第三節 ― 眠りの鐘
《朝鐘亭》の扉が閉じると、焼いた小麦の匂いが一枚の板越しに遠ざかった。
石畳には昼の光が落ちている。朝霧はほとんど消え、墓域に並ぶ白い石だけが、まだ薄く湿った光を残していた。店の前を花籠を抱えた女が通り過ぎ、その向こうでは荷車が止まり、葬送用の白布を積んだ男たちが通行人へ道を譲っている。死者の街らしい光景のすぐ脇を、昼食を買いに出たらしい職人たちが笑いながら歩いていた。
リシェは数歩進んだところで調査帳を抱え直した。
「……何も話すことはありません、か」
「見事に閉店されたね。会話だけ」
アスターが隣を歩きながら、肩越しに《朝鐘亭》を振り返る。
「営業はしています」
「そういう意味じゃないよ」
「分かっています」
マレナが何かを隠していることは、もう疑いようがなかった。死亡記録に関わる話を出した途端、笑顔は保っていても指先は包み紙を折り続け、最後には紙を破った。あれ以上問いを重ねれば、何かを言わせることはできたかもしれない。
けれど、無理に押せば口を閉ざすだけだろう。
先に七年前の死亡記録を洗い直すべきだった。遺体照合がどのように行われたのか。ラス=フォルクの証言以外に、身元を確定した根拠は何が残っているのか。墓碑へ名が刻まれるまで、誰がどの記録を確認したのか。
頭の中で調査の順番を組み直していたとき、遠くで鐘が鳴った。
低く深い音が、ネム=レクスの中央からゆっくり広がってくる。黒い屋根を越え、石造りの通りを渡り、白い墓碑の列を撫でるように届いた。最初の一音が消えきる前に、少し間を置いて次の鐘が重なる。
リシェは足を止めなかった。
昼の葬送だ。
どこかで一人の死者が閉帳を終え、墓碑と記録の両方で眠りへ送られている。ネム=レクスに暮らしていれば、眠りの鐘を聞かない日は珍しい。商人も職人も、音が届けば一瞬だけ声を落とし、それが過ぎればまた仕事へ戻る。
三度目の鐘が鳴った瞬間だった。
背後で、激しい音がした。
木箱を床へ落としたような硬い音のあと、棚か籠がまとめて崩れる。石畳まで響いたその音に、リシェは反射的に振り返った。
「マレナさん」
呼びながら、もう走っていた。
《朝鐘亭》の扉を押し開ける。吊り鐘が乱暴に鳴り、店内へ飛び込んだ途端、足元へ丸パンが一つ転がってきた。カウンター脇の籠が倒れ、包み紙が床一面へ散っている。
その奥に、マレナが倒れていた。
「マレナさん!」
リシェはカウンターを回り込み、床へ膝をついた。
呼びかけても返事はない。
先ほどまで血色のよかった顔から色が抜け落ち、唇まで白くなっている。首筋へ指を当てると、脈はある。だが細く、ひどく弱い。一定の間隔で打ってはいるものの、指先を離せば見失ってしまいそうだった。
「リシェ」
「静かに」
返した声に、いつもの刺はなかった。
鼻先へ手を寄せて呼吸を確かめる。胸はかすかに上下しているが、それも浅い。眠っている人間の呼吸とは違う。力を抜いて休んでいるというより、身体そのものが音の届かない場所へ沈んでいくようだった。
四度目の鐘が鳴った。
低い音が店内の硝子や棚へ染み込む。その瞬間、マレナの指先がわずかに動いた。
「……マレナさん。聞こえますか」
返事はない。
リシェは肩と頭を支え、身体をそっと横向きに寝かせた。倒れた拍子に棚へ触れたらしく、近くには小さな木皿が割れている。額や後頭部に目立った傷はなく、少なくとも転倒そのものが意識を失わせたわけではなさそうだった。
また鐘が響く。
それに合わせるように、マレナの呼吸がさらに薄くなる。
リシェの指先に触れている脈も、先ほどより遠い。
思わず顔を上げた。
鐘だ。
そう考えた瞬間、身体の奥が冷えた。
眠りの鐘は、葬送を終えた死者をネム=レクスの眠りへ送るためのものだ。墓碑へ名が刻まれ、死者名簿が閉じられた者に終わりを告げる音であって、生きている人間の呼吸を弱めるものではない。
「……これ」
アスターの声が低くなる。
店の入口近くに立ったまま、彼も外から響く鐘へ耳を傾けていた。いつもの軽い調子は消え、視線は床のマレナと扉の向こうを行き来している。
最後の鐘が鳴った。
長い余韻が店の梁や硝子へ残り、やがて街の石壁へ吸い込まれていく。
音が薄くなるにつれて、店内へ静けさが戻った。
その直後だった。
「……っ」
マレナが浅く息を吸った。
それまで消えかけていた胸の動きが、少しずつ大きくなる。頬へわずかに色が戻り、閉じていた瞼が震えた。
「マレナさん」
「……ああ」
掠れた声が出た。
まだ力はないが、意識は戻っている。
リシェが身体を支えて起こそうとすると、マレナは自分で片肘をつき、ゆっくり上体を起こした。床へ散らばったパンを見回し、状況を確かめるように何度か瞬きをする。
「ごめんなさい。ちょっと……寝ました?」
「寝た、では済みません」
「ですよねえ」
妙に慣れた返答だった。
リシェの手が止まる。
「今のが、初めてではないんですか」
マレナは床に座ったまま、乱れた髪を耳へ掛けた。
「最近、ときどきあるんです」
「ときどき」
「鐘が鳴ると、すごく眠くなって。今日はちょっと派手でしたけど」
「派手という範囲ではありません。脈も呼吸も弱くなっていました」
「そうなんですね」
「知らなかったんですか」
「倒れてる最中のことは、さすがに」
笑おうとした。
けれど、口元はうまく上がらなかった。
リシェはそのままマレナの手を取る。指先は冷たい。焼き台の火が残り、店内は外より明らかに暖かいのに、その手だけが墓域の白石へ長く触れていたように冷えていた。
「医師には」
「行ってません」
「なぜです」
「忙しくて」
「倒れるほど忙しい店なら休んでください」
「記録官さん、そういうところ真面目ですね」
「今は褒められても流しません」
マレナが小さく息を吐いた。
床に散ったパンへ目をやり、身体を起こそうとする。
リシェは肩へ手を置いて止めた。
「動かないでください」
「売り物が」
「床へ落ちました」
「三秒くらいですよ」
「駄目です」
「厳しい」
「衛生の話ではありません」
「そっちも大事ですけどね」
まだ軽口を返せる。
それに少しだけ安心しかけたとき、アスターが動いた。
店の壁際にある細長い鏡の前へ歩いていく。
パン屋には不釣り合いなほど古い鏡だった。客が外套や帽子を整えるためのものらしく、縁には細かな傷があるものの、磨き込まれた面は十分に明るい。そこにはカウンターも焼き台も、床へ散った包み紙も、マレナのそばへ膝をついているリシェも、きちんと映っていた。
アスターだけが、鏡の中をじっと見ている。
「リシェ」
声が違った。
リシェはマレナの肩を支えたまま、鏡へ顔を向けた。
最初は何がおかしいのか分からなかった。
自分が映っている。
店内もある。
棚も、吊り下げられた籠も、窓から差し込む昼の光も、そのままだ。
マレナも映っている。
ただ、その輪郭だけが周囲と噛み合っていなかった。
「……薄い」
思わず言葉が漏れた。
鏡の中にいるマレナの姿だけが、白く透けている。
肩越しに向こう側の棚がかすかに見え、髪の端は光へ溶けるように曖昧だった。鏡面の一部だけへ薄い霧を掛けたように、身体の境界が頼りない。
リシェは実際のマレナを見る。
そこには生身の女性がいる。
冷えた指も、荒い呼吸も、肩を支えたときの重みも確かにある。
もう一度、鏡を見る。
薄いままだ。
「そんな」
マレナも視線を上げ、鏡を見た。
今度こそ、顔から笑みが完全に消えた。
アスターが自分の映る位置を確かめるように、一歩横へずれる。
鏡の中の彼は、もともと淡い。
死者であり、正式な記録へ載ることすらできない存在だ。反射面では輪郭が揺らぎ、角度によっては向こう側が透けることもある。
その隣に、マレナがいる。
生きているはずの女性の輪郭が、彼より薄い。
「僕より――」
アスターが口を開いた。
いつもなら、そのまま何か言っただろう。
先輩だ、とか。
幽霊向きだ、とか。
生者なのに負けてる、とか。
けれど、言葉は続かなかった。
口元に浮かびかけた笑みが消え、アスターは鏡から視線を外した。
リシェはその横顔を一瞬だけ見てから、マレナへ向き直る。
「いつからですか」
マレナは答えない。
「鐘で眠くなるようになったのは」
床に落ちていた包み紙へ、彼女の指が伸びる。
意味もなく端を掴み、そのまま握った。
「鏡のことも、知っていたんですね」
返事はなかった。
外ではもう、眠りの鐘の余韻さえ消えている。
代わりに、昼の街の声が少しずつ戻り始めていた。誰かが笑い、荷車の車輪が石畳を鳴らす。すぐ近くでは花売りが墓参り帰りの客と値段を交渉し、通りの向こうから昼食の呼び込みまで聞こえてくる。
街は何も変わっていない。
葬送を終えた死者が一人、いつものように眠りへ送られ、ネム=レクスの日常はそのまま続いている。
ただ、その鐘に合わせて、生きているはずの女性だけが死者側へ引かれた。
リシェは調査帳へ手を伸ばさなかった。
今は書くより先に、聞くべきだった。
マレナは鏡を見たまま、長く息を吐いた。倒れた直後より呼吸は戻っている。それでも肩から力が抜け、手の中の包み紙はゆっくり皺になっていった。
「……ずるいなあ」
小さな声だった。
誰に向けた言葉なのか、リシェには分からない。
鏡なのか。
鐘なのか。
記録官なのか。
それとも、七年間知らないふりをしてきた自分自身なのか。
「黙ってれば、もう少しくらい普通にいられると思ったのに」
リシェは急かさなかった。
何を隠しているのかと問い詰めることも、墓碑の話をもう一度持ち出すこともしない。
隣のアスターも黙っていた。
さきほどまで床へ散らばっていたパンの一つが、傾いた籠へぶつかって止まっている。奥では焼き台の火が静かに鳴り、発酵中の生地は何事もなかったように膨らみ続けていた。
マレナはしばらく俯いていた。
握っていた包み紙を一度開こうとして、皺だらけになった紙を見つめる。それから諦めたように膝の上へ置き、両手を離した。
リシェは待った。
答えを決めずに。
彼女自身が言葉を選ぶまで。
やがてマレナが顔を上げた。
目元には疲れが残り、頬の色もまだ戻りきっていない。それでも、朝から客へ向けていた店主の笑顔を作り直そうとはしなかった。
鏡の中では、輪郭の薄い彼女が同じようにこちらを見ている。
マレナはその像から目を逸らし、今度はまっすぐリシェを見た。
「……話します」
声はかすれていたが、さっきまでの拒絶よりずっとはっきりしていた。
リシェはすぐには帳面を開かなかった。
「はい」
それだけ答えた。
昼の光が窓から差し込み、床へ散った包み紙と、倒れた籠と、まだ白いマレナの指先を静かに照らしていた。




