第七節 ― 誰のために灰にした
ベルグ=ラウスの住まいは、葬送庁街区から少し離れた古い集合住宅の一角にあった。
白い墓碑の列が途切れ、生者の家が増えていくあたりだった。石造りの建物は年季が入っているものの、窓辺には洗った布が干され、階下では誰かが夕食用の根菜を籠から選り分けている。階段の踊り場には小さな鉢植えまで置かれていて、死者の記録を追って歩いてきたリシェには、その生活の匂いがかえって鮮明に感じられた。
「元・都市災害記録官、七十歳前後。十二年前の灰化申請者」
リシェが調査帳の記載を確かめると、隣を歩いていたセナが頷いた。
「退職後の処分歴はありません。所在も正式に届け出ています」
「逃げて隠れてる感じじゃないね」
後ろからアスターが階段の手すりを覗き込みながら言った。
「まだ逃げる理由があるとも決まっていません」
「真面目だなあ」
「調査ですから」
「そういう返しにも慣れてきた」
アスターはそう言ったものの、いつもの調子ほど軽くはなかった。
火災の残響へ深く入り込んだ時の消耗は、もう外見にはほとんど残っていない。それでも南鐘街を出てから、彼はダリオのことになると冗談を挟む回数が減っていた。怖がりながら炎へ戻った男と、その男を十五年間待ち続けた娘。その二つが、まだ彼の中に残っているようだった。
目的の扉の前で、リシェは足を止めた。
呼び鈴の代わりに、小さな金属板が掛かっている。
指の背で二度叩くと、少し間を置いて室内から足音が近づいてきた。
「はい」
開いた扉の向こうに立っていたのは、痩せた老人だった。
白髪は短く整えられ、背筋にもまだ大きな曲がりはない。年齢相応の皺は深いが、目は澄んでいた。リシェの身分札へ視線を落とし、そのあとセナの腕にある灰化許可院の印章を見る。
そこで、何かを察したらしい。
「ダリオ=エイレンか」
先に名前を出された。
リシェはわずかに息を止めたが、すぐに頷いた。
「はい。ベルグ=ラウスさんですね」
「そうだ」
「死者名記録庁のリシェ=ベルレインです。こちらは灰化許可院のセナ=グレイ管理官。十二年前の灰化申請についてお話を伺いたいのですが」
ベルグは二人を順番に見た。
言い訳を探すような間はなかった。
「入れ」
それだけ言って、扉を大きく開けた。
部屋は質素だった。
壁際には古い記録書や地図を納めた棚があり、中央には四人が囲める程度の木卓が置かれている。机の端には読みかけの新聞と眼鏡。窓際では湯を沸かしたらしく、まだ細い蒸気が立っていた。
元記録官らしいと思ったのは、棚の中の書類が古いわりに妙に揃っていることだった。
ベルグは客用の椅子を引く。
「茶はいるか」
「お気遣いなく」
「そう言う役人はだいたい長居する」
リアにも似たことを言われた気がして、リシェは一瞬返答に詰まった。
アスターが横で小さく笑う。
「記録官ってどこでも同じこと言われるね」
聞こえていないベルグは、結局自分の分だけ湯を注いだ。両手で杯を持ち、向かいへ座る。
「それで」
老人はリシェが書類を出すより先に言った。
「灰化申請のことだろう」
「覚えていらっしゃいますか」
「忘れるような仕事ではない」
声はしっかりしていた。
リシェは鞄から複写した申請書を取り出し、卓上へ置く。
十二年前。
申請者、ベルグ=ラウス。
対象、ダリオ=エイレン。
職務規則違反記録。
灰化理由――死者の名誉を不当に拘束する罪名記録の清算。
ベルグは紙を見下ろした。
「私が申請した」
否定もしなかった。
責任を他人へ移そうともしない。
「この記載も?」
リシェが灰化理由を指す。
「私が書いた」
セナは黙ったままベルグを見ている。
「当時、この記録が事実ではないと判断されたのでしょうか」
リシェが尋ねると、ベルグは首を横へ振った。
「いや」
「では、退避命令が存在したことも」
「あった」
「ダリオさんが、その命令のあとで現場へ戻ったことも」
「知っていた」
返事に迷いはない。
火災跡の残響で見た男の姿が、リシェの脳裏へ戻ってくる。
煙の中で咳き込み、一度は外へ逃れ、膝へ手をついて息をしながら、それでも最後には炎の中へ戻った男。
ベルグはその行動を知っていた。
その上で、事実記録を《罪名》として灰化した。
「なぜですか」
リシェは訊いた。
ベルグはすぐには答えず、杯の縁へ視線を落とした。
湯気はもう薄くなっている。
「南鐘街大火を、今の街しか知らない者には分からんだろうな」
責める口調ではなかった。
「十五年前、あそこは今みたいな商店街じゃなかった。焼けた建物が残り、死人の名札が増え、助かった人間も家を失っていた。誰かの家族が死んで、誰かの店が消えて、救助に入った連中まで何人も病院送りになった」
ベルグは窓の方へ目をやった。
今ここから南鐘街は見えない。
「みんな疲れていた」
短い言葉だったが、その時代を実際に知っている人間の声だった。
「火災記録をまとめるのが私の仕事だった。死者。負傷者。損壊家屋。救助隊の行動。命令系統。誰がどこで何をしたか。紙の上へ並べれば、事故はずいぶん整って見えたよ」
リシェは何も書かなかった。
まず聞く。
「その中で、ダリオは人を救った」
ベルグの目が申請書へ戻る。
「それは間違いない。あの男が戻らなければ、もっと死んでいた。救助された人間の中には、子どももいた」
「はい」
「街の連中は、その話に縋った」
ベルグの声が少し低くなった。
「大勢が死んだ火事の中にも、誰かを助けるため戻った男がいた。それだけで救われる人間が、本当にいたんだ」
南鐘街の英雄碑が浮かぶ。
兄を救われ、今でも代わりにパンを供えている老人。
毎年花を置く人々。
三回火の中へ入ったのだと、少しだけ話を膨らませていた子ども。
英雄という言葉は、最初から嘘だったわけではない。
「あの頃の街には、ダリオ=エイレンが必要だった」
ベルグは言った。
「少なくとも、私はそう思った」
セナの指先が膝の上でわずかに動いた。
それでも、まだ口は挟まない。
「ですが正式記録には、退避命令違反が残った」
リシェが言う。
「ああ」
「それを灰化した」
「ああ」
「人を救ったことと、命令を破ったことは両立します」
ベルグはリシェを見る。
「今なら、私もそう書くかもしれん」
「当時は?」
老人は、少しだけ苦く笑った。
「書けなかったんだろうな」
誤魔化すような笑いではない。
自分自身について、十五年越しにそう判断している顔だった。
「ダリオの葬送が終わったあとも、あの一行は残った。《退避命令違反》。救助功績の記録とは別に、職務記録としてな」
ベルグは人差し指で机を一度叩いた。
「事実だ。だから最初は残した」
「灰化は三年後です」
「その三年で、嫌というほど見た」
「何をですか」
「人間が、記録から一つの言葉だけ拾うところをだ」
リシェの筆を持つ指が止まった。
「英雄だと言う者がいる。その一方で、命令違反者だと言う者もいた。『結果が良かっただけだ』『規則を守れない隊員だった』とな。間違いではない。だが、どちらもあの男の全部じゃない」
アスターが静かに顔を上げた。
その言葉を聞いた時だけ、表情から残っていた軽さが消えた。
「だから、消したんですか」
「そうだ」
ベルグは即答した。
「あの男は人を救って死んだ。それで十分だろうと思った」
部屋の時計が小さな音を立てた。
「それに、娘がいた」
ベルグの顔つきが変わる。
「リアさんですね」
「十一だった」
リシェの胸の奥に、仕立て工房で聞いた言葉が蘇る。
夕食まで待っていた少女。
夜になっても父は帰らず、母親だけが帰ってきた。
そのあと十五年間、英雄の娘として笑ってきた女性。
「父親を亡くした子に、今度は《命令を破った男の娘》まで背負わせるのかと思った」
ベルグは目を伏せた。
「あの子は、ただでさえ街中から見られていた。英雄の娘としても、違反者の娘としてもな。記録というのは、一度言葉がつけば、人間はそこだけを見る」
「それで、《死者を拘束する罪名》として申請した」
「そうだ」
セナが初めて口を開いた。
「誰かに頼まれたのですか」
「いや」
「遺族から?」
「違う」
「市から、顕彰記録を整えるよう求められた?」
「ない」
「金銭や便宜を受けたことは」
ベルグは少し眉を寄せた。
「ない」
「では、ご自分で?」
「ああ」
老人はセナを正面から見た。
「私が必要だと思った」
そこには、逃げ道を作ろうとする気配がなかった。
「手続きも隠していない。正式に申請した。担当も通した。私は、当時あれが正しい灰化だと思っていた」
「今もですか」
セナの問いに、ベルグはわずかに間を置いた。
「……分からん」
十二年前なら、即答したのかもしれない。
だが今は、第三灰室の床に灰が戻っている。
その事実を、リシェたちが訪ねてきた時点で察していたのだろう。
「何を守りたかったんですか」
リシェが尋ねる。
ベルグは答えを探すように、古い申請書を見つめた。
「ダリオの名誉だ」
「それだけですか」
「リアもだ」
ベルグはすぐに付け足した。
「あの子に、父親の違反まで持たせたくなかった。それだけじゃない。街にもだ。あれだけ人が死んだあとで、ようやく皆が、ダリオの話をすると少し顔を上げられるようになっていた」
老人の指が、申請書の灰化理由をなぞる。
「そこへ《命令違反》をぶら下げ続ける必要があるのかと思った」
「必要がないと」
「ああ」
ベルグは静かに頷いた。
「人を助けた。それで死んだ。それだけ残せばいいと思った」
しばらく誰も話さなかった。
ベルグは自分の判断を正当化するために誰かの指示や利益を持ち出さなかった。十二年前、自分で必要だと考え、自分の名で申請した。それだけは一貫していた。
「綺麗にしてやりたかったんだ」
ベルグが言った。
小さな声だった。
「ダリオの記録を」
セナの顔がわずかに動いた。
それまで膝の上で重ねていた手をほどき、机へ置く。
「誰をですか」
声は大きくない。
だが、リシェは反射的に彼女を見た。
ベルグも同じだった。
「何?」
「誰を、綺麗にしてあげたかったのですか」
セナは問い直した。
灰室で手順を告げる時と同じ、落ち着いた口調だった。
ただ、その奥にいつもより硬いものがある。
「ダリオをだ」
ベルグが答える。
「本当に?」
セナの声が、ほんの少し強くなった。
老人の口が止まる。
セナは責めるように身を乗り出さなかった。
机を叩きもしない。
ただ、十二年前の灰化申請書を二人の間に置いた。
「ダリオ=エイレンは、もう死んでいました」
ベルグの目が紙へ落ちる。
「退避命令違反と書かれた記録を読んで、肩身の狭い思いをすることもありません。式典で噂を聞くこともありません。街の人に何と呼ばれているのか、気にすることもできません」
セナはそこで一度言葉を切った。
「その記録を見て苦しかったのは、生きていた方ではありませんか」
ベルグは答えなかった。
窓の外から、子どもたちの声が聞こえてきた。
階下を誰かが走り、そのあとを大人が「階段では走るな」と叱っている。
夕食の支度を始めたのか、どこかの部屋から鍋の蓋が鳴る音もした。
生きている人間の音ばかりだった。
「リアさん」
リシェは知らず、名前を口にしていた。
ベルグの肩がごくわずかに落ちる。
「……ああ」
「街の人たちも」
「そうだな」
長い沈黙のあと、ベルグは杯を持ち上げた。
もう湯気はない。
一口飲み、すぐに置く。
「私は、あの男を救ってやるつもりだった」
さきほどより声が低かった。
「記録に残った一つの失敗からな」
セナは何も言わない。
「だが」
ベルグは申請書を見つめる。
「ダリオがそれを望んでいたかは、聞いていない」
リシェの指先が調査帳の上で止まった。
「聞けませんでしたから」
「死んでいたからな」
ベルグは苦く笑った。
「だから、生きている私が決めた」
その言葉を、誰もすぐには否定しなかった。
窓の外では、まだ夕食の支度をする生活の音が続いている。
第三灰室では、十二年前に終わらせたはずの一行が灰になって戻っていた。
「ラウスさん」
リシェは調査帳を開く。
「あなたが当時、ダリオさんの命令違反を事実ではないと考えていたわけではない。それでも、遺族と街を傷つける記録だと判断し、《罪名記録》として灰化を申請した。そう記録してよろしいですか」
ベルグは顔を上げた。
「ああ」
「誰かの指示ではなく、ご自身の判断で」
「そうだ」
「今、その判断を正しかったと言い切れますか」
少しだけ間があった。
「言い切れん」
リシェはそのまま書いた。
正当化もしない。
後悔している、と勝手に変えもしない。
言い切れない。
今のベルグが選んだ言葉を、そのまま残す。
書き終えると、セナが申請書を丁寧に揃えた。
「この写しを持ち帰ります」
「好きにしろ」
「灰化処理そのものを、もう一度検分します」
ベルグの目がセナへ向く。
「取り消すのか」
「まだ決めていません」
セナは紙の角を揃えながら答えた。
「何を終わらせるべき記録だったのか、そこから確認します」
その言葉に、ベルグはしばらく黙っていた。
「そうか」
やがて、それだけ言った。
帰り際、リシェは扉の前で振り返った。
ベルグは机のそばに立ったまま、もう一度古い灰化申請書のあった場所を見ている。十二年前、自分で書いた一枚を、その時の彼は誰かを守るために必要なものだと思っていた。
外へ出ると、空は夕方へ傾き始めていた。
アスターは階段を下りながら、珍しく先に行かなかった。
「悪い人じゃなかったね」
ぽつりと言う。
「はい」
リシェは答えた。
「でも、記録は戻ってきた」
「はい」
アスターはそれ以上言わなかった。
先を歩くセナの背中を見る。
彼女は灰化申請書の写しを両手で持ち、いつも灰壺を運ぶ時のように傾けず歩いていた。
階段を下り切ったところで、セナが振り返る。
「第三灰室へ戻ります」
「今からですか」
「今だからです」
その声音はもう普段の落ち着きを取り戻していた。
けれど目だけは、まだ少し硬い。
「終わらせてよかった記録だったのか、灰をもう一度見ます」
リシェは頷き、彼女の隣へ並んだ。
夕刻の街を、三人で灰化許可院へ向かった。




