第一節 ― 第三灰室の帰還記録
呼び出しを受けた時、リシェはちょうど朝一番の受理記録を閉じたところだった。
死者名記録庁の窓硝子にはまだ薄い霧が張りついている。向かいの机では夜勤明けの記録官が大きな欠伸を噛み殺し、そのさらに奥では、死亡地の欄を一段ずつ間違えて書いた見習いが先輩に帳面を差し戻されていた。紙と墨の匂い、机を引く音、遠くを通る葬列の鈴。死者を扱う庁舎の朝も、働いている人間の側から見れば、ひどく普通だった。
「ベルレイン」
その普通の朝を、オルヴァ=セインの声がきれいに切った。
リシェは反射的に背筋を伸ばす。
「はい」
「灰化許可院から異常報告です。現場は第三灰室」
差し出された薄い報告札を受け取った指が、わずかに止まった。
第三灰室。
白花盗みのミアに関する記録灰が、封印された灰壺の中から跡形もなく消えていた場所だった。壺は閉じており、封印も破られていなかった。それなのに、灰だけがなくなっていた。
あの白すぎる壺の内側を、リシェはまだ覚えている。
「また、ですか」
「同じ異常とは決まっていません」
オルヴァは間を置かずに答えた。
「先入観は記録より先に置かないように」
「……はい」
「返事に一拍ありましたね」
「反省しています」
「速いですね」
机の端に腰掛けていたアスターが、楽しそうに口を挟んだ。
「怒られることに慣れてきた?」
リシェは横を見た。
「慣れていません」
「僕にはそう見えたけど」
「あなたが原因で叱られる機会が増えただけです」
「それ、慣れてきたってことじゃない?」
「違います」
オルヴァは二人の会話へ視線を向けた――少なくとも、リシェにはそう見えた。正確には、アスターがいるはずの空間を眼鏡越しに数秒見たあと、何も言わず手元の書類へ戻した。
「灰室ではグレイ管理官の指示に従ってください。特に、記録不能の存在を灰化記録へ接触させないこと」
アスターが眉を上げる。
「今の、僕に言った?」
「私に言ったんだと思います」
「僕への注意を君経由にするの、ちょっと傷つくな」
「伝わっているなら問題ありません」
オルヴァの声は変わらなかった。
アスターが少し黙り、リシェを見る。
「この人、たまに僕より幽霊らしいよね」
「聞こえるところで言わないでください」
「見えてないなら平気じゃない?」
「聞こえていないとも言っていません」
「怖いな、この庁舎」
死者が言うことではない、と返しかけて、リシェはやめた。
オルヴァから渡された報告札には、異常の内容が一行だけ記されている。
**灰化済記録の室内再出現。**
その下に、対象名。
**ダリオ=エイレン。**
聞き覚えのある名だった。
どこで聞いたのかまで思い出そうとしたところで、オルヴァが別の帳面を閉じた。
「現物を確認してください。報告はその後で結構です」
「承知しました」
リシェは調査帳と筆記具を鞄へ収める。
立ち上がると、アスターも当然のようについてきた。以前なら、それを一度は止めていた気がする。
今日は何も言わなかった。
*
灰化許可院の廊下は、朝になっても少し冷たい。
壁の高い窓から差す光は白く、磨かれた石床には細長い窓枠の影が伸びている。黒炉を備えた施設だからといって、どこも暖かいわけではない。火を扱う場所ほど、その外側には熱を残さないよう造られているらしく、リシェが歩くたび靴底から冷気が上がってきた。
「ここ、前に来た時も寒かった?」
隣を歩くアスターが、両腕をさする仕草をした。
「死者でも寒いんですか」
「気分の問題かな」
「便利ですね」
「それ褒めてる?」
「いえ」
「最近、返しが早くなったね」
リシェは答えず、第三灰室の前で足を止めた。
扉の脇にはセナ=グレイが立っていた。
すでに灰除け眼鏡を掛け、灰色手袋を着けている。灰室用の長衣にも乱れはない。その隣には、朝から見た覚えのあるだらしない外套が壁へ寄りかかっていた。
「遅い」
ルゼ=カロウだった。
眠そうな顔で腕を組んでいる。
「正式な呼び出しを受けてから来ています」
「俺なんか届け物に来ただけで朝から怪異に巻き込まれたぞ。もっと同情しろ」
「お帰りになって構いませんよ」
セナが静かに言う。
「さっき帰す気なかっただろ」
「未閉帳灰を置いてからなら」
「そういうところだぞ、灰壺女」
「その呼び方はやめてください」
声量はまったく変わっていないのに、ルゼが素直に口を閉じた。
リシェは小さく会釈する。
「お待たせしました。グレイ管理官、現状は?」
「発見時から変えていません。床の灰にも触れていません。黒炉は停止状態、室内封印も維持しています」
セナはそう答えると、リシェへ新しい灰色手袋を差し出した。
「お願いします」
「はい」
受け取って両手にはめる。指先まできちんと収めてから顔を上げると、アスターがすでに開いた扉へ近づいていた。
第三灰室の中央には、白灰で引かれた円がある。
その境を越えようとした爪先の前へ、セナの声が落ちた。
「あなたは円の外でお願いします」
アスターが止まる。
「死者差別?」
「安全管理です」
間髪がない。
アスターは片足を浮かせたまま数秒考え、静かに元の位置へ戻した。
「言い方が事務的だと反論しづらいな」
「反論されても入れません」
リシェも円の前まで進み、アスターを見た。
「入らないでください」
「二対一?」
「俺も入るな派」
壁際にいたルゼが片手を上げる。
アスターが振り返った。
「三対一になった」
「多数決じゃなくてもおまえが負けてる」
「死者の権利が軽い」
「その死者が灰に触って薄くなったら面倒なんだよ。そこに立ってろ」
「心配の仕方が雑なんだよなあ」
文句を言いながらも、アスターは円から一歩離れた。
リシェはそれを確かめてから室内へ入った。
そこから先は、軽口を交わす空気ではなかった。
黒炉の前、白い床を灰が走っている。細い線は乱れずに二行の文字を形作り、朝の光を受けた粒の一つ一つが淡く浮かび上がっていた。誰かが指で書いた跡も、筆先で引いたような溝もない。
ただ灰そのものが、文字の形に並んでいる。
**ダリオ=エイレン**
**退避命令違反**
「……これが、帰還記録ですか」
リシェは円の内側から尋ねた。
「便宜上、そう呼びました」
セナが答える。
「正式な異常分類ではありません。そもそも、灰化済記録がこの形で戻ることを前提とした分類がありませんので」
「前例は?」
「少なくとも第三灰室ではありません」
セナはしゃがみ込み、文字へ直接触れない距離で灰筆をかざした。筆先に白灰色の光がごく淡く宿る。
まず文字の周囲をゆっくり一巡し、次に黒炉の封灰線を確認する。炉口へ顔を近づけ、灰除け眼鏡越しに細い境界を追ったあと、灰壺棚へ移り、一つの壺の前で止まった。
灰色の壺だった。
派手な装飾はなく、正面に管理番号と短い記載札だけが結ばれている。
**ダリオ=エイレン/職務規則違反記録。**
リシェは調査帳を開いた。
「これが対象ですね」
「はい」
セナは封蝋へ指を近づけたものの、すぐには触れなかった。
「発見時、蓋は閉じていました。封印にも破損はありません。室外側の鍵、棚の封印、黒炉、すべて正常です」
「誰かが開けて、灰を出して、閉め直した可能性は?」
「その場合、封蝋か残響のどちらかに痕跡が残ります」
セナはようやく灰筆の先を封印へ寄せた。
薄い光が封蝋の表面を走る。
彼女の表情は動かない。
「外部開封の反応はありません」
リシェは床を見た。
灰壺は棚の中にある。灰は床にもある。その二つを結ぶ痕跡だけが、どこにも見当たらなかった。
「文字の灰が、この壺から出たことは確定できますか」
「現時点で、完全には」
セナは即答を避けた。
「ただし灰質は近いです。粒子の細かさ、焼成後の白み、残響の沈み方。少なくとも、別種の灰を誰かが持ち込んで文字を書いたようには見えません」
「見えません、ですか」
「断定するには開封検分が必要です」
そう言って、セナは腰の鍵束へ手を伸ばした。
「ベルレインさん、立ち会いをお願いします」
「はい」
リシェが一歩近づく。
セナは記録札と封印番号を一つずつ読み上げ、リシェが調査帳へ写す。照合を終えると、灰筆が封蝋へ触れた。淡い光が一瞬だけ広がり、乾いた音とともに封印が解ける。
蓋を持ち上げる。
灰壺の中には、薄い灰が静かに沈んでいた。
アスターが円の外から首を伸ばす。
「空じゃないんだ」
「そこから動かないでください」
リシェが言う。
「動いてないよ。伸びてるだけ」
「戻してください」
「厳しい」
セナは会話に加わらず、壺の内側を灰除け眼鏡越しに見つめていた。
指先で壺をわずかに傾けると、灰がさらりと動く。それから記録簿を開き、前回の検分欄と見比べた。
「灰量に、大きな減少はありません」
リシェの筆が止まった。
「ありません?」
「はい」
「でも、床にはこれだけあります」
二行の文字を形作るには、決して少ない量ではない。もし壺からそのまま流れ出したのなら、それに見合うだけ中身が減っているはずだった。
セナは壺を棚へ戻さず、手の中に保持したまま床を見る。
「そこが、私にも説明できません」
円の外から、ルゼが低く言う。
「増えたってことか?」
「そうとも言っていません」
「減ってない。外にもある。普通なら増えてるだろ」
「普通の灰であれば、です」
「灰に普通も特殊もあるかよ」
「あります」
「専門家、強えな」
ルゼが肩をすくめた。
セナは気にした様子もなく、灰壺の記録札を裏返す。
「この記録が灰化されたのは十二年前です」
リシェは視線を上げた。
「十二年前?」
「申請受理、灰化処理、封印。すべて同年です。その後は定期検分のみ。異常報告はありません」
リシェは調査帳の新しい頁に日付を書き、その下へ二本の線を引いた。
十五年前。
十二年前。
「ダリオ=エイレンが死亡したのは?」
「十五年前です」
セナの返答に、円の外でアスターが小さく首を傾げた。
「死んですぐ焼いた記録じゃないんだ」
「三年ありますね」
リシェは記録札へ目を落とした。
職務規則違反記録。
その言葉だけでは、何が起きたのか分からない。いつ、どこで、どの規則を破ったのか。なぜ死後三年を経て、その一項だけが灰化されたのか。
そして、もっと単純な疑問が残る。
「十二年間、異常は?」
セナはリシェを見た。
「ありません」
「灰壺の反応も?」
「正常です」
「床へ灰が出たことも」
「ありません」
「文字が戻ったことも」
「今日が初めてです」
室内が静かになった。
外の廊下を誰かが通り過ぎる靴音がした。遠くでは扉が開き、職員同士の短い挨拶が交わされている。灰化許可院の朝はすでに始まっている。その日常から扉一枚隔てただけの部屋で、十二年間沈黙していたはずの灰が文字を書いていた。
アスターも、今度は冗談を言わなかった。
白い床の二行を見つめている。
リシェはしゃがみ、灰へ触れない距離まで顔を近づけた。
ダリオ=エイレン。
その名前を、頭の中でもう一度読む。
覚えがある。
葬送庁街区の古い記録ではなく、もっと普通の場所で見た名前だった。街路の碑だったか、何かの式典記録だったか。少なくとも、《退避命令違反》という言葉と結びついた記憶ではない。
「この人……」
リシェが呟くと、セナが記録簿を閉じた。
「ご存じですか」
「名前だけです。どこで見たか、まだ」
記憶を無理に掘り起こすより、記録を追うべきだ。
リシェは立ち上がった。
「ダリオ=エイレンの死亡記録と、この灰化処理に至った申請記録を確認します」
「灰壺はこちらで再封印します。床の文字は保存します」
「消さないんですか?」
円の外からアスターが訊いた。
セナは振り返った。
「原因が分からないものを、原因が分からないまま灰に戻すつもりはありません」
静かな声だった。
それだけ言うと、セナは床の二行へ視線を戻した。
リシェも調査帳を閉じる。十五年前に死んだ男の記録の一部が、三年後に灰へ送られ、それから十二年間は何も起こらなかった。
なぜ今朝になって、終わったはずの記録が自分の形を取り戻したのか。
白い床にはダリオ=エイレンの名とともに、**退避命令違反**の文字だけが崩れずに残っていた。




