第六節 ― 帰ってきてほしかった
リア=エイレンの仕立て工房を再び訪ねた時、窓の外には午後の淡い光が落ちていた。
通りの向こうでは布地屋が軒先の品を取り込み始め、荷車の車輪が石畳をゆっくり擦っている。工房の中には前に来た時と同じように糸巻きが並び、作業台には濃紺の上着が広げられていた。あの日まだ片方しか縫われていなかった袖には、今日はきれいな縫い目が最後まで通っている。
「思ったより早かったですね」
リアは扉を開けるなりそう言って、リシェの後ろへ視線をやった。当然、そこにいるアスターの姿は見えていない。
「もう少しかかると思ってました」
「確認できたことがあります」
リシェの声音から察したのか、リアは笑顔を少しだけ弱めた。
「父のことですか」
「はい」
工房へ招かれ、前と同じ椅子へ腰を下ろす。リアはお茶を勧めなかった。代わりに作業台の上へ置いてあった針と糸を端へ寄せ、自分も向かい側へ座った。
アスターは窓際に立った。
火災跡で残響から戻って以来、かなり輪郭は戻っている。それでも今日は朝から、いつもより口数が少なかった。
リシェは調査帳を開く。
「南鐘街大火の当日、お父様には退避命令が出ていました」
リアの視線が帳面へ落ちた。
「前にも少し伺いましたね」
「はい。その後、当時の事故調査資料と救助記録を照合しました。命令が発令されたことと、お父様が一度は建物の外へ退避したこと、そのあと再び建物へ入ったことが記録されています」
言葉を急がない。
事実を事実のまま置く。
「残っている記録の範囲では、お父様が退避命令を認識していなかった可能性は低いと考えています」
「ということは」
リアが指先を重ねる。
「父は、分かっていて戻ったんですね」
「はい」
工房の奥で、小さな振り子時計が一度鳴った。
リアは何も言わなかった。窓辺に置かれた家族写真へ視線を向けることもなく、膝の上に重ねた自分の手を見ている。
リシェは少し待ってから続けた。
「もう一つあります。その職務規則違反についての記録は、お父様が亡くなられて三年後、灰化されています」
リアの眉がわずかに動く。
「灰化……」
「申請上は、《死者の名誉を不当に拘束する罪名記録の清算》として処理されています。ただ、確認した原資料では、事実無根の罪名ではありませんでした。退避命令と再進入は、事故調査記録にも残っています」
「誰かが消したんですか」
「申請者は分かっています。ただ、どういう意図でその判断をしたのかは、まだ本人へ確認していません」
ベルグ=ラウスの名は、ここでは出さなかった。
本人に話を聞く前に、申請書だけを根拠として意図まで伝えるべきではない。
「灰化許可院では、本来、事実そのものを都合よく消すための処理とは考えていません」
リシェは帳面を閉じた。
「ですから、なぜその記録が灰化されたのかを、これから調べます」
リアはしばらく黙っていた。
怒るかもしれない、とリシェは思っていた。父親が命令違反者だったと知らされることにではない。十五年間、自分にも知らされないまま、その事実だけが記録から切り離されていたことに。
けれどリアは声を荒らげなかった。
長く息を吐き、それから顔を上げる。
「そうだったんですね」
静かな声だった。
驚きがないわけではない。それでも、父親についてまったく知らない人間の話を聞いている顔ではなかった。
その唇に、小さな笑みが浮かぶ。
「父らしいです」
リシェは少し迷ったあと、尋ねた。
「驚かないんですか」
「少しは」
リアは答えて、窓際の写真へようやく目を向けた。
寝癖のついたダリオ。
娘を肩車しているダリオ。
食卓を散らかして、妻に呆れられているダリオ。
「でも、約束を守らない人でしたから」
アスターが窓辺から振り返った。
リシェは何も言わず、続きを待った。
「仕事のことになると特に」
リアは写真を見たまま、ゆっくり話し始めた。
「休みの日に出かけようって約束してても、誰か困ってるって聞いたら行っちゃうんです。母が怒っても、私が拗ねても、『すぐ帰るから』って」
少し笑う。
「それで、すぐ帰ってきたことなんてほとんどありませんでした」
「救助隊のお仕事で?」
「仕事の時もありましたし、仕事じゃない時もです。近所の屋根が壊れたとか、荷車が倒れたとか、酔っ払いが溝に落ちたとか。父が行かなくてもいいことまで行くんですよ」
口調が、少しずつ変わっていた。
記念式典で使う整った言葉ではない。
「母がよく言ってました。『あなたは街中の人を助ける前に、自分の家の棚を直しなさい』って」
リアの口元が緩む。
「ずっと壊れてた棚があったんです。扉がちゃんと閉まらなくて。父は毎週、『次の休みに直す』って言ってました」
「直ったんですか」
リシェが尋ねる。
「父が死んだあと、母が自分で直しました」
リアは笑った。
けれど、その笑みはすぐに消えた。
「最後の日も、約束したんです」
リシェの膝の上で、指先がわずかに動いた。
リアは目を伏せる。
「朝、出ていく前に」
声が少し遅くなる。
「その頃、父は忙しくて。何日も帰りが遅かったんです。私はずっと文句を言っていて……たぶん父も面倒だったんでしょうね」
リアは一度だけ鼻から息を吐いた。
「『今日は早く帰る』って言いました」
工房の外で、誰かの笑い声が通り過ぎた。店先で布を畳む音や、向かいの家で食器を重ねる小さな音が窓越しに届いてくる。
十五年前にも、きっと同じように夕方が近づいていったのだろう。
「私は信じました」
リアの手が、膝の上でゆっくり握られる。
「夕食まで待ってたんです。母が先に食べなさいって言っても、待つって」
リシェは黙っていた。
「父が帰ってきたら、一緒に食べるって決めてて」
リアは視線を上げない。
「でも暗くなっても帰ってこなくて。最初はまた仕事が長引いたと思いました。いつものことだったから」
ほんの少しだけ、声が掠れた。
「母も、たぶん同じだったと思います」
外で鐘が鳴った。
眠りの鐘ではない。夕刻を知らせる小さな街鐘だった。
リアの肩がほんの少し動く。
「夜になって、母が帰ってきました」
その一言のあとに、長い間があった。
「一人で」
針山に刺さっていた細い銀針が、窓の光を受けて小さく光った。
「母が何て言ったかは、覚えてません」
リアはゆっくり首を横へ振る。
「父が死んだって聞いたことだけ覚えています」
アスターはもう窓へ寄りかかっていなかった。
壁際に立ち、リアを見ている。
いつもの笑みはない。
「次の日から、いろんな人が来ました」
リアは続けた。
「救助隊の人。役所の人。助けられた人の家族。知らない人まで」
指先が重なったまま、少しずつ力を失っていく。
「みんな父のことを褒めました」
立派な人だった。
勇敢だった。
多くの命を救った。
英雄だった。
リアが一つ一つ声に出すことはなかった。それでも、その言葉が十五年間、何度も彼女の前へ置かれてきたことは分かった。
「最初は嬉しかったんです」
リアが顔を上げた。
目元は赤くなっていない。
涙もない。
「本当に」
その言葉は強かった。
「父が人を助けたって聞いて、嬉しかった。すごいって思いました。父が死んだことで助かった人がいるなら……それなら、少しだけ意味があったのかなって」
そこで言葉が途切れる。
「でも」
リアの視線が、棚の写真へ移った。
「ずっと言われるんです」
立派なお父様ですね。
誇らしいでしょう。
英雄の娘さん。
父親の命で救われた街。
「そうですね、って言うしかないでしょう?」
笑おうとした。
けれど、その笑顔は途中でやめた。
「だって、本当にそうだから」
リアは指先で布尺の端を触った。
「父が誰かを助けたことを嫌だなんて言えないです。助かった人が悪いわけじゃない。父が戻ったことを、間違いだったとも言いたくない」
リシェは聞いている。
帳面は開かなかった。
「でも、何度も何度も『英雄だった』って言われてると」
リアの声が初めて震えた。
「私が帰ってきてほしかったって思ってることが、すごく嫌なことみたいに思えてきて」
そこでリシェの喉が少し詰まった。
何か言おうとすれば、言葉は見つけられたかもしれない。
それは当然です。
あなたが悪いわけではありません。
悲しんでいいんです。
どれも間違ってはいない。
けれど、今ここで必要な言葉には思えなかった。
リシェはただ椅子に座ったまま、リアが次の言葉を選ぶのを待った。
アスターも何も言わない。
「英雄だったことくらい、知っています」
リアは言った。
声は大きくない。
誰かを責める調子でもない。
「十五年も聞きましたから」
わずかに笑う。
今度の笑いは、ひどく疲れていた。
「でも、私には父でした」
窓の外の風が、吊るされた店札を小さく揺らした。
リアは家族写真から目を離さない。
寝癖のついた男。
約束を守らない男。
困っている人がいると、家族を待たせてでも出ていく男。
火の中で怖がりながら、それでも戻った男。
帰るつもりだった男。
リアは息を吸った。
「英雄じゃなくてよかったから、帰ってきてほしかった」
そのあと、誰もすぐには話さなかった。
時計の振り子が動く音が聞こえる。
工房の前を人が通り、少し離れたところで子どもが母親を呼ぶ。誰かの家から夕食の香りが流れ込んできた。
リアは泣かなかった。
リシェも、慰めようとはしなかった。
ただそこにいた。
しばらくして、リアが小さく息を吐いた。
「すみません」
「何がですか」
リシェは訊いた。
リアが少し目を丸くする。
「こんなこと、記録官さんに言っても仕方ないのに」
「聞きに来たのは私です」
それだけ答えた。
リアは数秒リシェを見て、それから視線を落とした。
「……そうでしたね」
先ほどより少しだけ自然な笑みだった。
リシェはようやく調査帳を開いた。
だが、すぐには筆を取らない。
「リアさん」
「はい」
「今のお話を、調査記録へ残してもよろしいですか」
リアは少し考えた。
父親の職務違反についてではない。十五年前から、英雄の娘として言えなかったこと。それを記録として残してよいかを、リシェは本人へ聞いた。
「全部ですか」
「残してほしくない部分は書きません」
リアの視線が写真へ向かう。
やがて、ゆっくり頷いた。
「じゃあ」
そこで少し迷う。
「父が約束を守らない人だったことも、書いてください」
リシェの筆先が紙へ触れた。
「分かりました」
「あと、寝癖も」
「それは必要ですか」
「人間性の重要な記録です」
リアが真顔で言う。
その横で、アスターの口元がようやく少しだけ緩んだ。
リシェも筆を持ったまま数秒考え、調査帳の余白へ小さく書き加える。
**朝は寝癖がひどかった、と娘が証言。**
リアが覗き込んで吹き出した。
「本当に書いたんですか」
「残してほしいと言われましたので」
「記録官さん、融通が利かないのか利くのか分からないですね」
「私も時々分かりません」
リアは声を立てて笑った。
長くは続かなかった。
それでも、父の写真を見ながら笑った時と同じ、誰かに求められたものではない笑いだった。
工房を出る頃には、通りの色が夕方へ変わり始めていた。
リシェは扉の前で一礼し、アスターとともに石畳へ出る。
しばらく歩いても、アスターは何も言わなかった。
「疲れていますか」
リシェが尋ねると、彼は首を横へ振った。
「違う」
それだけ答え、数歩先へ進む。
英雄碑のある方角へ一度だけ目を向けた。
「……帰りたかったんだね」
誰のことを言ったのか、リシェは聞き返さなかった。
ダリオも、リアも、あの夜に家で夕食を待っていた十一歳の少女も、帰るという言葉のそばにいた。
リシェは隣へ追いつき、歩幅を合わせた。
次に聞かなければならないのは、十二年前、ダリオの記録を灰へ送った人物だった。




