第9節 ― どの名で眠るか
墓前での再終名聴取を終えたあとも、ミラとユエルはしばらくその場を動かなかった。
朝霧はすでに墓域の奥へ引き、白い墓碑の表面には淡い陽が差している。何も刻まれていない石は、遠目には新しく用意されたばかりの墓のようだった。けれど足元には供えられた花があり、その下には確かに一人の死者が眠っている。
リシェは調査帳を閉じ、二人の前へ立った。
「確認できたことを整理します」
ユエルが顔を上げる。ミラは白花を抱えたまま、墓碑から視線を外さなかった。
「《エレナ=セルディス》という名前には残響があります。幼い頃から呼ばれ、家族と暮らした時間に結びついています。完全に拒絶されている名前ではありません」
ユエルの眉がわずかに動いた。
その反応を見たミラが、初めて弟の方を見る。
「ほら」
声は強くなかった。
「エレナだって、あの子の名前だったのよ」
「でも、姉ちゃんが選んだ名前はエナだ」
「だからって、それまでの名前がなくなるわけじゃないでしょう」
「なくせって言ってるんじゃない。墓に刻む名前の話だよ」
「私がつけた名前だって、あの子の名前だったでしょう」
ユエルが何かを返そうとして、唇を結んだ。
二人とも声を荒らげてはいない。それでも、何度も繰り返してきたやり取りなのだと分かる。片方は、姉が自分で選んだ名前を守ろうとしている。もう片方は、自分が娘に与えた名前まで否定されたくない。
どちらも、死者を自分のものにしたいだけではない。
どちらにも、失いたくないものがある。
ミラがリシェを見る。
「記録官さん。あなたはどう思うんですか」
ユエルもこちらを向いた。
リシェは一度だけ墓碑へ目を移した。
白い石。
何もない空白。
そこへどの名を刻むかを決めることは、ただ正しい文字を選ぶことではない。
「《エレナ=セルディス》も、彼女の名前です」
ミラの目が揺れた。
ユエルは黙っている。
「子どもの頃に呼ばれていたことも、ご家族と過ごした時間も、その名前で残っています。お母さまが愛情を込めてつけた名前だったことも、消すべきではありません」
ミラの指から、白花の茎を握る力が少し抜けた。
「……はい」
「ただ」
リシェは続ける。
「最後に彼女が自分で選んでいた名前も、彼女の名前です」
ユエルが小さく息を吐いた。
「《エナ》は、生家を出てから自分で使っていました。友人も、職場の人も、弟さんもそう呼んでいた。本人も自分で書いていた。終名聴取でも、こちらの方が近く、はっきり返っています」
ミラは墓碑へ目を戻した。
「でも……エレナを消してしまったら」
「消しません」
リシェはすぐに答えた。
その言葉に、ミラもユエルも同時にこちらを見た。
「公的な生前記録は《エレナ=セルディス》のまま残します。出生記録も、遺体照合も、家族関係も、彼女がその名前で生きた事実も消しません。白紙返しで薄れた記録についても、復元できるものは戻します」
「じゃあ墓も――」
「墓碑は別です」
ミラが言葉を止める。
リシェは調査帳を開き、裁定欄へ筆を置いた。
「葬送名を再選定します」
筆先が紙へ触れる。
「墓碑に刻む名は、《エナ》」
ユエルの肩がわずかに下がった。
「家名は伏せます」
ミラは何も言わなかった。
「《エレナ=セルディス》という名前そのものを消すのではありません。必要な行政記録は閉帳内へ残します。ただ、墓碑へ出す名は、彼女が最後に自分で使い、呼ばれて応じていた名を優先します」
ミラの口元が僅かに歪む。
「それは……エレナを隠すということですか」
リシェは首を横へ振った。
「生きていた記録として残します」
「でも、墓には出さない」
「はい」
「どうして」
問いは責める調子ではなかった。
本当に分からないのだろう。
リシェは答えを急がなかった。
「墓碑は、生前のすべてを書く場所ではありません」
ミラが目を伏せる。
「ここで、彼女がどの名で眠るかを選びます」
それだけ言って、リシェは筆を止めた。
それ以上の意味を足す必要はなかった。
誰がつけた名前か。
どの記録が強いか。
どの時間が本物か。
その全部を一つにまとめて優劣を決めるのではなく、残すものと、墓へ出すものを分ける。
ユエルが低く言った。
「姉ちゃんが選んだ名前を、墓に残してくれるんですね」
「はい」
「セルディスは?」
「閉帳内には残ります。生前記録からも消しません」
ユエルは一瞬だけ迷い、それから頷いた。
「……分かりました」
ミラは、まだ黙っていた。
リシェは彼女へ判断を急がせなかった。
裁定案は出した。
けれど、今この場で母親まで同じ気持ちになれるとは思っていない。
しばらくして、ミラがようやく口を開く。
「私は」
言葉が途中で切れた。
「私は、あの子にエレナってつけた時、本当に嬉しかったんです」
ユエルが母を見る。
「生まれて、抱いた時に。名前を呼んで、それで……ああ、この子は私の娘なんだって」
白花が小さく揺れる。
「だから、その名前を墓から外すって聞くと、私のことまで外されるみたいで」
声が僅かに震えた。
ユエルはすぐに言い返さなかった。
ミラも、もう自分の正しさを証明しようとはしなかった。
「でも」
墓碑の白い面を見る。
「あの子が、五年も別の名前で暮らしてたのよね」
リシェは答えない。
ミラが自分の言葉でそこへ辿り着くのを待った。
「私の知らないところで」
今度はユエルが小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
責めるでも、慰めるでもない。
ミラはその短い返事を受け取って、目を閉じた。
裁定の手続きを終えると、墓碑師が呼ばれた。
朝に何度も白い石を見ていた男だった。最初に刻んだ名が消え、もう一度刻み直し、それさえ翌朝には失われたため、道具箱を開く手つきにはいつもより慎重さがあった。
「今度は二文字だけで?」
「はい」
リシェが裁定票を渡す。
「家名は伏せます。以前の刻字跡は平らに整えてください。無理に深く削らず、残っている構文を壊さないように」
「了解です」
墓碑師は白石の表面を布で拭い、細い線を引いた。
ミラとユエルは少し離れて立っている。
アスターはリシェの隣にいた。
「短いね」
「何がですか」
「名前」
「本人が選んだものです」
「そうだけど」
アスターは墓碑師の手元を見つめる。
「なんか、これくらいがちょうどいい感じする」
リシェは返事をしなかった。
鑿が石へ触れる。
乾いた音が一つ、静かな墓域へ響いた。
最初の文字が刻まれる。
エ。
次に、ナ。
ほんの二文字だった。
それでも墓碑師は急がず、線の深さを確かめながら、何度も細かく鑿を入れていく。白い粉が少しずつ足元へ落ちるたび、リシェは以前の白紙返しの粉と混ざらないよう、墓碑師に用意してもらった布で受けた。
やがて、石の中央に名前が現れた。
**エナ**
家名はない。
余計な肩書きもない。
ただ、その二文字だけが白い墓碑へ残った。
墓碑師は手を止め、リシェへ確認を求める。
リシェは正面から文字を見た。
歪みはない。
構文も安定している。
今度は消えない。
そう断言するのではなく、しばらく待った。
数分。
何も起こらない。
石の輪郭も、文字の線も変わらなかった。
リシェは墓碑へ手を置く。
冷たい石の奥で、かすかな残響が返る。
呼ばれて振り返る、その感覚。
昨朝のような拒絶はなかった。
「大丈夫です」
墓碑師が肩の力を抜く。
「三度目は勘弁してほしいところでした」
「私もです」
「一番そう思ってるの、墓の人じゃない?」
アスターの声に、リシェは少しだけ口元を緩めた。
ミラが墓碑へ近づいた。
刻まれた二文字を見つめる。
長い。
その沈黙が、いま彼女の中で何が動いているのかをそのまま表しているようだった。
ユエルは隣まで来たが、何も言わずに待った。
「……まだ、慣れません」
やがてミラが言った。
ユエルが頷く。
「うん」
それだけだった。
母親は《エナ》と呼ばなかった。
呼べなかったのかもしれない。
昨日まで、それは自分の娘を遠くへ連れていく名前だった。たった一度、墓前で口にしたからといって、五年分の距離が消えるわけではない。
けれど、ミラは墓碑へ刻まれた文字を見つめたまま、消してほしいとは言わなかった。
持っていた白花を台座へ置く。
今度は、名前の下へ。
ユエルも何も言わず、その隣へ小さな焼き菓子を供えた。
「好きだったから」
母に向けたのか、姉に向けたのか分からない声だった。
ミラは菓子を見て、かすかに眉を寄せる。
「そんな甘いのばかり食べてたの?」
「給料日前でも買ってたらしいよ」
「……馬鹿ね」
口から出た言葉の柔らかさに、自分でも気づいたようだった。
ユエルがほんの少し笑う。
「うん。結構」
リシェは二人から少し離れ、調査帳を開いた。
墓碑再刻印。
葬送名再選定。
エナ。
家名非表示。
生前公的記録は《エレナ=セルディス》として保持。
白紙返しによる周辺記録の消失については、復元処理を開始。
書き終えたところで、庁から持参した確認紙へ目を落とす。
朝にはまだ薄かった《エレナ=セルディス》の文字が、僅かに濃さを戻している。完全ではない。それでも、消失の進行は止まり始めていた。
ユエルから預かった手紙も確認する。
本人の署名《Ena》は、そのまま。
正式名が添えられた部分も、これ以上薄くなってはいない。
消す処理と、残ろうとする残響がぶつかり続けていたものが、ようやく一つの場所へ落ち着き始めている。
リシェは紙を戻し、調査帳を閉じた。
墓前では、ミラとユエルがまだ並んでいる。
二人の距離は、来た時よりほんの少しだけ狭くなっていた。
何も解決していないこともある。
母親が娘の五年間を受け入れるには、きっと時間がいる。ユエルが空名会へ頼ったことも、母子の間でこれから話さなければならない。家を出るまでに積もったものが、一日の調査でなくなるはずもない。
それでも墓碑の名は、もう白くなかった。
消さずに残した名前があり、あえて石には出さなかった名前がある。
そのどちらも、彼女が生きた時間だった。
風が墓域を抜け、供えられた白花の花弁を揺らした。
石の上には、二文字だけが残っていた。
エナ




