第四節 ― 焼かれた一枚
灰化許可院へ戻った頃には、窓から差し込む光が朝よりわずかに高くなっていた。
第三灰室の扉には新しい封印札が掛けられている。床に現れた灰文字はそのまま保存され、出入りも必要最低限に制限されたらしい。廊下を通る職員たちは扉の前で歩調を緩めるものの、立ち止まりはしない。異常が起きても、ほかの灰壺の検分や灰化申請が止まるわけではなかった。
リシェが案内されたのは、灰室ではなく、その二つ隣にある記録照合室だった。
第三灰室の冷たさに比べれば、人のいる部屋らしい温度がある。壁際には年代別の申請簿が詰まった棚が並び、室内には古い紙と乾いた封蝋、灰墨の匂いが混じっていた。窓辺の細長い机では、セナ=グレイがすでに灰色手袋を外し、代わりに薄い閲覧手袋を着けている。
机の上には、二冊の記録簿と一束の古い書類が開かれていた。
「お疲れさまです」
セナは顔を上げ、リシェの持つ調査帳へ目をやった。
「リア=エイレンさんには会えましたか」
「はい。お父様の職務規則違反については、詳しく知らされていませんでした。退避命令が出ていたことも、ご存じなかったようです」
「そうですか」
セナはそれ以上、リアについて何かを評さなかった。ただ、開いていた書類を一枚だけ手前へ寄せる。
「こちらが問題の灰化申請です」
アスターもリシェの肩越しから覗き込もうとしたが、古い紙面の細かな字までは読みづらいらしく、すぐ反対側へ回った。
「僕、こういう役所の古文書、死んでから急に読む機会が増えた気がする」
「死んでからの人生が充実していますね」
「そこ、記録官が肯定していいところ?」
「静かにしてください」
「はい」
返事だけは素直だった。
リシェは椅子を引き、セナの向かいへ腰を下ろした。
申請書は十二年前のものだった。
紙の縁は黄ばんでいるが、灰化許可院で保管されていたため保存状態は悪くない。上部には処理番号、対象死者名、対象記録、申請者、申請理由が順番に並び、何人もの職員が確認したらしい小さな印が余白に重なっている。
対象死者名。
**ダリオ=エイレン。**
対象記録。
**南鐘街大火における職務規則違反記録。**
申請者欄には、別の名前があった。
「ベルグ=ラウス」
リシェが読み上げる。
「当時の都市災害記録官です」
セナが隣の帳面を開いた。
同じ名前が、十五年前の火災調査に関する記録にも残っている。火災後の被害整理、救助活動の照合、死亡者と負傷者の記録。そのいくつかに、ベルグ=ラウスの署名があった。
「遺族からの申請ではないんですね」
「はい。行政側から出されています」
「珍しいですか」
「それ自体はありません。記録の性質によっては、担当官が灰化の必要性を申し立てることもあります」
セナは申請理由の欄を指した。
十二年前の細い字で、こう記されている。
**死者の名誉を不当に拘束する罪名記録の清算。**
リシェは一度読み、それからもう一度読んだ。
「罪名記録」
「私も、そこが気になりました」
セナは脇に置いてあった別の薄い紙束を開く。
「こちらが灰化前に取られた原資料の写しです。原本は事故調査記録側に保管されています」
上には南鐘街大火の日付、その日の救助隊の配置、現場責任者、退避命令の発令時刻が並び、その後へ各隊員の行動が簡潔に記されている。
リシェは行を追った。
構造崩壊の危険増大により、現場責任者が全隊員へ退避を指示。ダリオ=エイレンは一度、退避区域の外まで離脱している。
その後、残留住民の存在が判明。制止を受けながらダリオが再進入し、それを追おうとした隊員一名が現場責任者に止められていた。さらに救助活動中の崩落により、外周で待機していた隊員にも負傷者が出ている。
追加の死者はなかった。
リシェはそこで紙から目を上げた。
「命令そのものには、理由があったんですね」
「はい」
セナは別紙の崩落記録を重ねた。
建物の支持部が火災によって急速に損傷し、二次崩落の危険が高まったために出された退避命令だった。形式上の命令でも、後から違反を成立させるために付されたものでもない。
「結果として住民は救助されています。ただ、再進入が安全な判断だったという意味ではありません」
リシェはもう一度資料へ目を落とした。
退避した場所から再び中へ戻ったダリオを、同僚が追おうとした。その一人を現場責任者が止めている。崩落では外側にいた隊員まで負傷していた。
建物はすでに、人を中へ戻してよい状態ではなかった。
「命令が出ていたことも、違反があったことも、記録に残っている」
「はい」
「誤記の疑いは?」
「この資料だけを見る限り、訂正記録はありません」
セナはさらに退避命令書の写しを示した。
「同時刻に複数の隊員へ出された命令です。ダリオ=エイレンだけを対象にした処分でもありません」
リシェは申請書へ視線を戻した。
死者の名誉を不当に拘束する罪名記録。
そこだけ読めば、ダリオへ事実無根の罪が押しつけられ、それを灰化したように見える。
けれど原資料にあるのは、危険を理由に出された退避命令と、その命令後の再進入だった。
「冤罪ではない」
「現時点では、そう判断します」
「悪意のある噂が公的記録へ混ざったわけでもない」
「その痕跡もありません」
セナの指が、原資料の端をゆっくり撫でた。
紙へ触れる動作は丁寧だった。灰壺を扱う時とほとんど変わらない。
「死者本人が、この記録を残さないでほしいと希望していた記録はありますか」
リシェが訊く。
「確認しましたが、ありません。少なくとも灰化申請に添付された資料には、本人の拒否を示す証言も終名記録も付いていません」
部屋の中が少し静かになった。
廊下の向こうでは、職員が書類棚を閉じる音がする。窓の外を通った葬送庁の配達車から、荷台の金具が一度だけ乾いた音を立てた。
セナは申請書を見つめたまま、灰除け眼鏡を外した目を細める。
「これは、罪名ではありません」
声はいつもと同じだった。
低く、落ち着いている。
それでもリシェには、朝、第三灰室で異常を説明していた時とは違うものが混じっているように聞こえた。
「事実記録ですか」
「少なくとも、申請時点ではそう扱うべきでした」
セナは原資料を指先で示した。
「命令に従わなかったことが、その人の人格全体を表すわけではありません。ですが、実際に命令が出て、実際にそれへ反したのであれば、その行動を記した資料まで罪名と同じものにはできません」
リシェは南鐘街の英雄碑を思い出した。
**炎中へ戻り、多くの命を救った者。**
碑文に刻まれた再進入と、今ここにある職務記録の再進入は、同じ行動を指している。
火の中へ戻ったことで人は助かった。
同じ行動によって、退避命令には反した。
さらに、それを見た同僚も動こうとし、崩落の危険は外側にいた者へまで及んでいる。
どれか一つだけを選べば、残りが消えるわけではなかった。
「灰化は、事実を消すための手続きではないんですよね」
確認するようにリシェが言うと、セナは頷いた。
「はい。灰化するのは、死者や生者を不当に縛り続ける記録です」
セナは申請書の上へ手を置いた。
「冤罪の罪名。悪意によって残された記録。本人の名と切り離せなくなった不当な呼称。閉じなければ死者を呼び戻し続ける記録。そういったものを、役目の終わった記録として灰へ還します」
「なかったことにはしない」
「できませんし、してはいけません」
返答はすぐだった。
セナは一度言葉を切ってから、原資料を申請書の横へ並べる。同じ机の上に、事故当日の行動を記した紙と、それを《罪名記録》として終わらせた紙が並んだ。
「都合の悪い事実を焼いて、都合のいい記録だけを残すための制度ではありません」
声は荒れていない。
けれど、今度はリシェにもはっきり分かった。
セナは怒っている。
誰か個人へではない。まだ誰が何を考えてこの申請を通したのか分かっていない以上、怒りの向け先まで勝手に決めてはいない。
ただ、自分の扱う仕事が、本来とは違う意味で使われた可能性を前にして、静かに腹を立てていた。
「申請したベルグ=ラウスさんに、話を聞く必要がありますね」
「そう思います」
リシェは調査帳へ名前を書き込む。
ベルグ=ラウス。
元・都市災害記録官。
十二年前、ダリオ=エイレンの職務規則違反記録を罪名記録として灰化申請。
書き終えたところで、アスターが机の端へ身を寄せた。
「ねえ、これ何?」
彼が指しているのは申請書の余白だった。
いくつもの照合印が重なり、退色した灰墨の中に、小さな筆記が一つだけ残っている。
「触らないでください」
「触ってないよ。見てるだけ」
「近いです」
「厳しいな」
リシェも身を寄せた。
古い書式の略記なのか、文字はかなり潰れている。最初の一文字は大文字のEに見え、その後に姓らしき綴りが続いている。
「……ノク、レイン?」
「違います」
セナが言った。
申請書を自分の方へ少し寄せ、退色した印を確認する。
「ノクレインです」
「人名ですか」
「はい」
セナの指が、薄れた照合印の下へ止まった。
「エルヴィス=ノクレイン」
リシェには覚えのない名前だった。
「誰ですか」
「昔の死者名記録官です」
「この灰化申請を許可した人ですか」
「いいえ」
セナはすぐに否定した。
「これは承認印ではありません。照合印です。当時、この記録の確認に関わったことまでは分かりますが、申請そのものを認めた人物だとは断定できません」
リシェはその違いを調査帳へ書き留めた。
その時、廊下から靴音が近づいてきた。
「グレイ、頼まれてた古い書式――」
扉を開けたルゼが、細い帳面を片手に入ってくる。
外套は相変わらず片方の肩からずれ、髪も朝からほとんど変わっていない。仕事へ戻ったはずなのに、疲れた様子が増えただけに見える。
「持ってきたぞ。受付所の保管庫に十二年前の同型が――」
そこで言葉が止まった。
セナの手元にある申請書を見たからではない。
名前を聞いたのだと、リシェには分かった。
ほんの一瞬だけ、ルゼの目から眠たげな色が消える。
「……ずいぶん古い名前が出てきたな」
声も、少し低かった。
リシェは振り返る。
「知っているんですか」
「有名人だった」
ルゼは持ってきた帳面を机へ置いた。
雑に見える動作なのに、古い資料の角にはぶつけない。そのまま手を離し、申請書へ視線を落とす。
「だった?」
リシェが訊き返すと、ルゼは顔を上げた。
いつもの気だるそうな表情に戻っている。
「仕事しろ、新人」
「今、その仕事をしているんですが」
「じゃあ余計なとこまで掘るな」
「調査中の記録に関係する人物です」
「今は申請書を調べてんだろ」
「ですから――」
「リシェ」
アスターが横から声を挟んだ。
珍しく、からかう調子ではなかった。
リシェは一度、口を閉じた。
ルゼは話さないと決めている。少なくとも、ここで押せば何かが出てくる顔ではなかった。
「分かりました」
リシェは引いた。
「今は訊きません」
「そうしろ」
「今は、です」
「おまえ、そういうところだけ妙にしつこくなったな」
ルゼが嫌そうに眉を寄せる。
「調査官なので」
「記録官だろ」
「どちらも仕事です」
「めんどくせえ育ち方してる」
吐き捨てるように言って、ルゼは空いた椅子へ腰を下ろした。
セナは二人のやり取りには加わらず、持ち込まれた古い書式帳を開く。何頁かめくったところで、十二年前の申請様式と照合印の位置を確かめた。
「やはり、ノクレインの印は照合欄です。承認欄ではありません」
「では、現時点で分かるのは、灰化処理の前段階に関わったことだけですね」
「はい」
リシェは書き留める。
勝手に意味を足さない。
名前があった。
記録に関わっていた。
今、確定しているのはそれだけだ。
その横で、セナはもう一度、二枚の紙を見比べていた。
事故調査資料。
灰化申請書。
事実として記された職務命令違反が、三年後には《死者の名誉を不当に拘束する罪名記録》と呼ばれている。
十二年前、誰かがその間に線を引いた。
何のために引いたのかは、まだ書かれていない。
「ベルグ=ラウスさんは、現在もネム=レクスに?」
リシェが尋ねる。
セナは人事照合の付記を確認した。
「退職済みです。住所記録は残っています」
「会えそうですか」
「少なくとも、死亡記録はありません」
アスターが小さく笑う。
「この街でその確認から入るの、やっぱり独特だよね」
リシェも調査帳を閉じた。
「では、会って確かめます」
なぜ、事実記録を罪名として灰にしたのか。
誰を守ろうとしたのか。
そして、その判断を下す前に、ダリオ=エイレンが実際に何をしたのか。
机の上には、まだ答えの書かれていない二枚の紙が残っている。
リシェはそのうち、焼かれなかった方の事故調査資料へもう一度目を落とした。人を救ったという結果だけでも、命令に背いたという一行だけでも足りない。その間で何が起きていたのかを、次は確かめなければならなかった。




