第二節 ― 街が覚えている英雄
南鐘街へ入る頃には、朝の霧はかなり薄くなっていた。
黒い石畳はまだ湿っていて、低い軒先から落ちた雫がところどころに小さな染みを作っている。その上を子どもたちが追いかけ合いながら駆け抜け、荷車を押していた青果商が「走るなら端を走れ」と怒鳴った。怒鳴られた子どもは一応「はーい」と返したものの、速度はほとんど落ちなかった。
「死者の街って、もう少し静かなものだと思ってたんだけどな」
アスターが通りの端へ身を避けながら言った。実際には荷車とぶつかる心配などないはずなのに、人の流れを避ける癖は抜けないらしい。
「静かですよ」
「今、魚屋と向かいの店が値段で揉めてるけど」
「日常会話です」
「『その値段なら魚じゃなくて石を買う』って聞こえたよ」
「価格交渉です」
「ネム=レクスの静けさ、だいぶ懐が深いね」
リシェは答えず、手元の調査帳へ視線を落とした。
第三灰室で確認した事項は、移動する前にすべて書き留めてある。ダリオ=エイレン。十五年前に死亡。職務規則違反記録は、その三年後に灰化。以後十二年間、灰壺にも灰室にも異常なし。そして今朝になって、灰が床へ流れ出した形跡もないまま、《退避命令違反》という文字だけが現れた。
なぜ今なのか。
まず確かめるべきは、十五年前に死んだ人間の記録が、最近になって何か動いていないかということだった。
南鐘街は、その答えを探す場所としては少し拍子抜けするほど普通の街だった。
大火災の跡地と聞いて、リシェは焼け残った壁や、古い区画がそのまま保存されている場所を無意識に想像していた。実際には、通りの両側には小さな商店が並び、窓には焼き菓子、布地、乾燥香草、靴紐、墓前用の白花まで雑多に置かれている。建物の石材も古いものと新しいものが入り交じり、火災の傷跡らしきものは、意識して探さなければほとんど見つからなかった。
十五年という時間は、瓦礫を片づけるには十分だったらしい。
人が住み、店を開き、子どもが生まれれば、街は事件現場のままではいられない。
「本当にここ?」
アスターが通りを見回す。
「記録では、この一帯です」
「ずいぶん元気だね」
「火災があったからといって、十五年間商売をやめる理由はありません」
「そうなんだけどさ」
アスターは、軒先へ洗濯物を干している二階の窓を見上げた。下では店主が通行人へ今日の値札を見せ、その横で客が露骨に嫌な顔をしている。
「いいね、こういうの」
その声だけが、少し柔らかかった。
リシェは隣を見たが、アスターはもう先へ歩き始めている。
通りを半分ほど進んだところで、小さな空間が現れた。
店と店の間がわずかに開け、石畳の端に腰ほどの高さの白い石碑が立っている。
大きな像はない。剣を掲げた英雄の彫刻も、炎を模した装飾もない。磨かれた石板の上部に小さな救助隊章が刻まれ、その下に数行の文字が彫られているだけだった。
足元には新しい花が置かれていた。
そのすぐ横には、誰かが置いたらしい紙袋がある。中から少し硬くなった焼き菓子が覗いていた。供物にしては妙に生活臭がある。
リシェは碑の前で足を止めた。
刻まれた文字を読む。
**ダリオ=エイレン**
**炎中へ戻り、多くの命を救った者**
その下に、南鐘街大火の年と、短い追悼文が続いていた。
第三灰室の床に浮かんでいた文字とは、まるで別人について書かれた文章のようだった。
リシェは碑の表面へ指を近づけたが、触れなかった。今回は終名聴取のために来たのではない。まず、生者がこの男をどう覚えているのかを見る必要がある。
「英雄だ」
アスターが碑を覗き込む。
「そう記録されています」
「灰の方には命令違反って書いてあったよね」
「はい」
「両方同じ人?」
リシェは少しだけ考えた。
「現時点では、同一人物です」
「その言い方、記録官っぽいなあ」
「記録官ですから」
「知ってる」
背後で、店の扉についた鈴が鳴った。
「その碑を調べてるのかい」
振り返ると、パンを並べた店先から老人が顔を出していた。
白い前掛けには小麦粉がつき、片手には焼きたてらしい丸いパンを載せた木板を持っている。店内からは温かい麦と焦げた皮の匂いが流れてきた。
リシェは身分札を見せる。
「死者名記録庁です。ダリオ=エイレンについて、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」
「記録庁?」
老人は一度だけ目を丸くし、それから碑を見た。
「また式典の関係か?」
「いえ。別件です」
「なら立ち話でいいか。今、中を空けると焦げる」
言いながら、老人は店内へ向かって「そっちの窯、あと半分だぞ」と声を飛ばした。奥から若い声で返事が来る。
リシェは調査帳を開いた。
「ダリオ=エイレンをご存じだったんですか」
「本人を知ってたってほどじゃない。俺の兄貴が助けられた」
老人は木板を持ち直した。
「火が回った建物に取り残されてな。兄貴の話じゃ、もう救助隊も下がり始めてた頃だったらしい。それを、あの人が連れて出てくれた」
「ダリオさんが?」
「ああ。兄貴だけじゃない。何人かいたはずだ」
老人の口調に誇張はなかった。そのことが、かえって印象に残る。
「兄貴は七年前に死んだよ。病気でな。でも生きてる間は、毎年ここへパンを置いてた。『命を拾ってもらったんだから、パンくらい返さないと割に合わん』って」
老人は碑の足元にある紙袋を顎で示した。
「今は俺が代わりに置いてる」
リシェは紙袋を見る。英雄への供物というより、助けてもらった相手へ毎年パンを持ってくる習慣が、そのまま残っているように見えた。
老人は紙袋へ目を落としかけ、何か思い出したように鼻を鳴らした。
「そういや兄貴は、あの人を立派な英雄みたいに言われると、ちょっと変な顔してたな」
「なぜですか」
「助けてもらった時、本人がずっと怖い怖いって言ってたらしい。『もう入りたくねえ』とか、『こんなところで死ねるか』とか。兄貴はそれを笑いながら話してたよ」
老人はそこで一度、英雄碑へ目を向けた。磨かれた白石に刻まれた名前を眺め、目尻を少しだけ下げる。
「怖くなかったから戻ったんじゃない。怖いのに戻ったんだってな。だから兄貴は、余計にあの人へ頭が上がらなかったらしい」
リシェはその言葉を、先ほどの救助証言とは分けて調査帳へ残した。
**救助された兄の証言――本人は火を恐れていた。帰還を望んでいた様子。**
まだ、命令違反とのつながりは書かない。それを結びつけられる材料は、今のところ何もなかった。
「ダリオさんについて、そのほかには何か聞いていますか」
「そのほかって言われてもなあ……救助隊の人だろ。火の中へ戻った人だ」
「日頃の人柄などは?」
老人は考えるように眉を寄せた。
「知らん」
答えは早かった。
「会ったことないからな」
それから、少し笑う。
「でも兄貴は感謝してた。それで十分じゃないか?」
リシェは筆を止めずに頷いた。
「ありがとうございます」
「何かあったのか?」
「まだ確認中です」
「そうか。じゃあ分かったら教えてくれ」
「調査内容によります」
「役所の人間はそう言うよな」
老人は不満そうな顔をしたが、本気で怒ってはいなかった。ちょうど店の奥から「焦げます!」と声が飛び、顔色を変える。
「おっと」
「どうぞ」
「英雄より今はパンだ」
老人が慌てて店へ戻っていく。
アスターがその背中を見送りながら言った。
「優先順位が健康的だね」
「生者ですから」
「それ、便利な説明に使ってない?」
「使っていません」
リシェは調査帳を閉じる前に、老人の証言の横へもう一つ短く書き添えた。
**本人との直接面識なし。**
聞いたことと、聞いていないことを分ける。
いつもの仕事だった。
碑の反対側では、花屋が軒先に鉢を並べていた。
白い喪花ばかりではない。黄色や薄紫の小花も混じっていて、葬送都市の花屋というより、普通の街角の花屋に見える。リシェが声を掛けると、店主の女性は花鋏を動かしたまま顔を上げた。
「ダリオさん? そりゃ知ってるよ。名前くらいはね」
「ご本人とは?」
「会ったことないよ。私がここへ店を出したのは火事のあとだから」
花屋は迷いなく答え、切った茎を水桶へ放る。
「でも娘さんなら毎年見る」
リシェの筆先が止まった。
「娘さんですか」
「そう。式典に来るの。ずっと欠かしてないんじゃないかな」
「お名前は分かりますか」
「リア=エイレンさん。仕立ての仕事をしてるって聞いたよ」
リシェは名前を書き留めた。
「式典では、何かお話を?」
「毎年ね。長くは喋らないけど」
花屋は少し考え、それから鋏を止めた。
「お父さんを誇りに思っています、って。立派な娘さんだよ」
その言葉に、リシェはすぐ返事をしなかった。
立派な父。
立派な娘。
十五年間、同じ言葉が繰り返されてきたのだろう。
それ自体に嘘があるとは限らない。
「今年も式典が?」
「もちろん。今年は十五年だから、いつもより大きいって聞いてる。碑もきれいにしたでしょう」
店主が花鋏の先で石碑を示した。
言われてみれば、碑の表面は周囲の石より明るい。文字の溝にも新しい補修が入り、古い石の角だけを残して全体が磨き直されている。
「改修されたのは最近ですか」
「少し前だよ。役所の人が何日か来てた。記録も作り直すとか何とか」
「記録を?」
「昔の救助記録が傷んでるから、十五年の節目に合わせて新しくするって。ほら、あそこ」
花屋が通りの掲示板を指した。
リシェは礼を言い、そちらへ向かう。
掲示板には市場の営業許可、迷い猫の知らせ、仕立て屋の求人、その隣に火災追悼式典の案内が貼られていた。新しい紙で刷られている。
下部には小さく、記念碑改修と救助顕彰記録の再整理について書かれていた。
十五年。
記録の再整理。
再発行。
リシェは紙面へ目を近づける。
ダリオ=エイレンの名前も、そこにあった。
「これか」
アスターが隣から覗き込む。
「可能性はあります」
「今まで静かだったものが、名前をいっぱい呼ばれたから起きた?」
「まだ分かりません」
「記録官殿、最近その返し多くない?」
「分からないものを分かったと言うよりはいいです」
「それはそう」
アスターは素直に引き下がった。
その時、足元を小さな影が横切った。
「お姉ちゃん、それダリオのやつ?」
十歳にもならない少年が、掲示板とリシェを交互に見ている。
少し離れたところでは、同じ年頃の子どもたちが何人か待っていた。どうやら遊びの途中らしい。
「知っているんですか」
「知ってるよ」
少年は得意そうに胸を張った。
「火の中に三回入った人でしょ」
リシェは一度瞬きをした。
「記録では二回です」
「そこ訂正するんだ」
アスターが横から言った。
少年には聞こえていない。
「三回だよ。だって、みんな言ってるもん」
「誰がですか」
「みんな」
非常に強い情報源だった。
「二回目に出てきたあと、また子どもの声がして、三回目に入ったんだよ。それで屋根が落ちたの」
リシェは調査帳を開き直した。
「公的な救助記録では、建物への進入は二回です」
「でも三回の方がすごいじゃん」
「回数が増えても、救助した事実そのものは変わりません」
少年はしばらく考え、納得したのかしていないのか分からない顔をした。
「じゃあ二回ですごかった人?」
「はい」
「そっか」
それで話は終わったらしい。
少年は仲間のところへ戻り、今聞いたばかりの訂正を得意そうに伝え始めた。しかし少し離れただけで、「二回だった!」という声のあとに、「でも三回って聞いた」と反論が返ってくる。
アスターが肩を揺らした。
「死んで十五年経つと三回になるんだ」
「記録では二回です」
「いや、そこはもう分かったよ」
「大事な点です」
「僕が言いたいのは、そういう話じゃなくて」
アスターは子どもたちを見る。
「増えるんだね。人の話って」
リシェも彼らへ視線を向けた。
火の中へ戻り、人を助けた。その出来事が十五年語られるうちに、二回が三回になった。
悪意があるわけではない。子どもたちが楽しそうに語る三回目の突入も、この街がダリオを好意的に覚えてきた時間の中で増えたものなのだろう。
リシェは英雄碑へ戻った。
白い石は朝より明るい日差しを受け、磨き直された文字の縁に薄い影を落としている。パン屋の紙袋があり、花屋から運ばれたらしい新しい花があり、そのすぐ脇を買い物袋を抱えた女性が通り過ぎる。
誰も碑の前で長く立ち止まらない。
軽く頭を下げる者がいれば、花を置く者もいる。何もせず、そのまま通り過ぎていく者もいた。それらすべてが、この街で十五年間積み重なってきた時間だった。
「悪い人には見えないね」
アスターが言った。
リシェは碑から目を離さなかった。
「少なくとも、人を救ったことは記録にも残っています」
「命令違反も残ってた」
「灰になっていました」
「そうだった」
アスターは少し間を置いた。
「変な感じだね。街にはこっちだけ残ってて、あっちは灰壺の中に入ってた」
リシェは答えなかった。
碑には、炎の中へ戻ったことが刻まれている。
第三灰室には、退避命令違反という言葉が戻ってきた。
同じ行動について書かれた二つの記録なのか。それとも、まだ知らない何かがあるのか。
今は決められない。
リシェは掲示板で書き写した日付を調査帳へ並べた。記念碑の改修、顕彰記録の再整理、記録の再発行、そして第三灰室で灰が文字を作った朝。並べてみれば、その時期はほとんど重なっていた。
「偶然だと思う?」
アスターが尋ねる。
「確認します」
「そう言うと思った」
「まず、再発行された記録を調べます。それから――」
リシェは花屋から聞いた名前へ視線を落とした。
**リア=エイレン。**
「ご家族にも話を聞きます」
アスターは英雄碑を一度振り返った。
「娘さんか」
「はい」
「毎年ここに来て、お父さんのことを話してる人」
「そう聞いています」
リシェは調査帳を閉じた。
ちょうど昼前の鐘が、南鐘街の屋根の向こうで鳴り始める。店先では値下げを巡る言い争いがまだ続き、パン屋からは焼きたての匂いが流れていた。さきほどまでダリオが火の中へ二回入ったのか三回入ったのかを争っていた子どもたちは、もう別の遊びを始めている。
英雄碑だけが、その生活の真ん中に静かに立っていた。
ダリオ=エイレンが十五年前に何をしたのかを、街の人々は今も覚えている。
リシェは白い石をあと一度だけ見てから、アスターと並んで南鐘街を歩き出した。その背後では、パン屋の扉についた鈴がまた鳴り、碑の足元に置かれた紙袋だけが、誰か一人の感謝を変わらず残していた。




