第三節 ― 英雄の娘
リア=エイレンの仕立て工房は、南鐘街から二本ほど通りを外れた場所にあった。
商店街の賑わいはそこまで届かず、黒い石畳の両側には住居と小さな仕事場が交互に並んでいる。窓辺に布を干している家があり、路地の奥では桶を洗う水音がしていた。葬送灯の柱には昼のため火がなく、その下を買い物帰りらしい女性が野菜の籠を抱えて通り過ぎていく。
工房の扉には、小さな木札が下がっていた。
《エイレン仕立店》
文字の横に、糸巻きと針の簡素な意匠が彫られている。
「英雄の娘のお店にしては普通だね」
隣でアスターが言った。
「英雄の娘だからといって、店を英雄らしくする必要はありません」
「英雄らしい仕立て屋って何?」
「あなたが言い始めたんでしょう」
「そうだった」
リシェは扉を叩いた。
中から「はい」と女性の声が返り、少しして足音が近づいてくる。開いた扉の向こうには、袖を肘までまくった若い女性が立っていた。
二十代半ばほど。髪は仕事の邪魔にならないよう後ろでまとめられ、首には採寸用の布尺が掛かっている。指先には針仕事の細かな跡があり、右の人差し指には革の指貫が嵌められていた。
「いらっしゃいませ。お直しですか?」
柔らかな声だった。
リシェは身分札を見せる。
「死者名記録庁のリシェ=ベルレインです。リア=エイレンさんでいらっしゃいますか」
「はい、そうです」
リアは身分札を確認し、すぐに小さく笑った。
「父のことですか?」
先に言われ、リシェの方がわずかに間を置いた。
「そうです」
「やっぱり」
リアは困ったようでも、警戒したようでもなかった。むしろ毎年同じ客を迎える店主のような顔で、扉を大きく開ける。
「また記念式の確認ですか? どうぞ。散らかっていますけど」
工房へ入ると、布の匂いがした。
壁際には色ごとに巻かれた布地が立てかけられ、低い棚には糸巻きが並んでいる。中央の大きな作業台では、途中まで縫われた濃紺の上着が広げられていた。窓辺には足踏み式の縫製台があり、その横の籠には端布が山になっている。
散らかっているというほどではない。ただ物が多く、人が働いている場所らしい整い方だった。
「こちらへどうぞ。今、お茶を――」
「お気遣いなく。少しお話を伺うだけですので」
「そうですか? 記録庁の方って皆さんそう言いますけど、話が長くなること多いんですよ」
リアが笑う。
その言い方にも慣れがあった。
十五年間、父について聞かれてきたのだろう。記録官だけではない。式典の担当者、新聞の書き手、救助された人とその家族、街の記念事業に関わる者。ダリオ=エイレンという名前が呼ばれるたび、その娘にも誰かが話を聞きに来た。
リシェは勧められた椅子に腰を下ろした。
アスターは作業台の端へ寄りかかった。座っているのか、立っているのか、本人にもあまり区別はなさそうだった。
リアは縫いかけの上着を手元へ引き寄せる。
「手を動かしながらでも大丈夫ですか?」
「はい」
「今日中に袖まで終わらせないといけなくて」
針が布へ入る。
細かな縫い目が、同じ幅で続いていく。
「南鐘街の記念碑を拝見しました」
「ああ、きれいになっていたでしょう」
「最近、改修されたそうですね」
「十五年ですから。市の方がずいぶん張り切ってます」
リアは針を抜き、糸を軽く引いた。
「今年は昔の救助記録も新しく刷り直すとかで、先月も確認の方が来ました。父の生年月日と、救助隊に入った年と、家族構成と……毎回だいたい同じことを訊かれます」
「ご負担ではありませんか」
「もう慣れました」
答えは早かった。嫌味もなかった。
リアは糸のたるみを指先で直しながら続ける。
「父のことを覚えていてくれる人がいるのは、ありがたいです。助けてもらったって言って、今でも花を持ってきてくれる方もいますし」
南鐘街のパン屋の老人を思い出す。
兄の代わりに、毎年パンを置いていると言っていた。
「お父様は、どのような方だったんですか」
リシェが尋ねると、リアの口元に自然と微笑みが浮かんだ。
「責任感の強い人でした」
針が布を通る。
「仕事は真面目で、困っている人を放っておけない人でした。救助隊の仕事も好きだったと思います。……少なくとも、辞めたいとは一度も言っていませんでした」
「南鐘街で、多くの方を救ったと伺いました」
「はい」
リアは頷いた。
「誇りに思っています」
迷いのない言葉だった。
何度も口にしてきたから軽くなったのではない。むしろ、十五年間繰り返してなお変わらない部分だけが、きれいに残っているように聞こえた。
リシェは調査帳へ筆を走らせた。
**父の功績を肯定。現在も救助された住民との交流あり。**
書き終えてから顔を上げる。
「立派なお父様だったんですね」
針先が止まった。
本当に一瞬だった。布へ刺さる直前で、リアの指だけが動きを失う。
リシェが何か言い足すより早く、リアは再び針を通した。
「そうですね」
同じ笑顔だった。
けれど、さきほどまでより少しだけ整いすぎて見えた。
リシェはそのことを帳面には書かなかった。
代わりに視線を工房の中へ巡らせる。
壁には仕事用の型紙と、注文の覚え書きがいくつか留められている。窓辺には小さな鉢植え。棚の上には古い裁縫箱と、数枚の写真が立ててあった。
南鐘街の英雄碑を写したものはない。
記念式典の写真もない。
もっと古い、家族の写真ばかりだった。
アスターが先に気づいたらしく、棚の前へ移動した。
「これ、ダリオ?」
当然、リアには聞こえない。
リシェも立ち上がり、写真へ近づいた。
「拝見しても?」
「どうぞ」
一枚目には、椅子に座った男が写っていた。
髪が大きく跳ねている。救助隊の制服ではなく、首元の緩い普段着で、眠そうな顔のまま片手に杯を持っていた。隣には女性が立っており、どう見ても何か小言を言っている途中だった。
二枚目では、まだ幼いリアを肩車している。
娘は楽しそうに両腕を上げているが、ダリオ本人は少し苦しそうな顔をしていた。写真の端には、先ほどと同じ女性が呆れたようにこちらを見ている。
三枚目は、食卓らしい。
ダリオの前だけ何かが倒れており、妻と思われる女性が片手を額に当てている。幼いリアは大笑いしていた。
南鐘街の石碑に刻まれていた男とは、ずいぶん印象が違う。
炎中へ戻り、多くの命を救った者。
その言葉から想像する顔ではない。
アスターが写真のすぐ横から覗き込み、首を傾げた。
「思ったより普通」
ほとんど同じタイミングで、リアが作業台の向こうから笑った。
「すごく普通でしたよ」
今までの笑い方とは違っていた。
声が少しだけ大きい。
リシェが振り返ると、リアは針を持ったまま写真を見ていた。
「その一枚、ひどいでしょう」
「髪ですか」
「はい。母が何度直しても、朝はああなってました」
リアは自分の頭の上で手を動かし、ダリオの跳ねた髪を真似る。
「本人は『仕事に行けば帽子をかぶるからいい』って。それで母が怒るんです。『帽子を脱いだらどうするの』って」
「正論ですね」
リシェが言う。
「ですよね」
リアがまた笑った。
「肩車の写真も、私がやれって言ったんです。父、腰が痛いって嫌がってたのに」
写真の中のダリオは、英雄らしくはなかった。
娘にせがまれて断れず、肩車をして、腰が痛そうな顔をしている父親だった。
「こっちは何があったんですか」
リシェが食卓の写真を示すと、リアは少し身を乗り出した。
「ああ、それは父が料理した日です」
「料理を?」
「はい。母の誕生日だったかな。たまには自分が作るって言い出して」
リアの目元が柔らかくなる。
「結果、味は普通でしたけど、台所が大変なことになりました」
アスターが写真を眺めたまま言う。
「救助隊なのに台所は救えなかったんだ」
リシェは口元が動きそうになるのを抑えた。
リアがそれに気づく。
「何か?」
「いえ」
「今、ちょっと笑いませんでした?」
「気のせいです」
「記録官さんって、もっと嘘が上手なのかと思ってました」
「嘘をつく職業ではありません」
「そうでした」
リアは楽しそうに笑いながら、再び作業台へ戻った。
針仕事が再開する。
今度の沈黙は、先ほどまでより少しだけ柔らかかった。
リシェは写真から目を離し、元の椅子へ座った。
そろそろ、聞かなければならない。
調査帳を開く。
「リアさん。少し、記念式とは別のことを伺ってもよろしいでしょうか」
針を動かしていた手が、わずかにゆっくりになる。
「はい」
「十五年前の南鐘街大火についてです」
「父が亡くなった火事ですね」
「はい」
リシェは言葉を選んだ。
第三灰室で起きた異常を、すべて伝える必要はまだない。灰が文字を書いた、と先に話せば、相手を余計に混乱させるだけだ。
「当時、お父様の職務記録の一部が、後年になって灰化されています」
リアの眉が寄った。
「父の記録が?」
「はい。亡くなられた三年後です」
「……知りませんでした」
針が止まる。
先ほどの《立派なお父様》という言葉に反応した時とは違う。今度は純粋に、知らない情報を受け取った顔だった。
リシェは続ける。
「対象になったのは、火災当日の職務規則に関する記録です」
「規則?」
「退避命令違反、と記載されていました」
リアは何も言わなかった。
工房の外を荷車が通り、車輪の音が窓越しに低く響いた。軒先で誰かが隣家へ声を掛け、遠くから返事が飛んでくる。
日常の音だけが、しばらく部屋を満たした。
「父が、命令を破ったんですか」
ようやくリアが尋ねた。
驚きはある。
けれど、声を荒らげるほどではない。
「その可能性があります。ただ、現時点では当時の原資料をすべて確認できていません」
リシェは断定しなかった。
「火災の記録では、お父様が一度建物の外へ出たあと、再び中へ戻ったことは確認されています」
「それは知っています」
「退避命令が出た後だったことは?」
リアは少し考えた。
「……いいえ」
首を横に振る。
「聞いたことがありません」
「記念式などでも?」
「ありません。父が中に人が残っているのを知って戻った、という話だけです」
「当時、お母様には詳しい説明があった可能性はありますか」
「あったかもしれません」
リアは針を持ったまま、少しだけ視線を落とした。
「私は十一歳でしたから。大人の人たちが何か話していたことは覚えています。でも、母がどこまで聞かされていたのかまでは分かりません」
「そうですか」
リシェは、それ以上家族の記憶を推測で埋めなかった。十一歳の子どもに事故調査の詳細が伝わっていなかったことだけを、調査帳へ記す。
リアはしばらくその筆先を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「その記録が、どうして今?」
当然の質問だった。
リシェは調査帳の上へ手を置く。
「現在、確認しています」
「灰化されたってことは、消されたんですよね」
「正確には、記録の効力を終わらせる処理です」
リアがこちらを見る。
リシェは必要な範囲だけ言葉を続けた。
「灰化されたからといって、その出来事が起きなかったことになるわけではありません。ただ、お父様の記録がなぜ灰化対象になったのか、今の資料だけでは判断できません」
「命令違反だから、消したわけじゃないんですか」
「そこも含めて調べます」
リアはしばらく黙った。
先ほどまで父親について淀みなく答えていた女性が、初めて答えを持っていない顔をしている。
やがて棚の写真へ目を向けた。
寝癖のまま杯を持つ父親。
娘を肩車して顔をしかめる父親。
食卓を散らかして妻に怒られる父親。
そこには、退避命令も、救助功績も、英雄碑の言葉も写っていない。
「すみません」
リアが言った。
「私、本当に知らないです」
「謝る必要はありません」
「父のことなのに」
その言葉だけが、少し小さかった。
リシェはすぐには返さなかった。
自分の親だから何もかも知っていなければならない、とは思わない。死者名記録庁で働いていれば、家族ですら知らなかった顔を死後の記録から見つけることなど珍しくなかった。
それを今、制度の説明として言う必要もなかった。
「知らないことを確認するのも、調査です」
リシェはそう言って、帳面へ筆を置いた。
「分かったことがあれば、改めてお伝えします」
リアは顔を上げる。
「私にもですか?」
「ご家族に関わる記録ですから」
少しだけ迷ったあと、リアが頷いた。
「お願いします」
それから、いつもの柔らかな笑顔に戻る。
「記念式の確認より、少し大ごとそうですね」
「そうならないことを願っています」
「記録庁の方がそれを言うと、もう大ごとの気がします」
リシェは否定しようとして、やめた。
アスターが隣で小さく笑っている。
工房を出る前に、リシェはもう一度、棚の家族写真を見た。
南鐘街では、ダリオ=エイレンは炎の中へ戻った男として記憶されていた。
この部屋には、寝癖を直さず、娘を肩に乗せ、妻に叱られている男が残っている。
どちらかが偽物というわけではない。
ただ、第三灰室で灰になっていた一行だけを、リアは知らなかった。
リシェは扉の前で一礼した。
「お仕事中にありがとうございました」
「いえ。また何かあれば」
「はい」
「今度はお直しでも来てください。記録官さんの袖、少し長いですよ」
言われて、リシェは自分の袖を見る。
「規定品です」
「規定品でも長いものは長いです」
返す言葉が見つからなかった。
外へ出ると、アスターが堪えきれないように笑う。
「負けたね」
「何がですか」
「規定」
「負けていません」
「直してもらえば?」
「仕事へ戻ります」
「逃げた」
リシェは歩調を少しだけ速めた。
背後で工房の扉が閉まり、ほどなくして、また針仕事の静かな音が始まった。
次に確かめるべきものは、十二年前にその一行を灰へ送った書類だった。




