第二節 ― 同姓同名です
昼前の《朝鐘亭》は、朝より少しだけ静かだった。
焼き上がりの山はすでに半分ほど減り、空いた籠が壁際へ重ねられている。それでも店内にはまだ小麦と蜂蜜の甘い匂いが残り、奥の焼き台では次の生地が膨らむのを待っていた。窓の外を行き交う人影も、墓域のすぐ近くとは思えないほど日常的で、花籠を抱えた女のあとを、紙袋を提げた子どもが小走りで追っている。
リシェが扉を開けると、頭上の吊り鐘が軽く鳴った。
「いらっしゃ――あら」
包み紙を畳んでいたマレナの手が、一瞬だけ止まる。
その間は短かった。朝、墓碑の前でこちらに気づいたときよりも、ずっと短い。次にはもう、いつもの店主の笑顔へ戻っていた。
「今日は二回目ですか。朝のパン、もう食べちゃいました?」
「いえ。仕事で伺いました」
「ああ」
マレナの視線が、リシェの胸元にある記録官章へ落ちる。ほんのわずかに細められた目が、今度の訪問の意味を先に理解した。
「……そういう二回目ですね」
「すみません」
「謝られると余計に怖いですよ」
冗談めかして言いながら、マレナはカウンターの上に出ていた焼き菓子の籠を奥へ寄せた。客はちょうど切れている。店の前を通る人影はあるが、すぐに誰かが入ってくる気配もなかった。
リシェは店内を一度見回し、それから尋ねる。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「断ったら?」
「また伺います」
「真面目ですねえ」
「仕事ですから」
「知ってます」
マレナは小さく笑い、カウンターの端へ腰を預けた。
アスターは当然のようにその横まで来て、棚に並ぶパンを覗き込んでいる。
「朝より減ってる」
「売れたんです」
「聞こえてた?」
「あなたに答えました」
「店主さんがちょっとこっち見たよ」
「静かにしてください」
声を落としたつもりだったが、マレナが眉を上げた。
「また何か言いました?」
「いえ」
「朝からそれ、二回目ですよ」
「すみません」
「だから謝られると怖いんですって」
今度は、ほんの少しだけ本当に笑った。
リシェもつられて表情を緩めたが、調査帳を開くと空気はすぐに変わった。紙をめくる音は小さい。それでも、さっきまで焼き台の熱に満ちていたカウンターの上へ、別の種類の冷たさが置かれたように感じられる。
「マレナ=フォルクさん」
「はい」
「今朝、墓域でお見かけしました」
マレナは笑ったままだった。
「見つかっちゃいましたね」
「墓参りをしていたこと自体を問題にはしていません」
「でしょうね。ここ、そういう街ですし」
その通りだった。
ネム=レクスで墓へ花を持っていくこと自体は、パンを買うのと同じくらい珍しくない。問題は、花を置いた先に刻まれていた名前だった。
リシェは一枚、調査票をめくる。
「墓碑には、あなたと同じ名前が刻まれていました」
「同姓同名ですよ」
返答は早かった。
用意していたようにも聞こえるし、この程度なら誰でもそう答えるとも思える。リシェは顔色を探るような真似はせず、そのまま次の項目へ進んだ。
「生年月日も同じです」
「……よくありますよ」
ほんのわずかに間が入った。
アスターが横からリシェを見る。リシェは何も返さず、調査票の次の欄へ指を移した。
「死亡記録上の配偶者は、ラス=フォルクさん」
「それは」
マレナは少し考えるように首を傾けた。
「ちょっと珍しいですね」
「そうですね」
「でも、世の中広いですから」
「ネム=レクス市内の一件です」
「街だって広いですよ」
「死亡時の住所も一致しています」
そこで、会話が途切れた。
奥の焼き台で小さく木が爆ぜる。店の外では誰かが荷車を押して通り過ぎ、車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、かたん、かたんと規則正しい音を立てていた。
マレナはまだ笑っていた。
ただ、いつから手に取っていたのか、薄い包み紙を一枚、指先で折っている。同じ場所を何度も押さえているせいで、紙には白い折り目が浮かび始めていた。
「同姓同名で、生年月日が同じで、夫の名前が同じで、住所まで同じ人」
アスターが腕を組む。
「もう無理じゃない?」
「静かに」
リシェが低く言うと、マレナが顔を上げた。
「やっぱり誰かいるんですか?」
「いません」
「いる人の答え方ですよ、それ」
「今は、その話ではありません」
「今じゃなければするんです?」
「しません」
横でアスターが不満そうに口を尖らせる。
「僕の扱いだけ雑じゃない?」
リシェは無視した。
その間にも、マレナの手は包み紙を折り続けている。細い指が同じ箇所を何度も押さえたせいで、紙の角はわずかに歪み始めていた。
「マレナさん」
「はい」
「墓碑にある死亡日は、七年前です」
「そうみたいですね」
「死者記録には、遺体照合済みとあります。墓碑記入、閉帳、眠りの鐘まで確認されています」
「ずいぶんきっちり死んでますね、その人」
笑いながら言った。
朝、アスターが似たようなことを口にしたときより、ずっと笑えなかった。
リシェは調査帳へ一度視線を落とした。ここから質問を重ねれば、マレナが何かを隠していることくらいは確認できるかもしれない。言葉尻を追い、矛盾を並べ、逃げ道を一つずつ塞いでいけば、本人が望まなくても何かは出てくるだろう。
けれど、目的は口を割らせることではない。
記録と目の前の人間が、なぜ食い違っているのか。それを調べるために来ている。
「一つ、確認させてください」
「まだあるんですか」
「あなたは、マレナ=フォルクさん本人ですか」
マレナの指が止まった。
笑顔は残っている。
否定も肯定も、すぐには出なかった。
数秒後、彼女は手元の紙へ視線を落とす。
「変な質問ですね」
「そうですね」
「本人ですって言ったら、死者になるんです?」
「なりません」
「じゃあ、違うって言ったら?」
「それだけで記録が変わることもありません」
「記録官って、もっと便利だと思ってました」
「残念ながら」
「名前を書いたら全部決まる、とか」
リシェは返事をしなかった。
その程度で人が決まるなら、調査など必要ない。
アスターも今度は口を挟まなかった。彼は棚から目を離し、マレナの指先を見ている。
マレナは包み紙をもう一度折ろうとした。
乾いた音がして、折り目から紙が少し裂けた。
「あ」
ほんの指一本分だった。
マレナは破れたところをしばらく見つめ、それから何でもないように丸めて脇の籠へ入れた。
「失敗です」
「新しい紙を使えばいいですよ」
「そうします」
次の一枚を取り出す手は、先ほどよりゆっくりしていた。
リシェはその動きを見てから、調査帳を閉じた。
「今日は、これ以上お聞きしません」
マレナが顔を上げる。
「いいんですか?」
「よくはありません」
「ですよね」
「記録の不整合は正式な調査対象です。ただ、今日ここで答えを決めるつもりはありません」
閉じた帳面へ手を置きながら、リシェは言葉を選ぶ。
「それに、今すぐあなたをどこかへ連れていくつもりもありません」
マレナが瞬きをした。
「記録官って連行もするんですか」
「しません」
答えてから、リシェ自身も言葉がおかしかったことに気づいた。
横でアスターが吹き出す。
「今の何?」
「言葉の選択を間違えました」
「かなり大きめに?」
「黙っていてください」
マレナの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「じゃあ、何をするんです?」
「話を聞きます。記録を調べます。必要なら、ほかの部署とも照合します」
「逃げたら?」
「困ります」
「追いかけます?」
「仕事なので」
「やっぱり真面目ですねえ」
数息だけ、朝の店にあった空気が戻った。
マレナは新しい包み紙を広げ、そこへ焼き上がった丸パンを載せる。端を折り、今度は破らないよう慎重に指を沿わせた。紙を押さえる力は、さきほどより明らかに弱い。
リシェはその手元を見ながら、次の質問を飲み込んだ。
追わない。
否定を崩すための言葉を重ねない。
今ここで聞き出すことより、本人が自分で口を開けるところまで待つ方がいい。そう判断して、リシェは黙った。
アスターも珍しく何も言わない。
店の奥では焼き台の火が小さく鳴り、窓の外からは昼前の通りの声が途切れ途切れに聞こえてくる。墓参り帰りらしい老女が誰かと笑いながら通り過ぎ、その声が硝子越しに遠ざかっていった。
マレナは丸パンを最後まで包み終えると、しばらくその包みを両手で持っていた。
何かを言うのかと、リシェは待った。
けれど彼女はパンを棚へ戻し、ゆっくり顔を上げる。
店主の笑顔が戻っていた。
朝から客へ向けていたものと、ほとんど同じ笑顔だった。
「ごめんなさいね、リシェさん」
「はい」
「何も話すことはありません」
声は柔らかかった。
拒絶するために張り上げた声ではない。怒りもなければ、追い返す素振りもない。それでも、その言葉だけは動かなかった。
リシェは数秒、マレナの顔を見た。
笑顔の奥に何があるのかを、ここで決めることはできない。
怖がっているのかもしれない。
何かを守ろうとしているのかもしれない。
単に記録官へ話したくないだけかもしれない。
どれもまだ、推測にすぎなかった。
「分かりました」
リシェはそう答え、調査帳を鞄へ戻した。
納得したとは言わなかった。
マレナも、安心した顔はしなかった。
立ち上がったリシェが扉へ向かうと、アスターも棚から離れてついてくる。吊り鐘へ手を掛ける直前、リシェは一度だけ振り返った。
マレナはもう、次の包み紙を広げていた。
指先は止まっていない。
けれど、その紙を折り始めるまでには、ほんの少し時間がかかった。
扉を開けると、昼前の街の音が店内へ流れ込んだ。花売りの呼び声、荷車の車輪、遠くで墓碑を削る乾いた音。日常の音に押されるように吊り鐘が鳴り、リシェとアスターは《朝鐘亭》の外へ出た。
背後で扉が閉じる。
焼きたてのパンの匂いだけが、しばらく外まで追ってきた。




