第五節 ― 生きたかっただけ
マレナが「ああ、もう探されないんだって」と言ったあと、《朝鐘亭》にはしばらく誰の声もなかった。
焼き台の火は弱く保たれたまま、奥で発酵中の生地がゆっくり膨らんでいる。閉店札を掛けた扉の向こうでは、昼の街が何事もなかったように動いていた。石畳を掃く音や、花籠を運ぶ商人の呼び声、ときおり墓域へ向かう人々の靴音が硝子越しに聞こえる。先ほど一人の生者が眠りの鐘で倒れたことなど、この街の日常には何の傷も残していないようだった。
リシェは膝の上に置いた調査帳へ手を伸ばさなかった。マレナの言葉を記録する必要はある。けれど、今ここで筆を取れば、彼女がようやく口にしたものまで証言欄の一文にしてしまう気がした。
壁際に立っていたアスターも黙っている。普段なら沈黙が長引けば何かしら口を挟むのに、今はマレナを見たまま動かなかった。
先に口を開いたのは、マレナだった。
「夫から逃げてたんです」
声は先ほどまでと変わらず、ひどく静かだった。
「事故の日も、そうでした」
リシェは顔を上げる。
七年前の事故当日、マレナは最低限の荷物を持って港外れへ向かっていた。そこまでは、事故記録からは分からなかった。水難事故の被災者として扱われた人間が、なぜそこにいたのかなど、死者名簿には必要のない情報だったからだ。
「十九のときに結婚しました。ラスは、外では真面目な人でした。仕事も休まないし、約束も守るし、近所の人にはよく挨拶する。私にも……最初は、よくしてくれました」
マレナは手の中の杯を見つめながら話す。
「結婚して少しすると、お金を全部ラスが持つようになりました。最初は家計をまとめた方が楽だからって。必要なものがあれば言えばいいって言われて、私もそういうものなのかなと思ってたんです」
パン屋を一人で切り盛りし、仕入れ代も釣り銭も自分で管理している今の彼女からは、少し想像しにくい話だった。
「でも、だんだん、何を買ったか訊かれるようになって。少しでも合わないと、何に使ったのか、誰と会ったのかって。家を出れば、どこに行くのか。何時に戻るのか。少し遅れると、どうして遅れたのか」
マレナはそこで、小さく肩を竦めた。
「こうして並べると、分かりやすいですね」
笑いはしなかった。
「友達と会うのも嫌がりました。連絡を取ると、何をそんなに話すことがあるんだって。だから、そのうち会わなくなりました。外へ出るのも面倒になったし、言われた時間までに帰れなかったらどうしようって考える方が疲れるから」
リシェの手が、膝の上でわずかに握られる。
怒りを挟むのは簡単だった。だがマレナが必要としているのは、ラスがどれほど悪い夫だったかを代わりに断じてもらうことではない。
だから、聞いた。
「手を上げられることも?」
「ありました」
返事は淡々としていた。
「毎日じゃありません。ずっと怒鳴ってる人でもなかったです」
マレナは顔を上げ、リシェを見た。
「優しい日もありました」
その言葉だけは、他より少しゆっくりだった。
「風邪をひいたら薬を買ってきてくれたし、私が好きだった焼き菓子を仕事帰りに買ってくることもありました。朝になると謝る日もありました。もうしないって言われたこともあります」
窓から差し込んだ昼の光が、杯の水面で小さく揺れた。
「そういう日の方が、困るんですよね」
マレナは水を一口飲んだ。
「ずっと酷ければ、たぶんもっと早く逃げられた。優しい日があると、昨日が悪かっただけかもしれないって思うんです。私も言い返したから、とか。ちゃんと帰る時間を守ってれば、とか」
「あなたが悪かったからではありません」
リシェは言った。
マレナは一瞬だけ目を伏せたが、否定もしなかった。
「一度、逃げたことがあります」
しばらくして、そう続ける。
「事故より前です。遠くまで行けたわけじゃありません。知り合いのところに少し置いてもらって、これで終わりにするって決めたんですけど」
指先が杯の縁をなぞる。
「ラスが来ました」
それだけで、その先の空気が変わった。
「私が混乱して家を飛び出したって。夫婦で少し揉めただけなのに、大げさにしてるって。私を心配して探してたって」
マレナはそこで口を閉じ、何かを確かめるように一度息を吸った。
「周りも、そういう顔をしました」
「相談はしたんですね」
「しました。何人かには」
マレナの視線が、棚のパンへ移る。
「でも、『夫婦のことだから』って」
短い言葉だった。
それでも、リシェにはその一言の向こうに、帰るしかなかった道の長さが見える気がした。
「若い夫婦なら喧嘩もするって。ラスも心配してるんだから、ちゃんと話せって。家のことは二人で解決した方がいいって」
マレナは自分の手を見下ろした。
「それで、帰りました」
アスターが少しだけ顔を背けた。
マレナは彼の存在を知らない。その沈黙が自分のためのものだとも分からないまま、話を続ける。
「それからは、前より逃げにくくなりました。一度逃げたことをラスも覚えてるから、前より気にするようになったし。私も、次に逃げてもまた連れ戻されるんじゃないかって思うようになって」
「それでも、七年前にもう一度出た」
「はい」
マレナは頷いた。
「今度は、誰にも言いませんでした。手伝ってもらおうとも思わなかった。少しずつ用意して、持てるものだけ持って出ました」
その先で水が来た。
逃亡のために身につけていた外套を、寒さに震える見知らぬ女性へ渡し、事故に巻き込まれた。そして、生き残った自分とは別の場所で、その女性はマレナ=フォルクとして死者になった。
偶然が、彼女の逃亡を完成させた。
リシェはしばらくマレナを見てから、静かに尋ねた。
「今も、ラス=フォルクさんが怖いですか」
「はい」
間はなかった。これまでのどの問いよりも早く、マレナ自身もその即答に気づいたらしい。少しだけ困ったように唇を曲げ、杯を両手で包み直した。
「七年も経ってるのに。今どこにいるのかも、私のことをまだ探してるのかも分からないのに。もう何もされないかもしれない。それでも、名前を見られたら、とか、店を知られたら、とか考えると……」
そこで初めて、言葉の端に弱さが出た。
「情けないですけど」
「情けなくありません」
リシェは考えるより先に答えていた。
マレナが顔を上げる。
「怖いものを怖いと言うことは、情けないことではありません」
長い説明はしなかった。
リシェには、彼女が七年間何を恐れてきたのか、その全部を分かったふりはできない。ただ、目の前で生きている人間が、自分の恐怖まで恥じる必要はないと思った。
マレナはしばらくリシェを見ていた。それから、ほんの少しだけ目尻を下げた。
「記録官さんって、もっと堅い人だと思ってました」
「よく言われます」
「そこは否定しないんですね」
「事実なので」
小さく息が漏れた。笑いと呼ぶには弱かったが、店の中の張りつめた空気がほんの少しだけ緩んだ。
そのあとで、マレナはまた黙った。
今度の沈黙には、先ほどまでとは違う迷いがあった。事故のことや夫のことよりも、口にする相手を選ばなければならない何かを抱えているように見える。
やがて、彼女はリシェの胸元の記録官章へ目を落とした。
「もう一つ、言わないといけないことがあります」
「聞きます」
「たぶん、そっちの方が怒られるかもしれません」
「聞いてから決めます」
「怒るんだ」
「可能性の話です」
「正直ですね」
マレナはかすかに笑ってから、また真顔に戻った。
「事故のあと、助けてくれた人たちがいました」
リシェは急かさず続きを待つ。
「私は自分が死んだことになってるって知って、それでも戻りたくなくて。でも、お金もほとんどなかったし、着替えもない。怪我もしてたし、仕事なんてできる状態じゃなかった」
杯を置き、両手を膝の上で組む。
「その人たちが、寝るところを用意してくれました。何日か食べるものもくれて、古着も探してくれた。動けるようになったら、名前を出さなくていい仕事を紹介してくれて、別の街区へ移るのも手伝ってくれました」
リシェの中で、ある組織の名が浮かんだ。
エナの葬送名をめぐる調査で会った、疲れた遺族へ食事や葬送費を回し、身寄りのない死者の遺品を片づけていた人々。死者の名を白紙へ還そうとする者たちの中にも、そういう仕事をしている者がいた。
「空名会ですか」
マレナは頷いた。
「はい」
アスターの表情がわずかに変わった。
リシェも、すぐには言葉を返さなかった。
空名会。
墓碑から名を削り、死者本人へ問わないまま、苦しみごと名前を消そうとした者たち。けれど、それだけではないことを、リシェはもう知っている。
「最初に助けてくれた人たちは、難しいことは何も言いませんでした」
マレナは続けた。
「名は鎖だとか、白紙がどうとか。そういう話は、少なくとも私にはしなかった。ただ、ご飯食べなさいって。今日はここで寝ていいって。動けるようになったら仕事を探そうって」
その言い方から、その時の声まで覚えているのだと分かった。
「しばらくは別の名前を使ってました。そうしないと働けなかったから。でも、ネム=レクスで暮らせるようになって、この店を持つ少し前に、また自分の名前を使いたいって言ったんです」
「マレナ=フォルクを」
「はい」
彼女は頷く。
「死んだことにしたくせに、変ですよね」
リシェは何も言わなかった。
「でも、ラスの妻だった名前だけじゃないから。私が生まれてからずっと使ってた名前でもあるし。それを一生捨てて暮らすのも……なんか違うなって」
それは、逃げるために名前を失いたかった人間の言葉ではなかった。見つからないために一時的に伏せることと、自分が誰であったかまで捨てることは同じではない。
マレナは七年前、自分の死を訂正しなかった。それでも今、この街で再び自分の名前を使い、パンを焼き、税を払い、店を持っている。
そこで、リシェは昼の店内を思い出した。鐘が鳴るたび眠気が強くなったという話と、鏡の中で薄くなっていたマレナの輪郭。最近になって始まったと、彼女自身が言っていた。
「マレナさん」
「はい」
「《マレナ=フォルク》の名前で、この店を正式に持ったのはいつ頃ですか」
マレナは少し考え、天井へ視線を向けた。
「今の名義に全部揃えたのは、そんなに前じゃないです。この店を譲ってもらうときに、きちんとしようと思って。税金も、住居も、営業の登録も、できるところから自分の名前に戻しました」
「それより前は?」
「別の名前だったり、簡単な登録だけだったり。ちゃんと《マレナ=フォルク》として暮らし始めたのは、店を持つ少し前からです」
リシェは一度頷き、さらに尋ねた。
「眠りの鐘で強く眠くなるようになったのは、その前ですか。後ですか」
マレナの眉がわずかに寄った。
「……後、だと思います」
「鏡の像が薄くなったのに気づいたのも?」
「それも最近です。最初は鏡が曇ってるだけだと思ってました」
「時期は近いですか」
「たぶん。店をちゃんと私の名前で持つようになって、しばらくしてからです」
リシェはそこで調査帳を開いた。
原因を書くことはできない。まだ分からない。
ただ、日付と時期だけは残せる。
《マレナ=フォルク》名義による住居・納税・営業登録の整備。《朝鐘亭》名義取得。その後、眠りの鐘への異常反応と鏡像の希薄化を自覚。
そこまで記し、筆を止めた。
「何か分かったんですか」
マレナが訊く。
「まだ、時期が近いというだけです」
「そうですか」
リシェは帳面を閉じた。
今ここで答えを決める必要はない。七年間残り続けた死亡記録と、近頃になって積み上がった生者側の記録。その二つがどう関係しているのかは、記録庁へ戻ってから照合すればいい。
「登録も、空名会の人が?」
「手伝ってもらいました」
「分かりました」
マレナが不思議そうに見る。
「怒らないんですか」
「空名会が関わっていることと、あなたが助けられたことは別です」
「でも、記録官からしたら――」
「彼らが違法な記録操作をすることはあります」
リシェは静かに言った。
「だから調べます。ただ、あなたに寝床を用意したことまで、間違いだったことにはしません」
マレナの目が少し見開かれた。
アスターが隣でリシェを見たが、何も言わなかった。
「空名会が悪い人たちだって言われてるのは知っています」
マレナは言った。
「墓の名前を消したり、死者の記録を触ったりするって。私も全部が正しいなんて思ってません。あの人たちの中に、どんな人がいるのかも全部は知りません」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、私はあの人たちがいなかったら、戻ってました」
リシェは黙って聞いた。
「行く場所がなかったから。お金もなかった。怪我もしてた。誰かに助けてって言っても、また夫のところへ戻される気がしてた」
マレナは膝の上で組んだ手を見た。
「だから、あの人たちが正しいかどうかを訊かれると、私は困るんです」
答えを求めるような声ではなかった。
「助けてもらったから」
リシェは、それを否定しなかった。
死者の名を勝手に消すことが正しくなるわけではない。けれど、間違ったことをした者が、誰かを本当に助けた事実まで消えるわけでもない。
そのどちらか一方へ、目の前の女性を押し込む必要はなかった。
マレナはしばらく俯いていたが、やがてゆっくり顔を上げた。
「私、何かを変えたかったわけじゃないんです」
その声は、夫のことを話したときよりも穏やかだった。
「制度がおかしいとか、結婚なんてなくなればいいとか、空名会の考えが正しいとか。そういうことを考えてたわけじゃない」
店の奥から、発酵を知らせる時計がもう一度鳴った。
マレナはそちらを見た。長年の習慣なのか、閉店札を掛けていても、生地の状態が気になるらしい。
その横顔は、朝からリシェが見ていた《朝鐘亭》の店主そのものだった。
「大義なんてありません」
マレナは言った。
飾らない声だった。
「ただ、生きたかっただけです」
リシェは返事を急がなかった。
七年前、死亡者一覧に自分の名前を見つけた女性は、その間違いを利用した。知らない誰かが自分の名で葬られていると知りながら、訂正しなかった。空名会の助けを借り、別の場所で暮らし始め、やがて自分の名前を取り戻して店まで持った。
正しかったかどうかだけなら、帳面へ書ける項目はいくつもある。
けれど、目の前にいるのは、その結果として七年間を生きてきた一人の人間だった。
リシェは調査帳を開き直した。
事故の経緯と空名会による支援を必要な範囲だけ追記し、さきほど記した登録時期との間に細い線を引く。マレナの最後の言葉だけは、そのまま写さなかった。
少し離れた場所で、アスターが閉ざされた店の扉を見ている。
誰も何も言わない間に、焼き台から新しいパンの匂いが漂い始めた。




