↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/43

序節 ― 朝焼けのパン

墓碑は、ときどき生きている人より正しい顔をする。


けれど、石が死を告げても、

朝は来る。

パンは焼ける。

花を持つ手は、まだ温かい。


ならば先に見るべきものは、

きっと文字ではない。

 朝の霧は、墓地の白い石をひとつずつ薄く包んでいた。


 夜のあいだ冷えていた墓碑には細かな露が浮き、まだ低い朝日を受けて淡く光っている。その間を抜ける石畳には、早起きの花売りと墓碑師、それから仕事へ向かう人々の足音がもう行き交っていた。遠くでは荷車の車輪が鳴り、どこかの店が戸板を外している。死者の眠る街にも、朝はきちんと来る。


 墓域の外れにある《朝鐘亭》は、周囲よりひと足早く一日を始めていた。


 扉を開けた途端、焼いた小麦と溶けた油の匂いが、外套にまとわりついていた霧の冷たさを追い払う。狭い店内では籠いっぱいの丸パンが棚へ運ばれ、その奥でマレナ=フォルクが布を肩に掛けたまま忙しなく動いていた。


「端っこの焦げたやつちょうだい」


 カウンターに顎が届くかどうかという子どもが、焼き台の隅を指差した。


 マレナは振り向きもせず、焼き上がったパンを籠へ移す。


「売り物です」


「焦げてるよ」


「焼き目です」


「黒いよ」


「香ばしいんです」


「昨日はくれた」


「あれは割れたからです。今日は割れてません」


 子どもは不満そうに頬を膨らませたが、帰る気配はまるでない。マレナも追い払う気はないらしく、次の籠を持ち上げながら口元だけで笑っていた。


 リシェがカウンターの前へ立つと、今度は顔を上げる。


「おはようございます。いつもの?」


「お願いします」


「今日はちゃんと焼けてますよ」


「昨日もそう聞きました」


「昨日もちゃんと焼けてました」


 横から、アスターが棚を覗き込んだ。


「今日はちょっと焼きすぎじゃない?」


「食べられない人は黙っていてください」


「ひどいな。見た目の感想くらいあるよ」


 マレナの手が止まった。


「何か言いました?」


「いえ」


 リシェは何事もなかったように財布を出す。


 隣でアスターが肩をすくめた。


「僕への扱い、日に日に雑になってない?」


「気のせいです」


「今のも?」


「気のせいです」


 マレナが妙な顔で二人分――正確には一人分しかいない客の周囲を見回したが、すぐに慣れたように包み紙へパンを滑らせた。このところリシェが時々、誰もいない場所へ小声で返事をすることには、近所でも深く触れない方針ができつつあるらしい。


「はい。朝の分」


「ありがとうございます」


「お昼まで取っておくなら、紙は開けてくださいね。蒸れますから」


「分かっています」


「毎回言わないと忘れるでしょう」


「忘れていません」


「この前、鞄の底から潰れたの出してましたよね」


 リシェは包みを受け取る手をわずかに止めた。


 アスターが楽しそうに笑う。


「そういうこともあるんだ、記録官殿」


「行きますよ」


「はいはい」


 背後では、まだ子どもが粘っていた。


「じゃあ、そのいちばん小さいの」


「値段は同じです」


「小さいのに?」


「焼き目ですから」


「関係ないじゃん」


 朝の店に、マレナの笑い声が混じった。


 外へ出ると、霧は先ほどより少しだけ薄くなっていた。


 リシェは包みを鞄へ収め、死者名記録庁へ向かう近道として墓域を横切る。白い墓碑のあいだには朝の供花が増え始め、清掃人が石の縁に溜まった露を布で拭っていた。葬列のない時間の墓地は静かだが、眠っているというより、まだ目を覚ましきっていない街の一部に見える。


「さっきの子、たぶん明日も来るね」


 アスターが墓碑の縁を避けながら隣を歩く。


「来るでしょうね」


「そのうち本当に焦げたやつをもらえるまで通う気がする」


「焼き目です」


「君までそっち側なの?」


 返事をしようとしたところで、リシェの足が止まった。


 少し先に、見覚えのある後ろ姿があった。


 濃い色の上着。急いで店を出たのか、まとめた髪から短い毛束がひとつ外れている。片手には、小さな花束。


「……マレナさん?」


 呼びかけるほどのことではないと思い、声には出さなかった。


 墓参りは珍しくない。


 死者の街で暮らしていれば、仕事の前に墓へ寄る者などいくらでもいる。マレナは一基の白い墓碑の前へしゃがみ込み、花束の茎を整えてから、石の根元へそっと置いた。


 その仕草には慣れがあった。


 一度や二度ではない。


 リシェは何気なく墓碑へ目を向けた。


 刻まれた文字を読む。


 そして、動けなくなった。


 マレナ=フォルク。


 その下には、死亡年月日。


 七年前。


「リシェ?」


 アスターが一歩先へ出てから振り返った。彼も墓碑を見て、さっきまでの軽い表情を消す。


「……同じ名前?」


 リシェは墓碑から、花を置いた女性へ視線を移した。


 つい先ほどまでパンを焼き、子どもと言い合い、釣り銭を数えていた人がそこにいる。朝霧の中でも輪郭ははっきりしていた。胸は呼吸に合わせて動き、花を置いた指も、生きた人間の色をしている。


「はい」


 それ以上の言葉が出る前に、マレナがこちらへ気づいた。


 いつものように笑おうとしたのだろう。


 けれど、リシェが墓碑を見ていることを知った、その一瞬だけ。


 彼女の顔から、笑みが消えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。