第四節 ― 死んだことにした
マレナが話すと言ったあとも、すぐに七年前のことを語り始めたわけではなかった。
リシェは床に散った包み紙とパンを端へ寄せ、倒れていた椅子を起こした。マレナをそこへ座らせると、焼き台のそばに置かれていた水差しから杯へ水を注ぐ。先ほどまで白かった頬にはいくらか血の色が戻っていたものの、指先にはまだ冷たさが残っているらしく、マレナは杯を両手で包んだまま、しばらく口をつけなかった。
店の扉には内側から札が掛けられていた。昼の営業中に閉めることなど滅多にないのだろう。何人かの客が硝子越しに中を覗き込んだが、倒れた籠や床のパンを見て事情を察したらしく、そのまま離れていった。
アスターは鏡の前から動いていた。いつものようにカウンターへ腰を掛けることも、棚のパンを勝手に品評することもせず、少し離れた壁際に立っている。さっき見た、鏡の中で自分より薄かった生者の姿が、まだ頭から離れないのだろう。
リシェは調査帳を取り出したが、開かなかった。
「無理に今すぐ話さなくても構いません。体調が落ち着いてからでも――」
「今じゃないと、また誤魔化しますよ、たぶん」
マレナは杯を見たまま言った。声は弱っているというより、妙に静かだった。
「私、けっこう嘘が上手なんです。さっきも、住所まで同じって言われるまでは、案外いけるかなって思ってました」
「いけていませんでした」
「厳しいなあ」
「生年月日の時点でかなり難しかったです」
「そこは少しくらい泳がせてくださいよ」
口元にだけ、小さな笑みが戻る。その笑みが消えるまで、リシェは待った。
やがてマレナは水を一口飲み、杯を膝の上へ置いた。
「七年前の水難事故、記録にありましたよね」
「はい」
「大きかったでしょう」
「死者と行方不明者が複数出ています」
「そうでした」
まるで自分とは関係のない事故を思い出すような言い方だった。
マレナは杯の縁を親指でなぞった。何度か同じ場所を擦ってから、視線を落としたまま話を続ける。
「あの日、私は港の外れにいたんです。雨が続いたあとで、水はずっと高かった。でも、まさかあんなことになるとは誰も思ってなくて。道もまだ閉じられてなかったし、荷車も普通に通ってました」
遠くを見るように目を細める。
「急に、上の方から叫び声が聞こえたんです。何を言ってるかまでは分からなかった。そのあと、水が来ました」
マレナの声は平坦だった。水音を真似ることも、大げさな身振りをすることもない。ただ、七年前に起きたことを順番に机の上へ並べるように語っていく。
「逃げた人もいました。間に合わなかった人もいました。私も流されました。どこをどう流されたのかは、ほとんど覚えてません。ぶつかったことと、寒かったことくらいです」
リシェは黙って聞く。
事故記録には、急激な増水によって港外れの歩道と荷置き場が水没したと残っていた。複数の遺体はかなり下流で見つかり、中には顔貌による確認が困難なものもあった。
「その少し前に、女の人がいたんです」
マレナの親指が止まった。
「知らない人です。名前も知りません。たぶん私と同じくらいか、少し若かったかもしれない。ずぶ濡れで、震えてて」
そこで初めて、言葉を選ぶような間が入った。
「私、外套を貸したんです」
「あなたの外套を」
「はい。大したことじゃありません。私も下にもう一枚着てたし、その人の方が寒そうだったから」
マレナは自分の肩へ触れた。今着ている仕事着の布をつまんでから、すぐに手を下ろす。
「あの頃使っていた外套には、内側に名前を縫いつけてありました。マレナ=フォルクって。財布も、小さな袋も……水に流されたみたいです。いくつかは、その人の近くで見つかったそうです」
リシェの中で、死者名簿にあった記載が一つずつ形を持ち始めた。
水難事故。所持品照合。遺族確認。
書面の上では一行ずつに収まっていた言葉の向こうに、ようやく人の動きが見える。
「その女性は」
リシェが訊くと、マレナは一度だけ目を閉じた。
「亡くなりました」
それだけだった。
名前も知らない女性。借りた外套を着たまま水に流され、マレナの所持品とともに発見された死者。
アスターが壁際でわずかに視線を落とした。
「私はもっと下流へ流されて、別の場所で助けられました。意識が戻ったのは、だいぶあとです。そこが事故の中心から離れていたせいで、最初は私が誰なのかも分からなかったみたいで」
「名前は伝えなかったんですか」
その問いに、マレナの目がほんの少しだけ揺れた。
「すぐには」
それ以上は言わない。
リシェも、理由までは訊かなかった。
そこへ踏み込むのは、事故そのものとは別の話だと分かったからだ。
「身体が動くようになってから、事故のことを聞きました。死んだ人の名前も、行方不明の人の名前も掲示されていて。私は、自分のことも探されてると思ってました」
マレナの声が少し低くなる。
「でも、違ったんです」
そのときのことだけは、七年経っても細部まで覚えているのだろう。視線が膝の上ではなく、どこにもない一点へ留まった。
「死亡者のところに、私の名前がありました」
店の奥で、生地の発酵を待つ時計が小さく鳴った。
誰も動かなかった。
「マレナ=フォルク。水難事故により死亡。身元確認済み」
マレナは、自分の死亡記録を読むように淡々と言った。
「最初は、間違いだと思いました。当たり前ですよね。私はそこに立ってるんだから。誰かが訂正してくれるものだと思ったし、私が行けばすぐ直ると思った」
「遺体確認をしたのは、ラス=フォルクさんですね」
「はい」
夫の名前が出ても、マレナの声音は変わらなかった。
「遺体はかなり傷んでいたそうです。顔で分かる状態じゃなかった。外套が私のもので、近くに流れ着いた荷物も私のものだった。それで、夫が確認したんです」
彼女は少しだけ息を吸った。
「妻です、って」
リシェの指が、閉じた調査帳の上で止まる。
ラスが意図的に嘘をついたのか、間違えたのか。この時点では分からない。事故の混乱の中で、衣服と持ち物を前にし、損傷した遺体を妻だと信じたとしても不自然ではない。
だから、リシェはそこへ推測を差し込まなかった。
「その後、葬送まで行われたことは?」
「少しあとで知りました」
「墓にも」
「はい。ありますよね。朝、見られましたから」
自分の墓について話す声に、皮肉はなかった。
「最初に見に行ったのは、だいぶ経ってからです。その時にはもう、ちゃんと私の名前が刻まれてました。生年月日も間違ってなかった。すごいですよね。本人が立って見てるのに、石の方がずっと自信ありそうで」
アスターが何か言いかけたように口を開いたが、そのまま閉じた。
マレナは笑わなかった。
リシェは膝の上の手を組み直した。ここまで聞けば、事故の仕組みは分かる。少なくとも、なぜマレナの墓が存在するのかについては。
けれど、最も大きな一点だけが残っていた。
「マレナさん」
「はい」
「事故の翌日には、自分が死亡者として扱われていることを知ったんですね」
「はい」
「訂正できる状態でもあった」
返事が少し遅れた。
「……そうですね」
「では」
リシェは一度言葉を止めた。
責める問いにしたくはなかった。しかし、聞かないわけにもいかない。見知らぬ女性が七年間、マレナ=フォルクとして葬られている。そして目の前のマレナ自身も、その死者記録に引かれるように倒れ始めている。
「なぜ、訂正しなかったんですか」
マレナは答えなかった。
焼き台の火が小さく鳴っている。閉めた扉の向こうでは、営業を再開した周囲の店から人の声が聞こえ、誰かが笑いながら通り過ぎていった。昼の眠りの鐘はとうに終わっていて、街はいつもの時間へ戻っている。
マレナは杯を持ち上げたが、水は飲まなかった。
唇へ近づけて、また膝へ戻す。
その動作を一度だけ繰り返してから、彼女は小さく息を吐いた。
「訂正しようとは、思ったんです」
リシェは何も挟まなかった。
「間違ってるんだから。私、生きてるし。知らない人が私の名前で葬られてるなんて、おかしいでしょう」
「はい」
「だから、行かなきゃって思いました。私はマレナ=フォルクです、生きてます、って言えばいい。それだけだったんです」
マレナの指が、杯の側面を強く押さえる。
「でも」
そこで初めて、声が詰まった。
泣きそうになったのではない。言ってしまえば、自分自身がずっと目を逸らしてきたものへ形を与えてしまう。そのことを嫌がっているように見えた。
長い沈黙のあと、マレナは顔を上げた。
「嬉しかったんです」
リシェは動かなかった。
アスターも、もう壁にもたれてはいなかった。ただ立ったまま、彼女を見ている。
「変ですよね」
マレナは笑おうとしたが、今度は形にもならなかった。
「知らない人が死んでるのに。その人が私だって間違われてるのに。自分は死んだことにされてるのに」
ひとつずつ確かめるように言う。
涙はなかった。
「名前の載った紙を見て、私が最初に思ったこと」
マレナは杯へ目を落とした。
「怖いでも、悲しいでもなかったんです」
指の力が抜ける。
「ああ、って」
ほんの少しだけ肩が下がった。
「もう探されないんだ、って」
店の中は暖かかった。
焼き台には次のパンが待っていて、棚には朝から売れ残った小さな丸パンが並んでいる。いつもと変わらない《朝鐘亭》の昼だった。
けれど、その言葉のあとでは、誰もすぐに口を開かなかった。
リシェは調査帳へ手を伸ばさなかった。
アスターも、何も言わなかった。




