終節 ― ひとつではない
墓苑を離れる頃には、ネム=レクスの空はすっかり夜の色へ変わっていた。
夕暮れの名残は西の低い雲へ薄く残っているだけで、石造りの街路には葬送灯が一つずつ灯り始めている。昼間より濃くなった霧が足元を静かに流れ、その向こうを仕事帰りの人々が家路へ急いでいた。
リシェとアスターは、並んで死者名記録庁へ向かっていた。
帰り道を少し遠回りすれば南鐘街を通るが、今日はそちらへ寄らなかった。ダリオの英雄碑も、新しく置かれた説明板も、もう見に戻る必要はないように思えた。
通りの角にある食堂から、扉が開くたびに温かい匂いと笑い声が漏れてくる。仕事終わりらしい墓碑師たちが大きな卓を囲み、誰かの失敗談を肴に盛り上がっているらしい。少し先では露店の主人が売れ残った果物を籠へ戻しながら、最後の一個を買おうとする客と値引きの攻防を続けていた。
「夜になっても元気だね、この街」
アスターが食堂の窓を眺めながら言った。
「夜勤の人もいますから」
「そういう意味じゃなくて。死者だらけの街なのに、みんな普通に夕飯食べて、値切って、笑ってる」
「死者が多いから夕食を抜く、という決まりはありません」
「君、たまにものすごく正しいことを、ものすごく情緒のない言い方するよね」
「事実です」
「そういうところ」
アスターは小さく笑い、両手を頭の後ろで組んだ。
墓地の向こうから、眠りの鐘が鳴った。
重すぎず、軽すぎない音が霧の中をゆっくり渡ってくる。墓碑の間を抜け、家々の壁へ触れ、店じまいの音や食堂の笑い声に混ざりながら、街全体へ薄く広がっていった。
二人はしばらく、その音を聞きながら歩いた。
やがてアスターが、少し前を向いたまま口を開く。
「ねえ、リシェ」
「はい」
「ダリオって、いい人だったの?」
足は止めなかった。
リシェは濡れた石畳を見ながら考える。
南鐘街では、多くの人が彼を英雄として覚えていた。救われた人間がいることも、今なお花やパンを供える人がいることも事実だった。
一方で、彼は退避命令を破った。危険な建物へ戻り、それを追おうとした同僚もいた。外周では負傷者も出た。家では約束をよく破り、妻に怒られ、娘を待たせた。
「それだけではなかったと思います」
リシェは答えた。
アスターが横を見る。
「じゃあ悪い人?」
「それだけでもありません」
「面倒だね、人間」
「あなたも元は人間でしょう」
「たぶんね」
即答ではなかった。
けれど、その「たぶん」に以前ほど重い響きはなかった。
アスターはまた前を向き、しばらく歩いた。道端の葬送灯を通り過ぎるたび、その白い横顔へ短く光が当たり、すぐに霧へ戻っていく。
リシェは何も訊かなかった。
アスターの生前名も、どこで死んだのかも、まだ分からない。分からないものを、今ある言葉だけで埋める必要はなかった。
「僕もさ」
アスターが言った。
いつもの軽い調子に戻そうとしたように聞こえたが、最後の音だけが少し弱かった。
「名前が分かったらさ」
リシェは隣を見る。
アスターは前を向いたままだった。
「何か一個にされるのかな」
今度は、冗談を挟まなかった。
「一個、ですか」
「うん。英雄だったとか、罪人だったとか。誰かの息子だったとか、何かをした人だったとか」
アスターは少しだけ口元を上げた。
けれど、いつもの笑いにはならなかった。
「ほら、僕って何もないじゃん。今のところ」
「アスター=ヴェイルという名前はあります」
「仮名ね」
「呼べる名前です」
「それは、まあ」
アスターは少し黙った。
霧の向こうで、眠りの鐘の余韻が消えていく。
「でも、本当の名前が出てきて、その名前の横に何かすごいことが書いてあったら」
彼は言葉を選ぶように間を置いた。
「僕って、それになるのかな」
リシェはすぐには答えなかった。
――させません。
そう言えば、たぶんアスターは笑う。
けれど、それはまだ知らない過去について、本人より先に答えを決めることになる気がした。
今日、帳面へ戻した三つの記録が頭をよぎる。
退避命令違反。
残留住民救助。
救助活動中の崩落事故。
「一つで全部分かる人なんて、いないと思います」
リシェはゆっくり言った。
アスターが瞬きをする。
「記録官がそれ言っていいの?」
「記録官だから言っています」
「だって記録するのが仕事でしょ」
「はい」
リシェは鞄の中にある調査帳へ、無意識に手を添えた。
そこにはアスターの仮名もある。
正式な死者名簿へは載せられないまま、余白に残した名前。
「記録は、人間そのものではありませんから」
アスターが黙る。
リシェはそれ以上、言葉を重ねなかった。今の答えを、今の自分が言えるところまでで止めた。
しばらくして、アスターの口元がようやく緩んだ。
「じゃあ安心した」
「何がですか」
「分かんない」
「分からないのに安心できるんですか」
「できたから仕方ないじゃん」
「便利ですね」
「死者だからね」
「関係あります?」
「ないかも」
今度の笑いは、ちゃんと笑いになった。
リシェも少しだけ息を抜く。
二人はそのまま夜の街を歩いた。
露店の主人が最後の荷を片づけ、食堂では新しい笑い声が上がる。向こうから来た葬送庁の夜番職員がリシェへ会釈し、その隣にいるはずのアスターには気づかないまま通り過ぎていった。
アスターがその背中を見て、小声で言う。
「今の人、僕を完全に無視した」
「見えていませんから」
「分かってるけど、ちょっと寂しい」
「では私が見ています」
口にしてから、リシェはほんの少し歩調を乱した。
アスターも一瞬だけ黙ったが、すぐに歩きながら顔を覗き込んでくる。
「今の、結構いいこと言ったよ」
「忘れてください」
「記録官が?」
「今のは記録対象外です」
「ずるいなあ」
アスターの笑い声が、夜霧の中へ小さく溶けた。
リシェは少しだけ歩く速度を上げる。
アスターも当然のように隣へついてきた。
*
同じ頃、灰化許可院の廊下には、ほとんど人の気配がなくなっていた。
夜番へ引き継ぐ前の最後の確認を終え、セナ=グレイは第三灰室の前に立っていた。
灰除け眼鏡を掛け、灰色手袋を嵌める。扉の前で一礼し、封印札を確かめた。
朝から何度も繰り返した手順だった。
再閉帳は完了している。
ダリオ=エイレンの記録は、新しい分類で正式に戻された。仮封していた灰も、訂正された処理記録に沿って閉じ直されている。
それでも、異常が終わったかどうかは、室内を見なければ分からない。
セナは鍵を差し込み、静かに回した。
扉を開ける。
冷えた空気が、廊下へわずかに流れ出した。
黒炉は沈黙している。棚には灰壺が並び、封印札はどれも所定の位置から動いていない。昼の検分で使用した道具も片づけられ、白灰の円にも乱れはなかった。
セナは入口から、いつもの順番で視線を進めた。
黒炉を確認し、灰壺棚を見て、封灰箱を確かめる。
最後に、床へ目を落とした。
朝にはそこに二行の文字があった。
**ダリオ=エイレン**
**退避命令違反**
何度採取しても戻ってきた灰の文字は、今夜はどこにも見当たらなかった。
白い床には、白い石だけが続いている。
セナはすぐに扉を閉めなかった。
円の外に立ったまま、しばらく床を見ている。
新しい灰が浮かび上がることもない。棚の中から音がすることもなく、黒炉の封灰線も静かなままだった。
やがてセナは小さく息を吐いた。
安心したとも、解決したとも口にはしない。
ただ記録板へ時刻を書き、異常なしの印を入れた。
文字が乾くまで待ってから、もう一度だけ白い床を見る。
何もない。
セナは静かに扉を閉めた。
鍵を掛け、封印札へ指を添えて確認する。廊下の灯りを一つ落とすと、厚い扉の向こうは何も語らなくなった。
遠くで、最後の眠りの鐘が鳴っていた。




