第一節 ― 死んでいるパン屋
死者名記録庁の朝は、紙の音から始まる。
夜番から引き継がれた受理簿が各机へ運ばれ、乾ききっていない墨の匂いが書架のあいだを流れていく。窓硝子の向こうには薄い朝霧が残り、庁舎前では夜通し灯っていた葬送灯が端から順番に消されていた。いつもならリシェも、その日の受理案件を確認してから現場用の帳面を整えるところだったが、今日は自分の机に腰を落ち着けるより先に記録検索室へ向かっていた。
手元の控えには、墓域で写し取った一つの名前がある。
マレナ=フォルク。
《朝鐘亭》でパンを売っていた女性と、白い墓碑に刻まれていた死者。もっとも簡単な答えは同姓同名で、珍しくはあっても、それだけなら怪異でも事件でもない。まずはその可能性から消すべきだと考え、リシェは検索台の前へ立った。
「ありました」
担当職員が引き出した死者名簿の写しを、リシェは両手で受け取る。
七年前の記録なら、保存塔の深層へ問い合わせる必要もない。帳面はまだ十分新しく、索引札をめくってフォルク家名の項を追えば、探していた名前はすぐに見つかった。
死亡者、マレナ=フォルク。
そこへ指を置いたまま、リシェは一度目を閉じた。見間違いを疑ったわけではない。頭の中へ今朝の店内を置き直すためだった。焼きたての小麦の匂い、焼き台の熱、子どもと焦げ目について言い争っていた声、包み紙を折る指、釣り銭を数えていた手。その一つ一つは、墓碑に刻まれた静かな名前とはあまりにも遠かった。
目を開けても、帳面の文字は変わらない。
「生年月日は?」
背後からオルヴァの声がした。
「照合します」
リシェは墓碑管理記録の控えと、生者側の営業登録から取った基礎情報を机へ並べた。紙の端を揃え、生年月日の欄を数字ごとに追う。日付も月も年も一致しており、最後まで確認してからようやく顔を上げた。
「一致しています」
オルヴァは何も言わなかった。その沈黙が続きを促していると分かっているので、リシェは死者記録へ視線を戻す。
「配偶者、ラス=フォルク。死亡事由は水難事故。遺体搬入後に身元照合を実施し、遺族確認あり。死者名選定に異議なし、墓碑記入済み、閉帳済みです」
紙を一枚送り、最後の欄へ目を落としたところで、リシェの声がわずかに遅れた。
「眠りの鐘も、執行確認が残っています」
閉帳は、生者として積み重ねられてきた記録を死者側へ移し、その人生を葬送の帳へ納めるための手続きだ。墓碑へ名が刻まれ、最後に眠りの鐘まで確認されているなら、少なくとも制度の上では途中の死者ではない。仮受理でも審理中でも葬送保留でもなく、マレナ=フォルクという人間は、七年前に正式に死者として処理され、そのまま葬送を終えている。
「……ずいぶん念入りに死んでるね」
机の向こうからアスターが言った。
死者名簿そのものは彼にはうまく読めないらしく、さっきから文字を覗き込もうとしては角度を変えている。読めなくても、リシェとオルヴァの会話から内容を拾うことには慣れてきたらしい。
「言い方」
リシェが小声で返す。
「でも、そういうことでしょ?」
「そういうことでも、言い方があります」
「死者への配慮?」
「生者にもです」
今朝会ったばかりのマレナの顔が浮かんだ。墓碑を見ていると気づいた瞬間だけ、店で浮かべていた笑顔が消えた。あの表情を思えば、まだ本人の前でこの記録を読み上げずに済んだことだけはよかったと、リシェは思う。
オルヴァが眼鏡の位置を指でわずかに直した。
「生者側は」
「今、出します」
リシェは死者名簿を閉じず、その隣へ市内生活記録の照会票を広げた。こちらは死者名簿ほど重々しい帳ではなく、商業登録、納税、住居、雇用、店舗使用権といった、市内で暮らす者の日常的な記録が紐づけられている。
検索欄へ名前を入れる。
マレナ=フォルク。
表示された件数は、一件だった。
「……あります」
「内容を」
「市内商業登録。《朝鐘亭》店主。登録状態、継続中」
さらに記録を開き、リシェは項目を順に確認していく。
「納税記録あり。住居登録あり。商業区画使用料、未納なし。営業許可も更新済みです」
「優良市民だね」
「そこは今、重要ではありません」
「死んでても税金は払うんだ」
「払っているのは生きているマレナさんです」
「でも死んでるんでしょ?」
「だから調べているんです」
言い返してから、リシェ自身も妙な会話だと思った。
《朝鐘亭》の主人は生きている。それは見れば分かる。少なくとも今朝会った女性は呼吸をし、店を開け、パンを売り、客へ釣り銭を返していた。死者の残響が生者そっくりに店を経営しているようには見えなかった。
ところが記録上では、彼女は死んでいる。しかも曖昧な死亡登録ではなく、葬送まで完了した正式な死者として。その一方で、生者側でもマレナ=フォルクという名前は正常に存在し、今朝まで途切れず生活を続けている。
リシェは二つの記録を左右に並べた。
左には、七年前に閉じられた人生がある。
右には、現在まで続いている生活がある。
名前だけではなく、生年月日まで同じだった。
「別人の誤登録という可能性は」
オルヴァが問う。
「現在の基礎登録にある生年月日は、死者記録と一致しています。《朝鐘亭》の契約名義も本人名義です」
「登録時の照合元は」
「市内登録票を確認します」
しばらくは、紙を繰る音だけが検索室へ続いた。
オルヴァは急かさなかった。若い職員なら、その沈黙だけで十分に手を速めただろうが、リシェは急いで見落とす方を嫌う。一枚ずつ欄を追い、登録者名、生年月日、現在の職業、住所登録の印まで確かめていった。
登録者名はマレナ=フォルク。
生年月日は死者記録と一致し、職業欄にはパン製造・販売。住所欄には市内登録ありを示す印が押されている。少なくとも、《朝鐘亭》だけを借りて他人の名前を使っている者ではない。
「同じ人物として扱われています」
リシェが言うと、今度こそオルヴァは黙った。
ほんの数秒ではなかった。彼は死者記録を開き、生者記録を開き、また死者記録へ戻った。冷たい印象を与えがちな眼鏡の奥で、視線だけが同じ項目を何度も往復している。
オルヴァが帳面をこれほど長く眺めるのを、リシェはあまり見たことがなかった。
「主任」
「見ています」
「はい」
「見れば見るほど増えていますね、問題が」
「減る可能性も考えていたんですか」
「期待はしていました」
淡々とした声だった。
アスターが机の端へ肘をつく。
「でもさ」
「何ですか」
「両方にいるなら便利じゃない?」
リシェは顔を上げた。
「何がですか」
「生者限定と死者限定、両方入れる」
「どこへ入るつもりなんですか」
「知らないけど。そういう場所、ありそうじゃない? 生者お断りの墓地とか、死者立入禁止の食堂とか」
「後者は普通の食堂です」
「僕は入れてるよ」
「入っているだけです。食べられないでしょう」
「そういう差別はよくないと思うな」
その瞬間、オルヴァが帳面から目を上げた。
「あなたは黙っていなさい」
アスターの顔が止まり、リシェもつられて動きを止めた。オルヴァ自身はもう記録へ視線を戻している。
数秒の沈黙のあと、アスターが自分を指差した。
「……僕?」
「ほかに誰がいますか」
「見えてる?」
「見えません」
「じゃあ、なんで」
「見えなくても騒がしいものは分かります」
リシェは口元へ力を入れた。笑ってはいけないほど深刻な場面ではないが、ここで笑えば確実にアスターが調子に乗る。
「ほら。僕、存在感が出てきた」
「騒音としてです」
「存在は存在だよ」
「喜ぶところではありません」
オルヴァが二人の会話を切るように、生者側の照会票を死者名簿の上へ重ねた。その動作だけで、検索室の空気が仕事へ戻る。
「ベルレイン」
「はい」
「名簿不整合案件として正式に扱います」
リシェの背筋が伸びた。
「死者記録側だけの誤記なら訂正で済みます。生者側だけなら登録不備として所管へ返せる。しかしこれは、どちらも一見正常です」
オルヴァは二冊の帳面を指先で軽く押さえた。
「同一名、同一生年月日。片方は葬送完了。片方は現在も市内で生活し、営業し、納税している」
「はい」
「まず本人確認。次に、七年前の死亡記録と遺体照合の経路を確認します。現時点では、どちらか一方を誤りと決めつけないこと」
リシェは頷いた。
マレナは今朝、自分たちが墓碑を見ていることに気づいた。その瞬間の表情を思えば、何も知らない可能性は低い。それでも、帳面の矛盾だけで本人の事情まで決めるわけにはいかなかった。
「《朝鐘亭》へ聞き取りに行きます」
「そうしてください。営業中でしょうから、客前で死者扱いするのは禁止です」
「しません」
「あなたは時々、正直すぎます」
「気をつけます」
アスターが横から小さく手を挙げる。
「僕も?」
リシェとオルヴァが、ほとんど同時に彼のいる辺りへ視線を向けた。
「来るつもりですか」
「もう来てるし」
オルヴァは一拍置いてから、書類へ調査印を押した。乾いた音が、朝の記録検索室へ響く。
「少なくとも、パン屋の営業を妨害しないこと」
「主任、僕にはパンを買えないという重大な制約が」
「なお都合がいいですね」
アスターが不服そうに口を曲げる横で、リシェは調査票を受け取った。
紙面に記されている名前は、一つしかない。
マレナ=フォルク。
その一つの名が、七年前に閉じられた死者名簿と、今朝まで続いている生者の記録の両方に、同じ人間として残っている。
リシェは二冊をもう一度見比べてから調査票を鞄へ収めた。これから会いに行くのは、帳面の矛盾そのものではない。朝、焼きすぎたパンを「焼き目」と言い張り、墓前で一瞬だけ笑顔を消した女性だ。
検索室を出る頃には、庁舎前の最後の葬送灯も消えていた。




