第九節 ― 英雄ではなく、父として
正式な再閉帳は、第三灰室ではなく、死者名記録庁の照合室で行われた。
窓の外には薄い雲がかかり、午後の光が白い机の上へ均一に落ちている。灰化許可院から運ばれてきた処理票、十五年前の事故調査記録、救助功績記録、十二年前の灰化申請書、そして今回作成された訂正記録が、順番に並べられていた。
紙の枚数だけを見れば、それほど多くはない。
けれど、その一枚一枚に違う角度から見たダリオ=エイレンが残っている。炎の中へ戻った救助隊員。退避命令を破った隊員。住民を助けた男。崩落に巻き込まれて死んだ男。街に英雄と呼ばれた死者。そして、夕食まで帰りを待っていた娘の父親。
リシェは照合席に座り、訂正記録をもう一度読み返した。
**職務上の事実記録――退避命令違反。**
**結果記録――残留住民救助。**
**死亡結果――救助活動中の崩落事故。**
三つの記載は、上下に優劣をつけず並んでいる。
その横には、既存の救助功績記録を継続して保存する旨が記されていた。十五年間残ってきた功績そのものまで取り消す理由はない。
「誤記はありません」
向かいに座るセナが言った。
今日は灰除け眼鏡ではなく、通常の閲覧用眼鏡を掛けている。第三灰室で見る姿より少しだけ柔らかく見えるが、紙を見る目は同じくらい厳密だった。
「灰化取消処理との照合も完了しています。旧分類の《罪名記録》は解除。職務事実記録へ戻します」
リシェは頷き、署名欄へ筆を入れた。
その隣では、立会担当の記録官が処理番号を確認し、灰化許可院から戻された仮封灰の番号と突き合わせている。
リアも少し離れた席に座っていた。
仕立て工房で会った時とは違い、仕事着ではない。落ち着いた色の外套を羽織り、両手を膝の上に重ねている。手元には、遺族確認用として渡された記録の写しがあった。
「最後に確認します」
リシェはリアへ向き直った。
「ダリオ=エイレンさんの記録は、灰化以前の形へそのまま戻すのではなく、分類を訂正して再登録します。退避命令違反は職務上の事実として残り、住民救助の結果も同じ記録上に残ります。救助功績記録も継続します」
リアは写しへ目を落とし、三行をゆっくり読んだ。
「はい」
それから顔を上げる。
「お願いします」
声に迷いはなかった。
リシェは最後の確認欄へ印を入れた。
紙が一枚、次の担当者へ渡される。処理印が押され、乾いた音が机に響いた。
その音は驚くほど普通だった。
十五年前の火災も、十二年前の灰化も、第三灰室に現れた異常も、その一音だけで何もなかったように片づくわけではない。それでも制度の上では、これでダリオの記録は正式に戻る。
セナが閉帳用の札を確認し、リシェへ差し出した。
「ベルレインさん」
「はい」
「お願いします」
受け取った札を、リシェは訂正記録の表紙へ置いた。
墨が乾いていることを確かめ、帳面を閉じる。
今度の閉帳では、《退避命令違反》だけが一人で残ることはない。かといって、《英雄》という言葉だけでほかの事実を覆うこともない。
リシェは留め紐を結び、所定の位置へ記録を納めた。
「再閉帳、完了しました」
立会担当者が時刻を書き込む。
リアは何も言わず、閉じられた帳面を見ていた。
少しして、息を吐く。
「思ったより静かなんですね」
「何がですか」
「こういうの」
リアは閉帳棚を指した。
「もっと、何か大きな感じがするのかと思ってました」
リシェは棚を見る。
「記録を戻すだけですから」
「大変だったのに?」
「大変だったことと、音が大きいことは別です」
その答えに、リアが少し笑った。
「記録官さんらしいですね」
窓際からアスターの声がした。
「僕もそう思う」
もちろんリアには聞こえていない。
リシェだけが一瞬そちらを見ると、アスターは何もなかったように外を眺めた。
*
正式な再閉帳から数日が過ぎた。
南鐘街では、十五周年の追悼式を前に、最後の準備が進んでいた。英雄碑そのものは変わらない。その横に、新しく作り直された説明板だけが据えられている。
板の縁にはまだ白い石粉がわずかに残り、金具にも使い込まれた鈍さがない。据え付けられてから、それほど時間が経っていないことが見て取れた。
白い英雄碑には、今まで通りの文字が刻まれている。
**ダリオ=エイレン**
**炎中へ戻り、多くの命を救った者**
誰かがその文字を削ることも、碑を撤去することもなかった。
救われた人がいる。
その人たちが今も感謝している。
その事実まで取り壊す必要はない。
代わりに、横へ置かれた新しい説明板には、十五年前の救助経過が以前より詳しく記されていた。
構造崩壊の危険から退避命令が発令されたこと。ダリオが一度現場外へ退避したこと。残留住民の存在を知り、自ら再進入したこと。その行動により複数の住民が脱出したこと。そして、その後の崩落で死亡したこと。
文章は淡々としていた。
勇敢だったとも、愚かだったとも書いていない。
通りかかった人間が何を思うかは、その人に委ねられている。
「これ、前より長くなったね」
アスターが説明板を上から下まで眺めながら言った。
「情報が増えましたから」
「子どもは読まなそう」
「それは仕方ありません」
「じゃあ三回入った話、残るかもよ」
リシェは少し考えた。
「それも街の記憶でしょう」
アスターが意外そうに見る。
「訂正しないの?」
「正式記録は二回です」
「そこは変わらないんだ」
「変わりません」
アスターは笑った。
英雄碑の前では、朝に会ったパン屋の老人が紙袋を置いていた。
新しい説明板を読むでもなく、いつものように袋の口を軽く整え、碑へ一度だけ頭を下げる。そのあと店へ戻る途中で知り合いに呼び止められ、すぐに何か言い返して笑っていた。
花屋の前では客が値段を尋ね、子どもたちが店先を走り抜けていく。
ダリオの記録が訂正されても、南鐘街はいつも通りだった。
リアはしばらく碑の前に立っていたが、花は置かなかった。
手には、小さな白い花束を持っている。
「ここじゃないんですか」
リシェが尋ねると、リアは首を横へ振った。
「今日は父の方へ行きます」
英雄碑ではなく。
父の墓へ。
リシェはそれ以上尋ねず、少し離れて後を歩いた。
*
家族墓は、南鐘街から歩いてしばらくの小さな墓苑にあった。
大きな共同墓地のように墓碑が果てまで並んでいるわけではない。低い石垣に囲まれた敷地の中へ、小さな墓が静かに置かれている。夕方の霧が足元から少しずつ戻り始め、白い石の輪郭を柔らかくしていた。
墓苑の外れで、リアが足を止める。
「ここです」
指した先にあるのは、簡素な墓碑だった。
装飾はほとんどない。英雄碑にあった救助隊章も、功績を示す言葉もなかった。
石に刻まれているのは、一つの名前だけだ。
**ダリオ=エイレン**
リシェはアスターとともに数歩手前で止まった。
「私たちは、ここで待ちます」
リアは一度振り返った。
「ありがとうございます」
その声は小さかった。
彼女は一人で墓前へ進んだ。
しゃがみ込み、持ってきた花束を石の前へ置く。古い供花を少しだけ横へ寄せ、新しい茎が倒れないよう整えた。
すぐには立たなかった。
指先で墓碑の下端に触れる。
そこにある名前を確かめるような仕草だった。
夕暮れの風が墓苑を抜け、リアの髪をわずかに揺らした。
「ねえ、お父さん」
遠くからでも聞こえる程度の声だった。
リアは少し笑った。
仕立て工房で寝癖の写真を見た時のような、誰かへ見せるためではない笑い方だった。
「帰ってこなかったね」
責める響きはなかった。
だからといって、許したと告げる声でもない。
十五年前の夕食前、十一歳の少女が言えないまま残した言葉を、ようやく置いているように聞こえた。
リアは墓碑を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
「約束したのに」
その一言には、少しだけ昔の少女が戻っていた。
「今日こそ早く帰るって言ったのにね」
風が花の葉を揺らした。
墓は答えない。
どこかから声が返ることもない。
リアも答えを求めているようには見えなかった。
しばらくして、もう一度口を開く。
「すごいことしたんだね」
声が少しだけ震えた。
「ちゃんと人を助けたんだね」
英雄碑でなら、毎年もっと整った言葉を口にしてきたのだろう。
誇りに思っています。
立派な父でした。
多くの命を救いました。
今日は、そのどれも言わなかった。
「怖かったのに」
リアは小さく笑った。
「怖かったんでしょう?」
リシェは視線を伏せた。
残響を見たのはアスターだ。
それを既存記録と照合し、必要な範囲でリアにも伝えている。火の中へ戻った男が、最初から死を恐れない英雄だったわけではないことを。
「お父さんらしいよ」
リアは言った。
「嫌だって思いながら、結局行っちゃうところ」
そのあと言葉が止まった。
肩が一度だけ上下する。
リアは顔を背けなかった。
墓碑を見たまま、目元を指で拭う。
「でも」
声が掠れた。
今度は笑わなかった。
「帰ってきてほしかったよ」
涙が頬を伝った。
大きな声は出なかった。
しゃがみ込むことも、墓へ取りすがることもしない。ただ立ったまま、次から次へと溢れてくる涙を、時々指で拭っていた。
リシェは動かなかった。
慰めるために近づくこともしない。
何かを言えば、十五年間言えなかった言葉の終わりを、こちらで決めてしまう気がした。
隣のアスターも黙っている。
いつもなら沈黙を持て余して何か言う彼が、今日はただリアを見ていた。
墓苑の向こうで夕暮れの鐘が鳴った。
一度目の音が白い墓碑の間を抜け、少し遅れて二度目が響く。
リアは最後にもう一度涙を拭った。
「じゃあね」
そう言って、少し考える。
「今度は、英雄碑じゃなくてこっちにもちゃんと来るから」
花を整え、墓碑から手を離した。
立ち上がってこちらへ戻ってくる頃には、目元はまだ赤かった。それでも隠そうとはしていなかった。
「お待たせしました」
「いえ」
リシェはそれだけ答えた。
リアはアスターのいる側を知らずに通り過ぎ、墓苑の出口へ向かう。
途中で一度だけ振り返った。
小さな墓に夕暮れの光が落ちている。
名前しか刻まれていない石だった。
**ダリオ=エイレン。**
リアはしばらくその名を見てから、今度こそ前を向いた。
墓苑を出ると、通りには夕食時の匂いが流れていた。窓の向こうから皿を並べる音が聞こえ、仕事を終えた人々が家へ急いでいる。
リアはその人の流れへ戻っていった。
リシェは彼女の背中が角を曲がるまで見送り、それから墓苑の方へ視線を戻した。
夕風に揺れる白い花の前で、墓は何も答えないまま静かに立っていた。




