序節 ― 朝焼けのパン
墓碑は、ときどき生きている人より正しい顔をする。
けれど、石が死を告げても、
朝は来る。
パンは焼ける。
花を持つ手は、まだ温かい。
ならば先に見るべきものは、
きっと文字ではない。
朝の霧は、墓地の白い石をひとつずつ薄く包んでいた。
夜のあいだ冷えていた墓碑には細かな露が浮き、まだ低い朝日を受けて淡く光っている。その間を抜ける石畳には、早起きの花売りと墓碑師、それから仕事へ向かう人々の足音がもう行き交っていた。遠くでは荷車の車輪が鳴り、どこかの店が戸板を外している。死者の眠る街にも、朝はきちんと来る。
墓域の外れにある《朝鐘亭》は、周囲よりひと足早く一日を始めていた。
扉を開けた途端、焼いた小麦と溶けた油の匂いが、外套にまとわりついていた霧の冷たさを追い払う。狭い店内では籠いっぱいの丸パンが棚へ運ばれ、その奥でマレナ=フォルクが布を肩に掛けたまま忙しなく動いていた。
「端っこの焦げたやつちょうだい」
カウンターに顎が届くかどうかという子どもが、焼き台の隅を指差した。
マレナは振り向きもせず、焼き上がったパンを籠へ移す。
「売り物です」
「焦げてるよ」
「焼き目です」
「黒いよ」
「香ばしいんです」
「昨日はくれた」
「あれは割れたからです。今日は割れてません」
子どもは不満そうに頬を膨らませたが、帰る気配はまるでない。マレナも追い払う気はないらしく、次の籠を持ち上げながら口元だけで笑っていた。
リシェがカウンターの前へ立つと、今度は顔を上げる。
「おはようございます。いつもの?」
「お願いします」
「今日はちゃんと焼けてますよ」
「昨日もそう聞きました」
「昨日もちゃんと焼けてました」
横から、アスターが棚を覗き込んだ。
「今日はちょっと焼きすぎじゃない?」
「食べられない人は黙っていてください」
「ひどいな。見た目の感想くらいあるよ」
マレナの手が止まった。
「何か言いました?」
「いえ」
リシェは何事もなかったように財布を出す。
隣でアスターが肩をすくめた。
「僕への扱い、日に日に雑になってない?」
「気のせいです」
「今のも?」
「気のせいです」
マレナが妙な顔で二人分――正確には一人分しかいない客の周囲を見回したが、すぐに慣れたように包み紙へパンを滑らせた。このところリシェが時々、誰もいない場所へ小声で返事をすることには、近所でも深く触れない方針ができつつあるらしい。
「はい。朝の分」
「ありがとうございます」
「お昼まで取っておくなら、紙は開けてくださいね。蒸れますから」
「分かっています」
「毎回言わないと忘れるでしょう」
「忘れていません」
「この前、鞄の底から潰れたの出してましたよね」
リシェは包みを受け取る手をわずかに止めた。
アスターが楽しそうに笑う。
「そういうこともあるんだ、記録官殿」
「行きますよ」
「はいはい」
背後では、まだ子どもが粘っていた。
「じゃあ、そのいちばん小さいの」
「値段は同じです」
「小さいのに?」
「焼き目ですから」
「関係ないじゃん」
朝の店に、マレナの笑い声が混じった。
外へ出ると、霧は先ほどより少しだけ薄くなっていた。
リシェは包みを鞄へ収め、死者名記録庁へ向かう近道として墓域を横切る。白い墓碑のあいだには朝の供花が増え始め、清掃人が石の縁に溜まった露を布で拭っていた。葬列のない時間の墓地は静かだが、眠っているというより、まだ目を覚ましきっていない街の一部に見える。
「さっきの子、たぶん明日も来るね」
アスターが墓碑の縁を避けながら隣を歩く。
「来るでしょうね」
「そのうち本当に焦げたやつをもらえるまで通う気がする」
「焼き目です」
「君までそっち側なの?」
返事をしようとしたところで、リシェの足が止まった。
少し先に、見覚えのある後ろ姿があった。
濃い色の上着。急いで店を出たのか、まとめた髪から短い毛束がひとつ外れている。片手には、小さな花束。
「……マレナさん?」
呼びかけるほどのことではないと思い、声には出さなかった。
墓参りは珍しくない。
死者の街で暮らしていれば、仕事の前に墓へ寄る者などいくらでもいる。マレナは一基の白い墓碑の前へしゃがみ込み、花束の茎を整えてから、石の根元へそっと置いた。
その仕草には慣れがあった。
一度や二度ではない。
リシェは何気なく墓碑へ目を向けた。
刻まれた文字を読む。
そして、動けなくなった。
マレナ=フォルク。
その下には、死亡年月日。
七年前。
「リシェ?」
アスターが一歩先へ出てから振り返った。彼も墓碑を見て、さっきまでの軽い表情を消す。
「……同じ名前?」
リシェは墓碑から、花を置いた女性へ視線を移した。
つい先ほどまでパンを焼き、子どもと言い合い、釣り銭を数えていた人がそこにいる。朝霧の中でも輪郭ははっきりしていた。胸は呼吸に合わせて動き、花を置いた指も、生きた人間の色をしている。
「はい」
それ以上の言葉が出る前に、マレナがこちらへ気づいた。
いつものように笑おうとしたのだろう。
けれど、リシェが墓碑を見ていることを知った、その一瞬だけ。
彼女の顔から、笑みが消えた。




