第五節 ― 火の中の男
南鐘街へ戻ると、昼を過ぎた通りは朝よりも人が増えていた。
英雄碑の前では花屋の店員が古い供花を下げ、代わりに白い小花を差し直している。そのすぐ横を野菜籠を抱えた客が通り、向かいの露店では値切りに失敗した男が大げさに肩を落としていた。十五年前に大火災があった場所だと知らなければ、ここを特別な場所だと思う者は少ないだろう。
リシェは英雄碑には向かわず、調査帳に挟んだ古い現場図を確かめた。
灰化許可院で閲覧した事故調査資料には、火災当日の救助隊配置と、ダリオ=エイレンの行動経路が残っていた。現在の店並みと重ねると分かりにくいが、火元となった建物は、今では菓子店と雑貨屋、その間の細い路地にまたがっていたらしい。
「ずいぶん変わったね」
アスターが現場図と目の前の街を見比べる。
「十五年経っていますから」
「僕なら絶対迷う」
「もう迷っていますよ」
「そんなことないよ。僕は今、記録官殿の後ろを正しく歩いてる」
「それを迷っていないとは言いません」
リシェは路地の入口で止まった。
古い現場図では、ここが建物の東側出入口に近い。十五年前の石壁はほとんど残っていないが、路地の足元には周囲より黒ずんだ石が数枚混じっていた。火災の痕跡なのか、単なる経年の汚れなのか、見ただけでは分からない。
リシェは鞄から複写された救助記録を取り出した。
原本ではない。それでも十五年前の記録を写した紙には、日時、現場位置、退避命令、隊員名といった情報が残っている。
「やれそうですか」
「たぶん」
アスターの返事は、いつもより慎重だった。
リシェは彼の顔を見る。
「無理はしないでください」
「その台詞、残響に入るたび言われてる気がする」
「毎回守らないからです」
「僕だって好きで危ないところに入ってるわけじゃないんだけど」
「では、危なくなったらすぐ戻ってください」
アスターは少し笑った。
「帰る場所みたいに言うね」
リシェは返事をせず、救助記録を差し出した。
アスターが紙の端へ指を触れる。
触れたように見えた、その瞬間だった。
午後の南鐘街から音が遠のいた。
店主の呼び声も、荷車の軋みも、子どもの笑い声も、薄い水の向こうへ沈んでいく。代わりに、紙の表面から黒い染みのようなものが広がった。
アスターの指先が止まる。
「……強い」
「アスター?」
呼びかけに返事はなかった。
黒藍の髪から色が抜け、輪郭が一瞬だけ揺らいだ。
リシェが腕へ手を伸ばした時には、アスターの視線はもう、現在の南鐘街を見ていなかった。
*
最初に来たのは、熱だった。
皮膚がないはずなのに、焼けると思った。次に煙が喉へ入り、死者なのだから息をする必要などないという理屈を思い出すより先に、アスターは激しく咳き込んだ。
視界が歪む。
現在の商店街は消えていた。頭上にあった空も見えない。炎の赤と煤けた壁、人の影が、濃い煙の向こうで形を結んでは崩れていく。
景色は一続きではなかった。
炎が瞬いた次の瞬間には人の位置が変わり、誰かの叫びだけが途中から聞こえる。煙の向こうに見えた顔も、目を凝らせば輪郭から崩れていった。残っているのは十五年前の一日そのものではない。その場所と記録へ強く焼きついた瞬間だけが、順序の抜けた断片としてアスターの周囲へ押し寄せている。
木材が爆ぜる音と、石の崩れる鈍い響きが重なり、足元まで震えた。誰かが水を運べと叫び、別の誰かがもう無理だと怒鳴っている。
残響だ。
分かっていても、身体が後ずさる。
目の前を救助隊員が走り抜けた。
「西側を空けろ! 上が落ちるぞ!」
「まだ二階にいる!」
「もう持たない!」
声が飛び交う。
英雄碑に刻まれていたような整った言葉は、一つもなかった。恐怖の中にいる人間が、息を継ぎながら投げ合う短く荒い声ばかりだった。
その中に、ダリオ=エイレンがいた。
顔を知っていたから分かったのではない。救助記録に残っていた装備番号と、胸元の隊章。その二つが残響の中で重なり、名前へ結びついた。
英雄碑から想像した男とは違っていた。
煤で顔の半分が黒い。目が赤く、口元を布で押さえながら激しく咳き込んでいる。それでも呼吸を整えきれず、肩が大きく上下していた。
「無理だ、もう崩れる!」
ダリオが同僚へ怒鳴った。
直後、建物の奥で大きな音がした。天井の一部が落ち、火の粉が吹き出す。
ダリオは反射的に身を伏せ、顔を背けた。
「下がれ!」
命令が飛ぶ。
「全員退避! これ以上入るな!」
そこで残響が一度、白く焼けた。
次に視界が戻った時には、ダリオはすでに建物の外へ出ていた。途中の言葉も、誰がどこから彼を引き出したのかも抜け落ちている。それでも、膝へ両手をつき、身体を折って咳き込む姿だけは焼きついたように鮮明だった。
何度も吐きそうになりながら、空気を求めて肩を上下させる。
「くそ……っ」
顔を上げても、建物へ戻ろうとはしない。
誰かがダリオの肩を叩いた。
「もう終わりだ。下がれ」
「ああ……分かってる」
返事のあと、彼が建物から離れる方向へ歩き始めたことだけは、途切れず残っていた。
一歩。
二歩。
残響が揺れた。
次に聞こえたのは、女の悲鳴だった。
「まだいるんです!」
誰かに押さえられながら、燃えている建物を指している。
「うちの人が……子どもも、中に……!」
ダリオの足が止まった。
煙の向こうで、同僚が名前を呼ぶ。
「ダリオ」
男は振り返らない。
「戻るな!」
「分かってる!」
怒鳴り返した。
苛立ちの混じった声だった。
それでも建物から離れる方向へ、さらに二歩進む。
三歩目が出ない。
煙が風に流れ、その向こうで炎が揺れた。
「ダリオ!」
もう一度呼ばれる。
男は目を閉じ、ひどく嫌そうな顔をした。
「……くそ」
次の瞬間、踵を返す。
「おい!」
同僚が腕を掴もうとした。ダリオはそれを振り払う。
「中にいる場所は!」
泣いていた女性が何か叫んだ。
階。
部屋。
奥側。
そこだけ音が欠け、言葉は煙の中へ崩れた。
「待て、俺も行く!」
別の隊員がダリオを追おうとした。
すぐに現場責任者がその胸元を掴み、力任せに引き戻す。
「行くな! 全員退避だ!」
「でもダリオが――」
「一人戻ったからって、二人目まで戻るな!」
その声の途中で、建物上部から石片が落ちた。
外周で待機していた隊員が肩を庇って倒れ、周囲の者たちがそちらへ駆け寄る。怒号と悲鳴が重なり、誰かが負傷者を下げろと叫んだ。
ダリオは振り返らなかった。
燃えている入口へ走る。
決意を語る言葉も、誰かへ後を託す声もなかった。
ただ、戻った。
そこで残響が大きく跳ねた。
炎の色が潰れ、壁の位置が変わる。
次の瞬間、アスターは建物の中にいた。
どれほど時間が飛んだのか分からない。
煙で視界はほとんど利かず、梁が焼け、天井から細かな破片が落ちている。
「こっちだ!」
ダリオの声がした。
床近くへ身を屈め、数人の住民を出口へ押している。
「立て! 走れ!」
「怖い……!」
「俺だって怖い! 早く行け!」
泣いて動けなくなった男の腕を引き、肩を押す。そのすぐ上で火のついた木片が落ち、ダリオは反射的に顔を覆った。
炎が袖を舐める。
「熱っ……!」
声に余裕などなかった。
それでも住民を前へ押す。
「外まで走れ! 振り返るな!」
場面がまた欠けた。
煙が一度視界を埋め、次に見えた時には、子どもを抱いた女がダリオの腕を掴んでいる。
「あなたも!」
「行け!」
「でも――」
「俺も帰るんだよ!」
ダリオが怒鳴った。
「だから先に行け!」
その声には、死ぬ覚悟を決めた人間の静けさなどなかった。住民と同じように、自分もこの建物から出るつもりで叫んでいた。
その先の残響は、さらにひどく欠けていた。
煙の中で誰かの背中が揺れ、焼けた床の向こうから子どもの泣き声だけが届く。次にはダリオの腕が誰かを出口へ押し、別の瞬間には壁の一部が崩れて視界を塞いだ。順番さえ確かではない断片の中でも、人を外へ押し出している彼の動きだけは何度も残った。
やがて建物全体が、聞いたことのないほど低い音を立てた。
次に見えたダリオの顔から、血の気が引いていた。
「走れ!」
住民たちが出口へ向かう。
ダリオも走った。
同じ方向へ。
残響が激しく歪んだ。
「アスター!」
遠くで名前を呼ばれた。
リシェの声だった。
戻らなければならない。
そう思ったのに、足元の床が崩れる。
視界が火で埋まった。
熱ではなく、記録そのものに引かれるような感覚が足首へ絡みつく。
もっと先がある。
崩落の向こう、死へ近づけば何かが見える。その気配だけが、煙の奥で強く残っている。
けれど、そこへ踏み込めば、自分の輪郭まで一緒に持っていかれる。
「アスター!」
もう一度、名前が届いた。
火の中にはない名前だった。
今の自分を呼ぶ声。
アスターはそちらへ手を伸ばした。
*
リシェの目の前で、アスターの身体が大きく揺れた。
「アスター!」
腕を掴む。
触れた感触が薄い。霧を布越しに掴んだようだった。
彼の目は開いているのに焦点が合わず、唇だけが何かを言おうとして動いている。
「戻ってください」
返事がない。
リシェは救助記録を彼の指から離そうとした。
紙は普通の紙だった。何の異常もない。それなのにアスターの指だけが、そこへ縫い止められたように動かなかった。
「アスター=ヴェイル」
名前を呼ぶ。
今度は肩が動いた。
息を呑むような仕草のあと、アスターの指が記録から離れる。身体が前へ傾き、リシェは両腕で受け止めた。
重さはほとんどない。それでも、支えなければ倒れると思った。
「……っ、げほ」
アスターが咳き込む。
死者なのに、何度も。
胸元を押さえ、肩を震わせている。
「アスター」
「大丈夫……ちょっと、煙が」
「ここにはありません」
「分かってる」
声が掠れていた。
リシェはすぐには手を離さなかった。
通りには、いつもの南鐘街がある。
菓子店から甘い匂いが流れ、荷車が石畳を進み、少し離れたところでは客と店主が値段のことで揉めている。十五年前の煙も炎も、どこにもない。
アスターだけが、まだ火災の中から完全には戻っていなかった。
「座れますか」
「死者を道端に座らせるの?」
「今さら体面を気にするんですか」
「それもそうか」
いつもの軽口に近いが、声には力がなかった。
リシェは路地脇の低い石段まで連れていき、そこへ座らせた。アスターはしばらく前屈みになったまま、両手を見ている。
リシェは急かさなかった。
通りを人が行き交う音をいくつか聞き流し、アスターの肩から強張りが少し抜けるのを待ってから口を開く。
「どこまで見ましたか」
アスターはすぐには答えなかった。
英雄碑のある方向を見る。
「退避命令、聞いてた」
リシェは調査帳を開いた。
「ダリオ本人が?」
「うん。一回、ちゃんと外に出てる」
「その後、戻った」
「自分で」
筆先が紙へ触れる。
「命令を理解した上で?」
「分かってた。止められてたし、自分でも『分かってる』って言ってた」
リシェは書き留める。
事故調査資料には退避命令の発令記録があり、ダリオが一度退避したあと再進入したことも残されている。同僚が追おうとして制止された記録、外周で負傷者が出た記録もあった。
今の残響は、それらと食い違っていない。
「戻った理由は?」
「中に人が残ってるって聞いたから」
アスターは自分の膝へ肘を置いた。
「嫌そうだった」
その言葉に、リシェの筆が止まる。
「嫌そう?」
「すごく」
アスターは小さく息を吐いた。
「戻りたくない顔してた。怖がってたし、外に出た時、立ってるのもしんどそうだった。もう崩れるって、自分で言ってた」
南鐘街のパン屋で聞いた話が、リシェの記憶に浮かぶ。
助けられた男は、ダリオが怖いと言っていたことを覚えていた。
怖くなかったから戻ったのではない、と。
「それでも戻ったんですね」
「うん」
アスターは少し黙った。
「……死ぬつもりじゃなかった」
リシェは彼を見る。
「はい」
「怖かったんだ」
「はい」
「中でもずっと。火が落ちるたびに避けてたし、熱いって言ってたし、人に早く行けって怒鳴ってた」
そこでアスターの口元がわずかに動いた。
笑うというより、残響の中で聞いた言葉を確かめるような表情だった。
「『俺も帰るんだよ』って」
リシェは何も書かなかった。
その言葉は、今すぐ分類を決めて帳面へ収めるより、まず最後まで聞いておきたかった。
「最後まで、帰るつもりだった」
「そうですね」
「英雄って、死ぬ覚悟を決めて火の中に入る人だと思ってた」
リシェは英雄碑のある通りを見る。
「私は、そこまでは考えたことがありませんでした」
「君、そういうところ夢がないね」
「職務中なので」
アスターが少しだけ笑った。
今度はいつもの笑い方に近かった。
それを確認してから、リシェはようやく彼の腕から手を離した。
「でも」
アスターが続ける。
「命令は破ってる」
「はい」
「人を助けても、それは消えないんだね」
リシェは調査帳を開き直した。
そこには、別々の資料と証言から拾った事実がそれぞれの行に残っている。
退避命令の発令。
ダリオ=エイレンの退避。
命令後の再進入。
それを追おうとした隊員の制止。
外周での負傷。
複数住民の救助。
その後の崩落。
「消しません」
リシェはそう言って、筆を動かした。
「どちらも確認します」
アスターは横から調査帳を覗く。
「救ったことも?」
「はい」
「命令を破ったことも?」
「はい」
「怖がってたことも?」
リシェは少し考えた。
「それは、証言として残します」
「細かいなあ」
「記録官なので」
「それ便利だね」
アスターは石段から立ち上がろうとして、わずかによろめいた。
リシェが反射的に腕を支える。
「まだ休んでください」
「大丈夫だって」
「さきほどもそう言いました」
「言ったっけ」
「言いました」
「残響の中だったかも」
「今のあなたの言葉です」
アスターは諦めたように石段へ座り直した。
「記録に残ってる?」
「必要なら」
「やめてください」
少しだけ、南鐘街の日常が二人の間へ戻ってきた。
リシェはその隣で、古い救助記録をもう一度開く。
十五年前の紙には命令違反の事実が残り、街の英雄碑には救助の事実が残っている。どちらか一方を嘘にしなければならない理由は、ここまで調べても見つからなかった。
そして十二年前、誰かはそのうち一方だけを灰へ送った。
リシェは調査帳を閉じると、火災現場を記した頁の端へ、次に確認する名前を書き加えた。
**リア=エイレン。**




