終節 ― 消えない二文字
夜の墓域には、昼間とは違う静けさがあった。
葬送灯の火が白い墓碑のあいだに一定の間隔で灯り、その光を夜霧が淡く滲ませている。昼に行き交っていた墓碑師も遺族もすでに帰り、聞こえるのは石畳を踏むリシェの靴音と、どこか遠い通りを走る夜荷車の車輪だけだった。
墓碑へ新しい名を刻んでから半日が過ぎた。
白紙返しの進行は止まり、薄れていた手紙や名札も少しずつ文字を取り戻し始めている。それでもリシェは、自分の目でもう一度だけ墓碑を確認しておきたかった。
一人で。
「一人で来たつもりなんですが」
墓域の門をくぐってからしばらくして、リシェは前を向いたまま言った。
左隣から、悪びれもしない声が返る。
「僕も一人だよ」
「二人です」
「数え方が厳しいなあ」
「普通です」
アスターは肩を竦め、少しだけ歩調を上げて隣へ並んだ。足音はしないのに、今ではどの辺りにいるのかを確認しなくても分かることがある。視界の端へ黒い外套が入れば、それだけで十分だった。
「夜の墓地に一人で来る記録官って、怖い話の始まりっぽいよね」
「死者がついてきている時点で、始まっています」
「僕の扱い、だんだん雑になってない?」
「慣れました」
「それはそれで傷つくな」
いつもの調子で返しながら、アスターはそれ以上騒がなかった。
墓域の奥へ進むにつれて霧が濃くなる。白い墓碑が何列も続き、その一角には名を刻まない無名墓が並んでいた。番号だけを持つ墓、仮札しか残せなかった墓、誰にも呼び名を決められないまま眠っている墓。その白さは月明かりの下ではほとんど霧と同じ色に見えた。
リシェはその前を通り過ぎ、昼に墓碑師が刻んだ墓へ向かった。
葬送灯のひとつが、静かな風に揺れている。
その隣に、二文字は残っていた。
エナ
削れも、霞みもない。
昼間と同じ深さで、白い石の中央へ刻まれている。
リシェは墓碑の前に立ち、しばらく文字を見つめた。念のため指先で石へ触れると、夜気を含んだ冷たさの奥から、ごく淡い残響が返ってくる。
拒絶はなかった。
誰かに呼ばれて、自然に顔を上げるような気配だけがある。
それを確かめてから、リシェは手を離した。
「残ってる?」
アスターが尋ねる。
「はい」
「今度は朝になっても?」
「おそらく」
「おそらくなんだ」
「確認していないことを断言しないだけです」
「記録官殿らしい」
アスターは墓碑の横へ回った。
昼に供えられた白花はまだ瑞々しく、その隣にはユエルが置いた焼き菓子が包み紙のまま残っている。墓地へ食べ物を置くと翌朝には鳥に狙われることが多いが、今夜くらいはそのままでもいいだろう。
アスターは二文字を見たまま、しばらく黙っていた。
普段なら何かしら言う。
字が少ないだとか、墓碑が寂しいだとか、菓子を食べられる死者は得だとか。けれど今は、そういう言葉が出てこなかった。
夜霧がゆっくり墓碑の裾を通り過ぎる。
遠くで眠りの鐘が鳴った。
一つ目の音が墓域全体へ広がり、白い石の列に吸い込まれていく。少し遅れて二つ目が響き、最後の余韻が消えるまで、アスターは動かなかった。
やがて、いつもの軽い声が戻ってきた。
「僕にも、本当の名前が見つかったらさ」
リシェは彼を見る。
アスターは墓碑へ目を向けたままだった。
「その名前で、眠らないといけないの?」
問い方は軽い。
けれど笑ってはいなかった。
リシェはすぐには答えなかった。
アスターという名は、彼の過去から見つけたものではない。
生前の誰かが呼んでいた名前でも、死者名簿から拾い出した名前でもない。空白のままでは呼べなかったから、リシェが仮に置いたものだ。
本当の名前が見つかれば、それで元に戻る。
以前なら、そう考えることもできたかもしれない。
けれど今、目の前の墓碑に残っているのは、出生記録に書かれていた名前ではなかった。
「分かりません」
アスターがこちらを見た。
「記録官なのに?」
「分からないことを、分かったふりする方が問題です」
「真面目だなあ」
「仕事ですから」
「便利だね、その言葉」
「あなたが何度も訊くからです」
アスターが、ようやく少しだけ笑った。
いつもの軽さには戻っている。
けれどリシェには、その笑いの奥にまだ残っているものが見えた気がした。名前が見つからないことを怖がっていた死者が、今は名前が見つかった後のことを怖がっている。
それを本人より先に説明する必要はない。
リシェは墓碑から離れ、石畳へ戻った。
「帰ります」
「もう?」
「確認は終わりました」
「もう少し夜の墓地を散歩するとか」
「しません」
「雰囲気いいのに」
「仕事で来ています」
「はいはい」
リシェが歩き出す。
少し遅れて、アスターもついてきた。
白い墓碑の列を抜け、無名墓のそばを通り過ぎる。名前のある墓と、名前のない墓。そのどちらにも同じ月明かりが落ちている。
何歩か進んだところで、リシェは足を緩めた。
「でも」
後ろにいたアスターが顔を上げる。
「うん?」
「見つけてから、考えても遅くはないと思います」
アスターはすぐには返事をしなかった。
霧の中で、その横顔だけが葬送灯の淡い光に浮かんでいる。
やがて、ほんの少し肩の力を抜いた。
「じゃあ、まだアスターでいいか」
「今は、それで」
二人は並んで歩き出した。
墓域の出口へ向かう道の先で、霧がゆっくり二人の輪郭を飲み込んでいく。遠くではもう一度、眠りの鐘が鳴った。
その音が静かな街へ溶けていく頃にも、墓碑の二文字は消えなかった。
母が与えた名も、家族と過ごした時間も、誰かに愛された過去も、どこかへ捨てられたわけではない。
ただ、その夜、白い墓碑の上で眠っていたのは――
エナ
彼女が、自分で選んだ名前だった。




