第8節 ― 呼ばれたい名
再度の終名聴取は、翌朝の墓域で行われた。
夜のあいだに降りた薄い霧が、白い墓碑の根元へまだ残っている。遠くでは墓碑師が道具箱を開く音がしていたが、名前の消えた墓の周囲だけは作業を止めてもらっていた。新しい刻字は加えず、台座の隙間や石畳に残った白い粉も、そのまま保全してある。
墓前には、ミラとユエルが並んでいた。
二人の間には、人ひとりが立てるほどの空間が空いている。ミラは両手で白花を抱え、昨日よりも目元に疲れを残していた。ユエルも何度か母へ視線を向けているが、声をかけようとはしない。姉の名前をめぐって、それぞれが違うものを守ろうとしていたことを知ったあとでは、以前と同じ距離へ簡単に戻ることもできないのだろう。
リシェは二人の正面で調査帳を開いた。
「これから、墓碑を介して再度の終名聴取を行います。最初の聴取では明瞭な名が採れていません。今回は、確認できている二つの名前をそれぞれ呼び、残響の差を確かめます」
ミラの指が、白花の茎を少し強く握った。
「二つ?」
「《エレナ=セルディス》と、《エナ》です」
母と弟が、ほとんど同時に反応した。
ミラは何かを言いかけたが、声にはしなかった。対してユエルは、姉が生前選んだ呼び名が正式な聴取対象として扱われることを確かめるように、リシェを見つめている。
「結果が出ても、この場で葬送名を変更するわけではありません」
リシェは続けた。
「終名聴取で分かるのは、死者にどの名が、どのように残っているかです。その人の生前すべてを一つの名前で決めるためのものではありません。まず、今起きている異常が何に反応しているのかを確認します」
説明を終えると、少し離れた位置にいたアスターが墓碑を眺めたまま手を上げた。
「今日は僕、触らないからね」
「当然です」
「先に宣言しておけば評価されるかなって」
「終わってから考えます」
「褒めるかどうかも審査制なんだ」
アスターは小声でぼやいたものの、それ以上墓碑へ近づかなかった。
台座の周囲には、昨日採取したものと同じ白い粉がまだ僅かに残っている。リシェはそこを避けて正面へ膝をつき、手袋を外して白い石へ掌を重ねた。
夜気を含んだ冷たさが、じわりと皮膚へ移ってくる。
最初にこの墓碑へ触れた朝には、名前を聞き取るより先に、何かが遠ざかるような感触があった。
言葉にするなら、――ここではない。
あの時は、それ以上を掴めなかった。
今は違う。
何が遠ざけられ、何がここへ残ろうとしているのかを確かめるために、もう一度触れている。
リシェは呼吸を整え、目を閉じた。
墓域を歩く靴音が遠ざかり、花弁を揺らす風や、墓碑師の金具が一度だけ触れ合う音も次第に薄れていく。最後に残ったのは、掌の下にある石の冷たさと、そのさらに奥へ沈んでいる曖昧な気配だけだった。
まず、正式に記録された名を呼ぶ。
「エレナ=セルディス」
声が白い墓域へ落ちる。
すぐには何も返らなかった。
リシェは焦らず、残響の底へ意識を沈めていく。
完全な無音ではない。
長い年月、何度も呼ばれてきた名だ。母の声も、家の中で過ごした時間も、その名前から完全に切り離されてはいない。
ただ、遠かった。
いくつもの部屋を隔てた先から自分を呼ぶ声を聞くような、薄い距離がある。嫌悪のような鋭い拒絶はない。名前を押し返そうとする力も感じない。
そこにはある。
しかし、今いる場所からは遠い。
リシェは少し呼吸を置いてから、今度は名だけを呼んだ。
「エレナ」
石の奥で、ごく淡い揺れが生まれた。
母に手を引かれて歩く幼い少女の気配。熱を出した夜、額へ触れる手の温度。誰かに名を呼ばれ、まだ幼い身体が顔を上げる感覚。それらは鮮明な記憶ではなく、長い時間の中でその名に触れてきた痕跡として、薄く重なっていた。
ミラが息を呑む。
「何か……ありますか」
リシェは目を閉じたまま答えた。
「あります」
「なら――」
「もう少し待ってください」
そこでミラは口を閉じた。
リシェは墓碑へ置いた手を離さず、次の名を呼ぶ。
「エナ」
掌の下で、残響がこちらを向いた。
墓域に風が吹いたわけでも、石が動いたわけでもない。それなのに、先ほどまで遠くにあったものが、一歩だけこちらへ近づいたように感じられた。
最初に届いたのは、朝の気配だった。
窓から白い光が差し込み、誰かが呆れた声で「エナ、起きろ」と呼んでいる。寝台の布が動き、眠ったままの女性が腕だけを外へ出して何かを返す。その名を聞いて、自分が呼ばれているのかを確かめる間さえない。声が向けられた先が自分であることを、身体の方が先に知っている。
次に、細かな雨音が重なった。
軒下から《エナ》と呼ばれる。濡れた髪を頬へ張りつかせた女性は、考えるより先に振り返り、呼んだ相手を見つけると笑った。顔も声もすべてが残っているわけではないのに、呼ばれた名と振り返る動作だけが奇妙なほど自然に繋がっている。
残響はさらに形を変え、筆を持つ指先へ移った。
荷札に記された《エレナ=セルディス》へ一本の線が引かれる。その横へ、迷いのない手つきで《エナ》と書き添える。怒りに任せて塗り潰すような勢いも、過去を断ち切ろうとする大げさな決意もない。ただ、自分の荷物へ自分の名前を書き直すような、日常の動作だった。
最後に重なったのは、ユエルの声だった。
今より少し幼い声が、まだ慣れない調子で「エナ姉ちゃん」と呼ぶ。その呼び方に、一瞬の間を置いて小さな笑いが返る。
終名聴取が見せるのは、過去そのものではない。
呼ばれた名に残った反応や、死者自身がその名へ触れた感覚が、断片として返ってくるだけだ。
それでも、今回は十分だった。
先ほどの名には距離があった。
こちらには、振り返る動きがある。
リシェはゆっくりと目を開けた。
白い墓碑と朝霧が視界へ戻ってくる。ミラもユエルも、何も言わずこちらを見ていた。
「どうでした」
先に尋ねたのはユエルだった。
リシェは石から手を離し、冷えた指を一度握り直した。聴取で拾ったものと、自分の解釈を混ぜないよう、得られた事実から順に言葉へする。
「《エレナ=セルディス》にも残響はあります」
ミラの肩がわずかに動いた。
「完全な拒絶ではありません。嫌悪によって押し返される感触もありませんでした。幼い頃から呼ばれていた名前として、ご家族と過ごした時間に結びついて残っています」
ミラは白花を抱えたまま、墓碑へ視線を落とした。
「じゃあ、あの子は……あの名前を嫌っていたわけではないんですね」
「そこまでは判断できません」
リシェは静かに答えた。
「好きだったとも、嫌いだったとも、この聴取だけでは決められません。ただ、その名前が彼女の中から消えているわけではありません」
ミラは何も返さなかった。
白花の茎を握る指だけが、僅かに緩む。
「《エナ》は?」
ユエルが訊いた。
「こちらには、よりはっきりした呼応がありました」
「呼応……?」
「友人から呼ばれて振り返る感覚があります。あなたの声にも応じています。それから、自分で《エナ》と書いている残響も」
ユエルの目元が赤くなった。
彼はすぐに何かを言おうとはせず、何度か瞬きをしてから、名前の消えた墓碑へ視線を移した。
「……そうですか」
短い返事だった。
安堵だけではない。
自分が守ろうとした姉の名が、確かに姉自身へ繋がっていたことへの安堵と、そのために自分が別の処理を選んでしまった苦さが、同じところにあるように見えた。
ミラは弟を見た。
その視線に気づいても、ユエルは「ほら」とは言わなかった。
ただ墓碑を見ている。
リシェも調査帳を開いた。
これまで集めたものを、頭の中で一つずつ重ねていく。
最初に薄れたのは、《セルディス》という家名だった。
墓碑でも、手紙でも、勤め先の名札でも、公的な《エレナ=セルディス》に近い形ほど消失が進んでいた。
それに対して、友人の走り書きや弟との手紙に残された《エナ》は消えていない。
白紙返しだけが働いているなら、この差は不自然だった。
死者の名を周辺の記録から遠ざけていく処理であるなら、《エナ》だけがこれほど明瞭に残り続ける理由がない。
しかも終名聴取では、残った名へ実際に呼応がある。
空名会が持ち込んだ処理とは別に、死者の側にも消えずに残っているものがある。
リシェはもう一度、白い墓碑へ指先を触れた。
冷たい石の奥には、先ほどの感覚がまだ薄く残っていた。
「この人は、名前をなくしたかったわけではありません」
ミラが顔を上げ、ユエルもリシェを見る。
「少なくとも、今残っている終名残響は、無名になる方へ向いていません。《エナ》と呼ばれた時に、こちらへ返ってくるものがあります」
「なら」
ユエルが僅かに前へ出た。
「姉ちゃんは、エナだったってことですよね」
リシェはすぐには頷かなかった。
「今の聴取では、《エナ》に最も強く応じています」
「同じじゃないんですか」
「違います」
ユエルの眉が寄る。
リシェは墓碑へ視線を移した。
「《エレナ=セルディス》という名前も、消えてはいません」
ミラが僅かに息を止める。
「その名で呼ばれていた時間があり、その名に結びついた記憶があります。だから、どちらか一方だけが本物で、もう一方が間違いだとは言えません」
「では……」
ミラの声が、途中で細くなった。
「私は、間違っていたんですか」
リシェは一度だけ息を置いた。
「娘さんを《エレナ》と呼んできたことが、間違いだったとは思いません」
ミラの瞳が揺れた。
「ただ、今も同じ名前で呼ばれたいのかどうかは、別のことです」
それ以上は言わなかった。
ミラも続きを求めなかった。
彼女は白い墓碑へ目を向け、やがて隣に立つユエルを見た。何か言葉を探しているように唇が動いたが、声にはならない。
ユエルも、母を責めなかった。
二人の間にある距離は、来た時とほとんど変わっていない。
それでも、同じ白い墓碑を見ている。
遠くから、朝の眠りの鐘が響いた。
低い音が墓域を渡り、霧の中に並ぶ墓碑のあいだをゆっくり抜けていく。
リシェは調査帳へ視線を戻し、得られた事実だけを書き留めた。
《エレナ=セルディス》――残響あり。遠い。拒絶反応なし。
《エナ》――明瞭な呼応あり。生前使用の複数残響と一致。
そこまで書いて、筆先を止める。
白紙返しによる消失と、死者側に残る呼応が干渉している可能性は高い。墓碑から名が消え続けた理由も、《エナ》だけが私的な記録へ残り続けた理由も、今なら一つの流れとして捉えられる。
それでも、最後の裁定欄は空けた。
どの名前を残すのか。
どの名前を墓碑へ出すのか。
公的な記録をどう扱うのか。
それは、終名聴取とは別に決めなければならない。
「ベルレインさん」
ミラが呼んだ。
リシェが顔を上げる。
「墓には……どちらを書くんですか」
白花を持つ指が、また少しだけ強くなる。
ユエルも答えを待っている。
リシェは白い墓碑を見た。
今なら、急いで文字を刻む必要がないことだけは分かる。
「まだ書きません」
ミラの目が僅かに見開かれた。
「聴くところまでは終わりました。何を残し、何を墓碑へ出すかは、それを踏まえて決めます」
ユエルも反論しなかった。
アスターは少し離れたところから、何も刻まれていない墓碑を見ていた。いつもなら空白を見ると何か一言挟む彼も、今は黙っている。
リシェは調査帳を閉じた。
白い墓碑には、まだ名前がない。
けれど、それはもう「分からないから空いている」空白ではなかった。
呼べば振り返る名がある。
そのことだけは、もう確かめられていた。




