まった。
「残響歩きは」
「水難時の記録が崩れていました。アスターが拾えたのは、マレナさんが寒さに震えている女性へ自分の外套を掛ける場面だけです。女性の顔も、名前も確認できませんでした」
「つまり」
オルヴァがようやく顔を上げる。
「墓に眠っている者をマレナ=フォルクとする根拠は、現在すべて崩れた」
「はい」
その返事をしたとき、横にいたアスターが少し姿勢を正した。
オルヴァには見えていない。それでも主任室の隅に彼がいることくらいは、もう互いに前提になりつつある。
「そして、マレナ=フォルク本人は生存している」
「はい。本人も認めました」
リシェは調査帳を開き、途中に追記した時期の照合へ指を置いた。
「もう一点あります。マレナさんが異変を自覚し始めた時期です」
「続けなさい」
「七年前の死亡記録は、墓碑記入、閉帳、眠りの鐘まで完了したまま残っています。こちらは事故当時から変わっていません」
机の上へ死者側の記録を置く。
「一方、生きているマレナさんは、事故後しばらく別名や簡易的な登録で生活していました。その後、《マレナ=フォルク》として住居、納税、営業の記録を整え、《朝鐘亭》も正式に本人名義で取得しています」
今度は生者側の照会票を並べた。
「眠りの鐘で強い眠気を覚えるようになったのも、鏡の像が薄くなったのも、その後です。正確な日までは一致させられませんが、少なくとも時期は重なっています」
オルヴァは二冊へ交互に目を落とした。
「死者側は七年前から閉じたまま。変わったのは、生者側ですか」
「はい」
七年間、死者名簿の中では《マレナ=フォルク》という死者が変わらず眠っていた。一方で、現実のマレナは少しずつ自分の名を取り戻し、やがて同じ名前で家を持ち、税を払い、店を営むところまで生活の記録を積み重ねた。
同じ名前が、一方では死者として閉じられ、もう一方では生者として現在を重ねている。
リシェは二冊のあいだへ視線を落とした。
「同じ《マレナ=フォルク》が、生者と死者の両方へ強く結びついたことが、今の異常と関係している可能性は高いと思います」
「私もそう見ます」
オルヴァはそこで一度、眼鏡を押し上げた。
「ただし、なぜその状態が眠りの鐘や鏡へ現れたのかまでは、現時点では断定しないこと」
「はい」
「時期と記録状態の一致までで十分です」
リシェは頷いた。
原因をひとつの言葉で片づける必要はない。少なくとも、七年間何も起きなかったものが、なぜ最近になって動き始めたのか。その入口だけは見えた。
オルヴァは死者側の記録を一冊引き寄せ、その上へ生者側の営業・住居記録を重ねた。
「では、死亡記録は訂正が必要です」
リシェの肩が強張った。
「待ってください」
「待っています」
「主任」
「報告を遮らずに最後まで聞きました。今度はあなたが最後まで聞きなさい」
声はいつも通り静かだった。
それでもリシェは、すぐには引かなかった。
「死亡記録を通常訂正すれば、生存情報が照会可能になります」
「そうですね」
「マレナさんは、夫から逃げています」
「報告書にあります」
「現在も怖いと、本人がはっきり言っています」
「読みました」
オルヴァの返事は淡々としている。その落ち着きが、かえってリシェの焦りを強くした。
「なら、公開訂正はできません」
「死亡した人間を、生存していると分かっていて死者名簿へ残すこともできません」
「でも」
「ベルレイン」
名前を呼ばれ、リシェは口を閉じた。
オルヴァは机の上の二冊を指で分けた。
「ここには二つの誤りがあります。一つは、生きているマレナ=フォルクが死者として閉帳されていること。もう一つは、名前の分からない別人がマレナ=フォルクとして葬送されていることです」
「分かっています」
「なら、訂正は必要です」
「それで彼女が見つかったら、正しい記録に戻した意味がありません」
リシェの声が少し強くなった。
「生きている人を、生きていると書いたせいで危険に戻すなら――」
「分かっています」
「では――」
「私は公開しろとは言っていません」
リシェの言葉が止まった。
アスターも机の向こうを見た。
オルヴァは何事もなかったように、広げていた古い法規集へ視線を戻した。その一冊には、普段の実務で使う条文よりずっと古い索引札が何枚も挟まっている。
「……公開しない訂正ができるんですか」
「できる可能性があります」
「可能性」
「まだ前例照合が終わっていません」
オルヴァが一枚の細い紙札を抜き出し、該当箇所へ挟む。
「《封緘生者記録》」
聞き慣れない名称だった。
リシェは机へ少し身を乗り出す。
「そんな制度があるんですか」
「あります。滅多に使いませんが」
オルヴァは条文の一部を指で示した。
「迫害、生命への危険、身体的拘束その他、通常の公開記録へ復帰させることで当人の安全が著しく損なわれると認められる場合。本人を制度上は正式な生者へ復帰させたうえで、その復帰記録そのものを封緘できます」
リシェの視線が止まった。
「復帰記録そのものを?」
「ええ。生存復帰の有無、住所、就労地、現在地、生活記録、家族照合。保護対象となる現在記録は、まとめて一般照会から外します」
「では、生きていること自体も、一般照会には出ないんですか」
「出ません」
オルヴァは迷わず答えた。
「記録庁の内部では、マレナ=フォルクを正しく生者として扱う。しかし通常の照会者からは、その復帰記録へ到達できない。旧配偶者であるというだけでも同じです」
「ラス=フォルクが照会しても」
「通常権限では、生存復帰したことすら表示されません」
リシェはゆっくり息を吐いた。
「封緘記録を閲覧するには、主任記録官以上の確認と、葬送法院側の限定承認が必要です。本人の安全に関わる理由がなければ開けません」
条文そのものは短かった。古い書式で、欄外には改訂を示す小さな印がいくつもある。日常的に使われる制度ではないことは、一目で分かった。
それでも、残っている。
マレナを死者のまま隠しておくためではなく、生者として戻したうえで、危険な相手から現在を隠すための手段として。
「なぜ、こんな条項が」
「昔から、生存記録をそのまま公開できない人間はいます」
「でも、死者名記録庁で扱うんですか」
「誤って死者として受理された者なら、こちらの仕事です」
オルヴァはそこで眼鏡を外し、布で片方の硝子を拭いた。
「記録を正すことと、記録を晒すことは同じではありません」
リシェは返事をしなかった。
自分は、どこかで二つを同じものとして考えていた。
訂正するなら公開される。正しい帳へ戻すなら、その人の現在も制度へ明け渡さなければならない。だからマレナを守るには、誤った死亡記録を残すしかない。
その二択しか見ていなかった。
「それなら、マレナさんを生者へ戻せます」
「手続きが通れば」
「生きていることも、店も、住所も伏せたまま」
「一般照会からは、すべて封じます」
胸の奥に入っていた力が、わずかに抜けた。
その様子を見ていたのか、アスターが横から小さく言う。
「主任、最初にそれ言えばよかったのに」
オルヴァが顔を上げた。
「何か言いましたか」
「いいえ」
リシェが即答する。
「僕を庇った?」
「話が進まないので」
「やさしい」
「違います」
オルヴァは二人分の気配にひとつため息をつき、眼鏡を掛け直した。
「安心するのはまだ早いですよ」
リシェは姿勢を戻す。
「前例が必要なんですね」
「この条項は現行法に残っていますが、適用条件が厳しい。まして今回は、本人が七年間、自分の死亡記録を知りながら訂正を申し出なかった案件です。事情があったからといって、その事実まで消すわけにはいきません」
「はい」
「空名会の支援で生者側へ簡易登録を作った経緯も確認が必要です」
その言葉に、リシェは一瞬だけ身構えた。
だがオルヴァは、空名会という名前そのものを責める調子ではなかった。
「彼らが助けたことと、記録上の処理が適正だったかは分けます」
リシェは小さく頷いた。
「マレナさん本人も、空名会が全部正しいとは言っていません」
「でしょうね」
「でも、助けられたのは事実です」
「なら、その事実も記録してください」
簡潔な返答だった。
オルヴァは再び書類を分ける。
今度は、マレナの死者記録を右へ。その隣に、リシェが墓域で作った身元不明女性の調査票を置いた。
「それと、こちらです」
リシェの視線が白い紙へ移る。
名前の欄は空いている。
「墓の女性」
「はい」
「マレナ=フォルクの死亡記録を取消すと、現在の葬送記録はそのまま維持できません」
当然だった。
墓碑に刻まれた名前も、閉帳も、眠りの鐘も、その死者を《マレナ=フォルク》だとしたうえで完了している。
「葬送を解除するんですか」
「誤認された名については」
「では、あの人は」
「別個に再仮受理します」
オルヴァは空欄の名前欄を指で押さえた。
「身元不明死者として」
リシェは一瞬、言葉を失った。
訂正する。
マレナを生者へ戻す。
それだけでは終わらない。
今のままなら、墓の女性はマレナの死亡記録を消した瞬間、所属する葬送記録を失うことになる。だから、彼女には彼女自身の受理記録が必要だった。
名前が分からなくても。
「終名は不明です」
「そのまま記します」
「身元も分かりません」
「身元不明と記します」
「墓碑名は」
「決めません」
オルヴァは迷わず答えた。
「分からない名前を、帳面の都合で作る必要はありません」
リシェの頭に、白い墓碑が浮かんだ。
《マレナ=フォルク》と鮮明に刻まれた石。
あの名前を外せば、そこには何もなくなる。
けれど、何も刻まれていないことと、誰も眠っていないことは同じではない。
「無名死者受付所へ引き継ぐこともできますね」
「必要ならカロウにも照合を依頼します。仮札は正式名の代わりにはなりませんが、受理状態を保つには有効です」
アスターが、その言葉に少しだけ視線を下げた。
彼の空欄札にも、《星屑》と書かれた小さな白札が結ばれている。
リシェはそれを見たが、口にはしなかった。
オルヴァが二枚の記録を、はっきりと離して置く。
一方は、生者へ戻すマレナ=フォルク。
もう一方は、名前の分からない死者。
「一つの間違った記録へ二人を押し込んだまま直そうとするから、無理が出るのです」
その指が、二枚の紙のあいだにわずかな空間を作った。
「分けなさい」
リシェは紙を見つめた。
七年間、一つの名前の中に、生者と死者が重なっていた。
生きているマレナが死者として記され、死んだ女性がマレナとして眠っていた。どちらかを正そうとすれば、もう片方がこぼれるように見えていた。
けれど、本来は最初から二人だった。
「主任」
「何です」
「私は、死亡記録を直すか、マレナさんを守るか、どちらかだと思っていました」
「そうでしょうね」
あっさり認められて、リシェは少し眉を寄せた。
「それなら、最初から教えてください」
「自分で反対したから、条文を読む意味ができたでしょう」
「教育だったんですか」
「半分は」
「残り半分は」
「私も探していました」
リシェは机いっぱいの法規集を見た。
本当に、探していたのだ。
最初から答えを持っていて試していたわけではない。マレナを死者として残さず、かといって公開訂正で危険へ戻さないために、この人も制度の中を探していた。
オルヴァは一冊の古い補遺を閉じる。
「正しいことは、ときどき危険です」
リシェは顔を上げた。
「死亡記録を訂正する。事実としては正しい。ですが、それだけをして人を危険へ戻せば、記録官は正しさの責任を取ったことにはならない」
そこで言葉を切り、オルヴァは重ねた法規集を指先で整えた。
「制度は、使わなければただの紙です。だから、使えるものを探します」
リシェはしばらく何も言わなかった。
「……そんな制度があるんですか、と訊きました」
「訊きましたね」
「知らないものばかりです」
「全部知っている十八歳がいたら、私は採用を疑います」
アスターが吹き出した。
「そこは年齢なんだ」
リシェも少しだけ口元を緩める。
「聞こえていますよ、たぶん」
「君の笑い声だけ大きかった?」
「あなたは全体的に大きいです」
「死者なのに?」
「関係ありません」
机の向こうで、オルヴァがごくわずかに眉間を押さえた。
「続きは地下書庫でやりなさい」
「前例を探すんですね」
「ええ。《封緘生者記録》が実際に適用された案件を確認します。条文が残っているだけでは、法院を通せません」
オルヴァは古い索引札を一枚抜き、リシェへ差し出した。
紙には、地下書庫の保存区画と、古い誤受理案件を示す分類番号が記されている。
「生者が死者として受理された事例を探します」
「分かりました」
リシェは札を受け取った。
紙片は軽かった。
それでも今は、朝から抱えていた二冊の記録より、ずっと頼もしく感じられた。
机の上では、マレナ=フォルクの生者記録と、名前のない女性の仮受理票が、もう重なっていなかった。




