第7節 ― 白い弔い
下層街の遺族支援所は、リシェが想像していたよりもずっと騒がしかった。
墓域から南へ下り、葬送庁街区の整った石造りの建物が途切れた先に、その古い二階建てはあった。入口には白布も紋章もなく、《遺品整理・葬送費用相談》と書かれた小さな木札が吊られているだけだった。扉を開けると、香の匂いより先に煮出した茶と古着の乾いた匂いが鼻へ届く。壁際には大人用と子ども用に分けられた衣服が畳まれ、棚には持ち主の分からない遺品箱が番号順に並んでいた。窓辺の籠には、墓へ供えるための白い喪花が束ねて置かれている。
「……普通だね」
リシェの半歩後ろで、アスターが声を潜めた。
「何を期待していたんですか」
「白装束の人が十人くらい並んで、僕らを囲むとか」
「帰りますか?」
「まだ入ったばかりなんだけど」
軽く返しながらも、アスターの視線は室内を忙しく動いていた。
空名会。
その名だけを聞けば、墓碑から死者名を消し、白紙返しを行う者たちを先に思い浮かべる。空欄の棺の周囲に残っていた白い粉も、アスターの輪郭を削った異常も、リシェにとってはまだ新しい記憶だった。
けれど、目の前にあるのは秘密の儀式場ではない。
受付机では、腰の曲がった老人が若い職員と帳面を挟んで話していた。
「だから、棺まで一番高いのにしなくていいんです。あいつ、見栄張るの嫌いだったから」
「一番安いものを選ぶ必要もありませんよ。市の補助を使えば、花と運搬費まではこちらで出せます」
「いや、それでも悪いだろ」
「払える人が少し多く払った分です。こういう時に使わないと、帳面を作った意味がありません」
老人は何度か渋った末、提示された額を見てようやく頷いた。帰り際には窓辺の籠から白い花を一本渡され、「これは金を取るなよ」と念を押している。
その横では、子どもを連れた女性が古着を選んでいた。黒い喪服の袖を子どもの腕へ合わせ、少し長いと笑って折り返す。奥の机では、別の女性が遺品箱を開き、残された服を故人の家族へ返すものと寄付へ回すものに分けていた。
死者の名を消す者たちの場所というより、死んだあとに残る細々とした困り事を、生きている人間の手で片づけている場所に見えた。
「死者名記録庁の方ですね」
声をかけてきた女性は、三十歳前後に見えた。
淡い茶色の髪を後ろでひとまとめにし、白い布の前掛けをつけている。宗教者らしい装飾は何もなく、片腕には古着を三枚抱えていた。
「ノエ=カルムさんですか」
「はい」
リシェが身分証を示すと、ノエは逃げも、取り繕いもしなかった。抱えていた衣服を近くの机へ置き、周囲を一度見回してから、奥の小さな相談机へ二人を案内する。
「セルディス家の件でしょう」
椅子を引きながら、ノエは先に言った。
「ユエルさんから聞かれましたか」
「本人から聞きました」
リシェが腰を下ろす。アスターはその横の空いている椅子へ座ろうとしたが、当然ながら椅子は沈まない。それでも座る姿勢だけ取って、机へ肘をつく真似をした。
ノエはリシェの隣へ一瞬視線を向けたものの、まずは問い返さなかった。
「白紙返しについて確認したいことがあります」
「分かりました」
「ユエル=セルディスさんから相談を受けたのは、あなたですね」
「私です」
躊躇のない返答だった。
「そして、処理を行える人物へ取り次いだ」
「はい。私が紹介しました」
リシェは筆を取ったまま、ノエを見る。
「否定しないんですね」
「否定しても、ユエルさんが困るだけですから」
ノエはそう答え、机の端に積まれた相談帳を一冊引き寄せた。
「ただ、先に一つだけ言っておきたいんです。あの子は、姉の名前を消したいなんて言ってませんでした」
「本人からも聞いています」
「セルディスを墓に出したくない。それだけでした。お姉さんが嫌がっていたから、と」
ノエの声には弁明する勢いがなかった。むしろ、何度も同じような相談を受けてきた人間の疲れた落ち着きがある。
「私は、それなら公開される名前を少し遠ざける方法がある、と伝えました」
「《白紙返し》を?」
「私は使えません。取り次いだだけです」
「《灰筆》へ?」
ノエはわずかに目を細めたが、否定しなかった。
「それ以上は、私から言えることではありません」
リシェは追及しなかった。今必要なのは組織の階層を洗い出すことではなく、エナの記録に何が行われたかを確かめることだった。
「なぜ取り次いだんですか」
「ユエルさんから話を聞いたからです」
「それだけで?」
「それだけで十分な人もいます」
ノエは相談帳を開いた。
個人名の欄へ布片が重ねられ、ここからでは読めないようになっている。その下には、支援内容だけが簡潔に並んでいた。
「この人は、葬送費用が足りませんでした。伴侶を送った直後で、自分の葬送に使う金を残したくないって言って、治療まで削っていた」
頁を一つめくる。
「この人は、死んだあとも罪名で呼ばれるところでした。本人が犯した罪ではなく、家族の罪にくっつけられた呼び名です。墓碑へそれを出さないようにする手続きを手伝いました」
さらに別の頁。
「こちらは、生前に家から逃げています。死後、本名と家名をそのまま公開すると、残した人たちの居場所まで辿られる可能性があった。だから名前を伏せた」
「記録庁の保護手続きではなく?」
「使えるものは使います」
ノエは帳面を閉じた。
「でも、間に合わない人もいる。証拠を揃えられない人もいます。家族だからという理由だけで、本名を知る権利があると思われてしまう人もいる」
窓口の方から、子どもの笑い声が聞こえた。
先ほど喪服を試していた子が、長すぎる袖を両手ごと振り回している。母親が「汚す前に脱いで」と慌てて追いかけ、その様子を受付の職員が笑っていた。
ノエも一瞬そちらを見て、少しだけ口元を緩めた。
「うちは、そういう人が来る場所です」
リシェは相談帳へ目を落とした。
どの話も、作り話には聞こえない。
名前を残すことで傷つく者がいる。
公に呼ばれることで危険になる死者も、遺族もいる。
記録庁にも名を伏せる制度はある。灰化許可院には、不当に人を縛る記録の効力を終わらせる手続きがある。それでも、そのどちらにも届かなかった者がこの場所へ来るのだろう。
名前を消す行為だけを見て、すべてを同じものとして切り捨てることはできなかった。
「名前で苦しんでる人から、名前を少し遠ざける」
ノエは静かに言った。
「それの何が悪いんですか」
リシェは返事をしなかった。
少し前の自分なら、もっと早く言葉が出たかもしれない。
記録は残さなければならない。
死者をなかったことにしてはいけない。
どちらも今でも捨てたわけではない。
けれど、ミラがつけた名前だけを墓碑へ固定した結果、エナとして暮らした五年間が表へ出なかったことも知っている。ユエルから「そっちだって勝手に決めた」と言われた言葉も、まだ消えていなかった。
隣でアスターが黙っている。
リシェは机に置いていた筆から手を離した。
「ユエルさんのお姉さまに」
ノエが顔を上げる。
「確認しましたか」
「……何をですか」
「その名前を、消してほしいのか」
部屋の音が遠くなったように感じた。
「《セルディス》で眠りたくないという言葉を、弟さんは聞いています。でも、《エレナ=セルディス》を記録から消してほしいと本人が望んだのかは、確認しましたか」
ノエの唇がわずかに開く。
返事は出なかった。
「本人は亡くなっています」
やがて、それだけを言った。
「はい」
「終名聴取でも、はっきりしなかったと聞きました」
「そうです」
「だったら、確認なんて――」
言いかけて、ノエは止まった。
リシェは責めるように続けなかった。
死者本人へ直接尋ねられないからこそ、記録官たちは残されたものを重ねて判断する。そして空名会もまた、残された言葉から本人のためだと思う答えを選んだ。
違うのは、何をもって「本人のため」とするかだけなのかもしれない。
けれど、そのわずかな違いが、今は母親の記憶にまで届いている。
「墓碑だけではありません」
リシェは鞄から記録を取り出した。
「勤め先の正式名札、家族が保管していた手紙、荷札からも《エレナ=セルディス》が薄れ始めています。今日、母親のミラさんは、墓前で数秒間、娘さんの出生名を思い出せなくなりました」
ノエの顔から色が引いた。
「……記憶まで?」
「はい」
「そんなはずは」
椅子の背から身体を離し、机へ手をつく。
「私が聞いていた処理は、墓碑と周辺の記録を薄くする程度です。家族の記憶へ入るなんて」
「《エナ》という呼び名は残っています」
ノエの動きが止まった。
「エナ?」
「本人が生家を出たあと、自分で使っていた名です。私的な手紙や友人の覚え書きでは、今もはっきり残っている。白紙返しで死者名全体を薄めているなら、この差は不自然です」
ノエはしばらく黙っていた。
先ほどまでの、支援所の仕事を説明していた時の落ち着きがなくなっている。指先が帳面の角を何度も撫で、目だけが机の上の一点を見つめていた。
「私、本当に……そんなことになるとは思ってなかったんです」
「ユエルさんも同じことを言いました」
ノエは目を閉じた。
「そうでしょうね。私が、大丈夫だと言ったから」
その声には、言い逃れの響きがなかった。
「嫌がっていた家名を墓から外すだけだって。死者を傷つける名前なら、少し遠ざけてやればいいって」
「処理をした人に連絡できますか」
ノエの目が開く。
今度はすぐに答えなかったが、迷っている理由は先ほどとは違って見えた。
「今起きていることを伝えてください」
「記録庁へ引き渡せって言うんですか」
「まず、止める方法を確認したいです」
リシェは調査帳を閉じた。
「今なら《エナ》は残っています。死者名簿も残っています。ミラさんの記憶も戻った。でも、次も戻るとは限りません」
ノエは唇を結び、窓口の方を見た。
無料の喪花を抱えた老人が、受付の若者へ何度も頭を下げている。古着を選んでいた母子は帰るところらしく、長すぎた喪服の袖がちょうどいい長さに縫い留められていた。
この場所で、自分たちは人を助けている。
その確信が嘘ではないからこそ、ノエは長く迷った。
「……伝えます」
ようやく言った。
「止められるかは、私には約束できません。でも、処理が広がっていることは伝えます」
「お願いします」
「あなたは」
ノエがリシェを見る。
「空名会が嫌いですか」
唐突な問いだった。
リシェは少し考えた。
「分かりません」
「分からない?」
「知らないものを好きとも嫌いとも決められません」
アスターが隣で小さく笑った。
「リシェらしい」
リシェはそちらを見ずに続ける。
「ただ、名前を消したことで助かった人がいることは、今日見ました」
ノエの目がわずかに揺れる。
「同時に、本人へ聞かないまま消すことを、正しいとも言えません」
「死者は答えられないこともあります」
「はい」
「残された人間が決めるしかない時もある」
「それも分かります」
そこまで答えてから、リシェはほんの少し間を置いた。
「だから、決める前に、できるだけ探します」
本人が何を残したのか。
誰にどう呼ばれていたのか。
何を嫌い、何を選んだのか。
答えそのものが残っていなくても、勝手に答えを置く前に探せるものはある。
ノエはしばらくリシェを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「記録官って、もっと話の通じない人たちだと思ってました」
「失礼ですね」
「すみません」
「否定はしませんけど」
「そこは否定しようよ」
アスターだけが楽しそうに口を挟む。
張っていた空気がわずかに緩み、ノエも困ったように笑った。
聞き取りを終え、リシェたちは入口へ戻った。
ちょうど相談に来ていた人々が途切れ、室内には古着を畳む音と、湯を沸かす小さな音だけが残っている。リシェは窓辺の無料の喪花へ目をやった。茎の短いものや少し花弁の欠けたものも混ざっているが、墓へ持っていくには十分な花ばかりだった。
「リシェ」
外へ出ようとしたところで、アスターが足を止めた。
「これ、曲がってない?」
胸元へ指をやる。
空欄の札に細い紐で結ばれた、小さな白札。
ルゼが《星屑》と書いた屑札が、外套の端に引っかかって少し傾いていた。
「自分では直せないんですか」
「できるけど、なんとなく気になって」
リシェが呆れながら手を伸ばしかけた、その時だった。
見送りに来ていたノエの視線が、アスターの胸元で止まった。
表情から、ほんの一瞬だけ何かが消える。
「……その札」
アスターが白札へ視線を落とし、それからノエを見た。
「何?」
ノエはすぐに瞬きをした。
先ほどの変化が錯覚だったかと思うほど、いつもの柔らかな顔へ戻る。
「いえ。なんでもありません」
リシェはノエを見た。
けれど、彼女はもう白札を見ていなかった。
入口の扉を押さえ、外へ出る二人を見送るだけだった。
下層街には午後の生活音が戻っている。路地の向こうでは食堂が遅い昼食の鍋を洗い、軒先では古着屋が値段をめぐって客と声を上げていた。少し先を、小さな白花を持った老人がゆっくり墓域の方角へ歩いていく。
リシェは数歩進んでから振り返った。
遺族支援所の扉はまだ開いている。
その向こうでノエは次の相談者を迎え、椅子を引いていた。墓碑から名を消す者の一人であると同時に、葬送する金のない誰かへ花を渡す人でもある。
「悪い人だった?」
隣を歩くアスターが訊いた。
リシェはしばらく答えを探したが、結局首を横へ振った。
「そういう分け方では、足りない気がします」
「じゃあ、難しい人?」
「それなら、私たちも大体そうです」
「記録官殿、急に範囲が広いなあ」
いつもの軽さが戻った声を聞きながら、リシェは歩みを止めなかった。
調査帳には、まだ書くべきことが残っている。
白紙返しだけでは説明できない、残り続ける《エナ》という名。
そして、本人に確認しないまま選ばれた二つの答え。
記録庁が残した名前と、空名会が消そうとした名前。
そのどちらでもなく、まず死者自身がどこへ応じるのかを、もう一度確かめる必要があった。




