第六節 ― 墓の中の誰か
午後の墓域は、朝よりも白く見えた。
霧が上がったぶん墓碑の輪郭がはっきりし、並んだ石の一つひとつが低い陽を受けている。午前の葬送で置かれたばかりの花がところどころに色を添え、墓碑師が遠くで石粉を払い落としていた。死者の眠る場所であっても、人の手が入る音は絶えない。箒の擦れる音、花桶へ水を足す音、墓参りに来た家族が交わす小さな会話が、広い墓域の静けさの中へほどよく沈んでいた。
その中に、《マレナ=フォルク》の墓は変わらず立っている。
朝と同じ白い墓碑だった。
名前も、生年月日も、七年前の死亡日も消えてはいない。何も知らずに通りかかれば、ここにはマレナ=フォルクという女性が眠っていると疑う理由はなかった。
リシェは墓碑の前へ膝をつく前に、持ってきた資料を石造りの低い台へ広げた。墓そのものを開ける許可は取っていないし、その必要もない。まず確認すべきなのは、七年前にこの死者がどうやって《マレナ=フォルク》になったのかだった。
「改めて見ると、書類って強いね」
アスターが横から覗き込む。
「何がですか」
「だって、これだけ揃ってたら信じるでしょ。名前があって、持ち物があって、家族がそうだって言ってる。本人が目の前でパン焼いてなかったら、僕だって疑わないよ」
「だから照合します」
「真面目だ」
「仕事なので」
「それ、便利な返事になってきたね」
リシェは返さず、事故当時の遺体確認資料を開いた。
紙は七年分の乾き方をしていた。端が少し硬くなり、古い墨にはわずかな褪色がある。それでも記載そのものは読みやすく、当時の手順が順番に残っていた。
水難事故。発見地点。推定年齢。女性。遺体損傷あり。
そこで一度、リシェの指が止まる。
「《顔貌確認困難》」
声に出すと、言葉の冷たさが余計にはっきりした。
アスターも資料へ顔を寄せる。
「顔では確認できなかった」
「はい」
続く欄には、身元推定の根拠が並んでいる。
上着。
事故現場から回収された荷物。
身体に残っていた装飾品。結婚指輪に近い形状で、既婚女性が身につけるものとして記録されている。
そして、配偶者による確認。
ラス=フォルク。
リシェはその項目を指でなぞった。
「主要な確認根拠が、ほとんどマレナさんから離れた物なんですね」
「本人の身体じゃなくて?」
「はい。外套はマレナさんのものだった。荷物も彼女のものだった可能性が高い。装飾品についても、当時は矛盾しないと判断されています。そのうえで、夫が妻だと証言した」
どれか一つだけなら、身元確定には弱かっただろう。
けれど事故直後の混乱の中で、同じ方向を示すものがいくつも重なった。損傷した遺体があり、その遺体はマレナの外套を着ていて、近くにはマレナの荷物が流れ着き、夫も妻だと認めた。
そこから先の葬送手続きが進んだこと自体は、書類だけを見れば不自然ではない。
リシェは別紙をめくった。仮受理から遺族照合、死者名選定、墓碑記入、閉帳、眠りの鐘。すべての欄に手続き完了の印がある。
間違いは、一度確定されたあと、きれいな形をしていた。
「マレナさんが自分の死を訂正しなかったから、そのまま閉じたんだね」
アスターが言った。
「そうなります」
「じゃあ、ここにいる人はずっと――」
言いかけて、彼は墓碑を見た。
リシェも同じ方を見る。
墓石に刻まれているのは、マレナ=フォルク。
だが、マレナ本人は朝鐘亭にいる。
この石の向こうに眠っているのは、七年前の増水で亡くなった、別の女性だ。
少なくとも、その可能性はきわめて高い。
けれど「可能性が高い」と「確定した」は同じではなかった。
リシェは資料を閉じ、手袋を外した。
「聞いてみます」
アスターが少し離れる。
終名聴取は、死者から答えを無理に引き出すものではない。墓碑や遺品、死の痕跡に残った名の残響へ触れ、最後に呼ばれた名、あるいは死者自身が縋った呼び名を拾う。
いつでも明瞭に聞こえるわけではない。
とくに七年も経った墓碑では、残響が薄くなっていてもおかしくなかった。
リシェは白い石へ掌を当てた。
冷たい。
朝露はもう乾いているのに、石の内側だけが夜の冷えを残しているようだった。
呼吸を整える。
墓域の音が、少しずつ遠ざかる。
墓碑師の槌。
誰かが花を置く音。
石畳を歩く靴音。
そのすべての下へ沈むように、死者の側へ耳を澄ます。
リシェは、石に刻まれた名を呼んだ。
「マレナ=フォルク」
何もない。
風さえ返らなかった。
聞こえないこと自体は珍しくない。古い死者、呼ばれることの少なかった死者、終名が弱い死者からは、ほとんど何も拾えないこともある。
それでもリシェは手を離さなかった。
もう一度、同じ名前を呼ぶ。
「マレナ=フォルク」
今度は、無音ではなかった。
声が聞こえたわけではない。
名が浮かんだわけでもない。
手のひらに触れていた石の冷たさが、ほんの一瞬だけ強くなった。触れたものを内側から押し返すような、硬い感覚。こちらから差し出した名前だけを、拒むような反発だった。
リシェの指がわずかに浮く。
「……違う」
思わず漏れた。
アスターが顔を上げる。
「聞こえた?」
「言葉ではありません」
リシェはもう一度石へ触れたまま、感覚の残りを確かめた。
「でも、この名前には反応しています。受け入れる反応ではありません」
「マレナじゃない、って?」
「そこまで明確な言葉ではありません。ただ――」
石から手を離す。
掌には、まだ押し返された感覚が残っている。
「少なくとも、《マレナ=フォルク》という名を終名として受け取ってはいません」
アスターは墓碑を見上げた。
「じゃあ、別の名前は?」
「聞こえませんでした」
「もう一回やっても?」
「同じだと思います」
「僕なら?」
リシェは彼を見る。
アスターはすでに墓碑へ近づいていた。
「残響の方を見てみる。名前は無理でも、何か残ってるかもしれない」
止める理由はなかった。
ただし、七年前の水難事故だ。血痕や手紙のように、一つの場所へ強く残された記憶とは違う。水は流れ、物は散り、事故現場そのものも時間とともに変わっている。どこまで辿れるかは分からなかった。
「無理に深く入らないでください」
「心配してる?」
「調査が増えるので」
「そこ、もう少し素直でもいいと思う」
「アスター」
「はいはい」
軽口を返しながらも、彼の目は笑っていなかった。
アスターが墓碑へ手を伸ばす。
死者である彼の指は石を完全には掴めない。それでも、墓碑に残った記録の薄い層へ触れるように、その手が表面へ重なった。
輪郭がわずかに揺れる。
リシェはすぐそばで待った。
アスターの残響歩きは、過去をそのまま再現するものではない。死者や物に残された記録の欠片へ入り込み、そこに焼きついた場面を拾う。欠けていれば欠けたまま、歪んでいれば歪んだまま見える。
今回の残響は、最初からひどく不安定だった。
アスターの周囲に、冷たい水の匂いが滲む。
墓域にいるはずなのに、リシェの耳にも一瞬だけ水音が届いた。遠くで人が叫んでいる。何か大きなものがぶつかる音がする。
そのすべてが、途切れ途切れだった。
「アスター?」
返事はない。
彼は目を閉じている。
輪郭の向こうに、一瞬だけ灰色の景色が重なった。
濁った水。
雨に濡れた道。
流される木箱。
倒れた荷車。
誰かの腕。
また水。
場面がつながらない。
記憶ではなく、砕けた硝子の破片を水中で拾っているようだった。
アスターの眉が寄る。
「顔が……見えない」
声が遠い。
「誰のですか」
「女の人。たぶん、ここにいる人。でも、水で……いや、違う。残ってない」
映像が揺れる。
リシェにも、形だけがかすかに見えた。
人影が二つ。
一人は立っている。
もう一人は座り込んでいるように見える。
雨か、水飛沫か、景色全体が白く崩れていて、顔は分からない。
座り込んだ女性が両腕を抱えて震えている。
立っている女性が、自分の肩から外套を脱いだ。
その動きだけが妙にはっきりしていた。
外套を、震える女性の肩へ掛ける。
「……マレナさん」
リシェが呟いた。
顔は見えない。
それでも、今朝本人から聞いた話と一致する。
寒さに震える知らない女性へ、自分の外套を貸した。
外套を受け取った女性が顔を上げる。
何か言った。
しかし声は水音に潰れ、名前も言葉も残らない。
次の瞬間、景色の奥から濁流が押し寄せた。
「アスター」
リシェが呼ぶ。
場面が大きく崩れた。
白い泡と濁った水が視界を埋め、二人の姿が引き裂かれる。どちらがどこへ流されたのかさえ追えない。
アスターの身体がわずかに傾いた。
「戻ってください」
今度は強く呼ぶ。
「アスター」
彼が目を開けた。
水音が消える。
午後の墓域が戻ってきた。
白い墓碑。陽の光。遠くで石を削る音。誰かが通路の向こうで子どもを呼んでいる。
アスターはしばらく墓碑へ手を重ねたままだったが、やがてゆっくり腕を下ろした。
「……駄目だ」
息を整えるように一度間を置く。
「名前は何も拾えない。顔も分からない。事故のあとも追えなかった」
「外套の場面だけですね」
「うん。それ以外は、ほとんど水だった」
いつものように失敗を冗談へ変えることもなかった。
「この人、誰なんだろう」
アスターの視線が墓碑に刻まれた名前へ落ちる。
マレナ=フォルク。
文字だけは、七年間ずっとそこにあった。
リシェは再び墓碑の前へ膝をついた。今度は終名を聞くためではなく、石へ刻まれた文字そのものを見るためだった。
名前は分からない。
どこで生まれ、誰と暮らし、誰に何と呼ばれていたのかも分からない。
事故の日、なぜあの場所にいたのかも分からない。
ただ寒さに震え、見知らぬ女性から外套を借り、そのあと水に呑まれて死んだ。
そして七年間、《マレナ=フォルク》として葬られてきた。
「マレナさんの名前を外したら」
アスターがゆっくり言う。
「この墓、何もなくなるね」
リシェはすぐには答えなかった。
名前を誤って刻んだままにしておくことはできない。
けれど誤りを消すだけなら、この女性は今度こそ完全な空白になる。
身元を取り戻せないからといって、存在までなかったことにはできない。
リシェは持ってきた調査帳を開いた。
墓碑番号。
水難事故。
身元再照合必要。
終名不明。
そこまで書き、筆を止める。
名前の欄は埋めなかった。
分からないものを、分かったことにはしない。
アスターが横から帳面を見る。
「書かないんだ」
「名前は、まだ分かりませんから」
「でも、残す?」
「はい」
リシェは筆先を紙へ戻した。
身元不明女性。
その文字を書いてから、墓碑を見上げる。
「この人は、七年間、他人の名前で眠っています」
白い石に刻まれた《マレナ=フォルク》の文字は、午後の日差しの中でも変わらず鮮明だった。




