第6節 ― 姉との約束
ユエルが墓域管理所へ着いた時、ミラは奥の休憩室で温かい茶を渡されていた。
母親が娘の名を思い出せなくなったと聞いて駆けてきたのだろう。入口をくぐった青年は、リシェへの挨拶もそこそこに奥を覗き込み、椅子に座る母の姿を確かめてようやく息を吐いた。額には汗が浮いている。墓域まで走ってきたらしく、上着の前も半分開いたままだった。
「今は思い出せています」
リシェが先に伝えると、ユエルは強く頷いた。
「……よかった」
「顔や思い出が分からなくなったわけでもありません。抜けたのは、今のところ名前だけです。ただ、同じことがまた起きないとは言えません」
その説明を聞く間、ユエルは何度も休憩室の扉へ目を向けていた。
ミラには墓域の女性職員がついている。具合そのものは落ち着いているし、すぐに帰宅させる状態でもない。ユエルに母のそばへ行ってもらうこともできたが、リシェにはその前に聞かなければならないことがあった。
「ユエルさん。少しだけ、お話しできますか」
青年の肩が、ごくわずかに強張った。
「また、姉ちゃんのことですか」
「はい」
「なら、ここで――」
「できれば、お母さまには聞こえない場所で」
リシェがそう告げると、ユエルの視線が初めてまっすぐこちらを向いた。
数秒の迷いのあと、「分かりました」と答える。
管理所の裏手には、墓碑師が道具を洗うための細い水路が通っていた。昼を過ぎた墓域には朝の霧もなく、水面に白い空が映っている。休憩時間らしい墓碑師たちの声が遠くから聞こえるものの、建物の影まで入れば会話の内容までは届かない。
リシェは水路脇で足を止めた。
アスターも隣へ来たが、今回は何も言わなかった。先ほどミラが娘の名を失いかけたところを見てから、彼はほとんど軽口を口にしていない。
ユエルは二人――彼にはリシェ一人しか見えていない――から少し離れたところで立ち止まった。
「母さんには、何かあったんですか」
「墓碑の前で、娘さんの出生名を数秒間思い出せなくなりました。その直前、墓碑周辺から白い粉を採取しています」
リシェは鞄から封じた保護紙を取り出した。開きはしない。外から見ても、中に白いものが薄く溜まっているのが分かる。
「以前、似た痕跡を見ています」
ユエルの目が保護紙へ落ちた。
「名前に関係する記録を周辺から薄くしていく処理です。公的な死者名簿そのものより、墓碑や写し、手紙、証言の方から先に変化する」
青年の喉が小さく動いた。
その反応を、リシェは見逃さなかった。
「《白紙返し》と呼ばれています」
ユエルは何も言わなかった。
水路を流れる水の音が、不自然なほどよく聞こえる。
「空名会を知っていますね」
問いではあったが、確認に近かった。
ユエルは俯き、両手を握った。否定するなら今だった。知らないと言えばいい。姉の手紙を隠していた時のように、話したくない理由はいくらでも作れる。
それでも、彼は否定しなかった。
「ユエルさん」
「……僕が」
掠れた声が落ちた。
「僕が相談しました」
アスターがわずかに顔を上げる。
リシェは急かさず、続きを待った。
「十日くらい前です。姉ちゃんの葬送が終わって、墓を見に行って……あそこに《エレナ=セルディス》って彫ってあるのを見て」
ユエルは唇を噛んだ。
「どうしても、駄目だった」
「空名会へ直接?」
「最初は遺族支援をやってる人に話しただけです。前から知ってました。葬送費が払えない人を手伝ったり、身寄りのない人の遺品を片づけたりしてるところがあるって」
「それが空名会だと知っていましたか」
「……名前くらいは」
完全な無知ではない。
だからこそ、ユエルの声には後ろめたさが滲んでいた。
「記録庁じゃ、もう決まったことだって言われた。墓もできてた。閉帳も終わってた。だから、ほかに頼めるところが分からなくて」
「何を頼みましたか」
ユエルはすぐには答えなかった。
リシェは視線を逸らさない。
先ほどなら、「まだ分かりません」で一度話を止めることもできた。けれど今は、ミラの記憶にまで異常が及んでいる。曖昧なまま帰すことはできなかった。
「姉ちゃんの名前を全部消してくれ、とは言ってません」
ユエルがようやく言った。
「そんなこと、頼んでない」
「では、何を?」
「セルディスを外してほしいって」
握られた指が、さらに強くなる。
「墓から、あの家の名前だけでも外してほしいって頼みました。《エナ》まで消せなんて言ってない。姉ちゃんがいたことまで消してくれなんて、一度も言ってない」
声が次第に強くなった。
言い訳を並べているようには聞こえなかった。むしろ、自分のしたことと今起きていることの間に、どうしてこんな距離が生まれたのか理解できずにいる声だった。
「向こうの人は、何と言いましたか」
「『その名前だけ少し眠らせましょう』って。墓にずっと出しておかなくていいようにできるって。姉ちゃんが嫌がってた名前なら、その方がいいだろうって」
「処理の内容は説明されましたか」
「細かいことは、何も。僕も……聞かなかった」
最後だけが小さくなる。
リシェは保護紙を鞄へ戻した。
「どうして、そこまで《セルディス》を外したかったんですか」
ユエルの顔に、今度は迷いが浮かんだ。
すでに姉がその名を嫌がっていたとは聞いている。だが、ユエルを無許可の処理へ踏み切らせたものが、それだけだったのか。
「姉ちゃんが家を出て、一年くらい経った頃です」
水面を見つめながら、ユエルが話し始めた。
「手紙だけじゃなくて、一度だけ会ったことがあって。母さんには内緒で。市場の外れの店で、二人で昼飯食べました」
その頃のユエルは十四か十五だったはずだ。
「姉ちゃん、前よりずっと笑ってて。髪も短くなってて、服も自分で選んだって言ってました。僕が《エレナ姉ちゃん》って呼んだら、露骨に嫌な顔して」
ほんの少し、口元が緩む。
「『せめてエナにして』って」
「その時から、そう呼ぶようになったんですね」
「はい。最初は変な感じでしたけど。そのうち普通になった」
ユエルは一度言葉を切った。
「帰りに、墓の前を通ったんです。知らない人の葬列がいて。姉ちゃんが急に、『私、死んでもセルディスでは呼ばれたくないな』って」
アスターの目が静かにユエルへ向いた。
「遺言として?」
リシェが確認する。
「違います」
ユエルは首を振った。
「そんな真面目な話じゃなかった。僕も『縁起でもないこと言うなよ』って笑って。姉ちゃんも笑ってました。ただ……」
そこで、声が止まる。
「本当に死ぬと思ってなかったから」
水路の向こうで、誰かが石を積む鈍い音がした。
「姉ちゃんが死んで、葬送名を決める時に、あの言葉を思い出したんです。僕は言いました。本人はエナを使ってた、セルディスは嫌がってたって。でも、終名聴取ははっきりしない、公的記録はエレナ=セルディスだって」
「その判断自体は、当時の記録から見れば――」
そこまで言って、リシェは止めた。
同じ説明はすでにしている。
そして、それがユエルに何を残したかも知っている。
「僕には、それで終わりだって言われたように聞こえました」
ユエルは続けた。
「姉ちゃんが何年エナで暮らしてたとか、何て呼ばれるのが嫌だったとか、そういうのより紙の方が強いんだって」
「紙が強いからではありません。確認できる情報の――」
「分かってます」
今度はユエルが遮った。
「分かってるんです。記録が必要なのも。誰かが好き勝手に墓の名前を決めたら駄目なのも。だから最初は、記録庁で通してもらおうとしたんです」
呼吸が荒くなる。
リシェは言葉を挟まず待った。
「でも通らなかった。母さんは《エレナ》だって言う。書類も《エレナ=セルディス》って書いてある。姉ちゃん本人はもう死んでて、言い返せない。だったら僕がやるしかないって……そう思ったんです」
自分が正しかったと言い切る声ではなかった。
けれど、後悔だけでもない。
「姉ちゃんが嫌がってた名前で眠らせたくなかった」
ユエルは顔を上げた。
「それだけです」
リシェは彼の表情を見た。
姉との約束を守ったつもりだったのだろう。
正式な遺言ではなかった。本人が葬送名としてエナを指定した記録もない。それでも、生前に笑いながら言った一言を、弟だけが覚えていた。
だから動いた。
その結果、墓碑だけでなく、手紙からも、名札からも、母親の記憶からさえ名前が薄れ始めている。
「だから、勝手に消したんですか」
リシェの声は、自分でも分かるほど硬かった。
ユエルの表情が変わる。
「勝手に?」
「本人が《名前を消してほしい》と言ったわけではありません。《セルディスで呼ばれたくない》と、《記録からその名前を消してほしい》は同じではないでしょう」
「でも――」
「あなたが頼んだ処理で、お母さまは娘さんの名前を思い出せなくなりかけました。手紙も名札も消え始めています。エナという名前まで巻き込まれる可能性がないとも言えません」
「そんなことになるなんて知らなかった!」
「知らなかったから責任がないとは言えません」
ユエルが息を呑む。
アスターは何も言わない。
いつもなら、リシェの言葉が少し硬くなれば横から一言挟んでくる。その彼が、今は水路脇の石壁へ寄りかかり、二人のやり取りをじっと見ていた。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ」
ユエルの声が震えた。
「姉ちゃんは嫌だって言ってた。僕はそれを知ってた。それでも、何もしないで《エレナ=セルディス》の墓を見てろって?」
「そうは言っていません」
「言ってるのと同じだろ!」
墓域の静けさへ、声が少し強く響いた。
ユエル自身も気づいたらしく、一度唇を閉じる。だが、もう引き返せなかった。
「勝手に消したって言うけど――」
彼はリシェを見た。
「そっちだって勝手に決めたじゃないか」
言葉が、そのまま胸へ入った。
リシェの指が、調査帳の縁で止まる。
「姉ちゃんは死んでた。自分で言えなかった。だから記録庁が、残ってる紙と母さんの話で名前を決めた。僕が『違う』って言っても、《証拠が弱い》って」
ユエルの目には怒りがある。
けれど、その奥にあるのはもっと単純なものだった。
姉がもう、自分の口で訂正できない。
その事実への悔しさ。
「僕が姉ちゃんの代わりに決めたのが駄目なら、記録庁だって同じじゃないか」
リシェはすぐに反論できなかった。
制度には理由がある。
本人が死亡し、終名聴取も不明瞭なら、生前記録、遺族証言、遺品、身元情報を照合し、最も確度の高い名を選ぶ。それをしなければ、死者の名を確定できない。
今回も手順そのものは守られていた。
だから、間違いではない。
そう言うことはできた。
けれどユエルの言葉は、手続きの正しさを問うているのではなかった。
本人が答えられない場所で、誰が代わりに答えを決めたのか。
そこだけを見れば、記録庁もまた、エナ本人の代わりに選んでいる。
アスターと出会った空白墓地で、リシェ自身が彼へ名前を与えたことが脳裏をよぎった。
アスター=ヴェイル。
あれも、生前の彼が選んだ名前ではない。
リシェが空白のままにできず、呼ぶために置いた仮名だ。
隣を見る。
アスターはリシェと目が合っても、何も言わなかった。
笑ってもいない。
ただ、待っている。
「……はい」
リシェはユエルへ視線を戻した。
「私たちも、決めました」
ユエルがわずかに目を見開く。
「だからといって、あなたがしたことが正しかったとは言いません」
言葉を急がず、リシェは続けた。
「今起きている異常を止めなければ、お姉さまが残したものまで失われるかもしれません。あなたが望んだ結果ではなくても、処理を依頼した事実は変わりません」
「……はい」
先ほどまでの強さが少し落ち、ユエルが俯く。
「でも、記録庁の裁定が正しかったから、元へ戻せばそれで終わりだとも、今は言えません」
顔が上がった。
「エレナ=セルディスという名を消すべきなのか。残すべきなのか。墓碑へ何を刻むべきなのか。まだ確認できていないことがあります」
「姉ちゃんのこと?」
「はい」
リシェはそれ以上を説明しなかった。
エナという呼び名へ残る弱い終名残響。
呼ばれれば自然に振り返った残響の中の女性。
それが何を意味するのかは、まだ確定していない。
先に答えを決めれば、結局また同じことをする。
「空名会へ取り次いだ人に会えますか」
ユエルの顔が硬くなった。
「捕まえるんですか」
「私は葬送法院の執行官ではありません」
「でも、記録庁に報告するでしょう」
「必要な報告はします」
リシェは誤魔化さなかった。
「ただ、今の目的は異常を止めることです。誰がどんな処理を依頼され、どこまで実行したのかを知らなければ、《エナ》まで消える可能性を否定できません」
その名前を出すと、ユエルの視線が揺れた。
しばらく迷った末、彼は上着の内側へ手を入れた。
取り出したのは、小さく折り畳まれた紙片だった。何度か開いたらしく折り目が白くなっている。
「直接の場所じゃないです」
「構いません」
「相談したのは、下層街の遺族支援所です。普通に葬送の相談もしてるところで……最初は、本当にそこへ相談しただけでした」
ユエルは紙を開きかけ、そこで手を止めた。
「その人、悪い人には見えなかった」
リシェは答えずに待つ。
「姉ちゃんの話も、最後まで聞いてくれた。記録庁で通らなかったって言ったら、『つらかったですね』って。僕が無茶なこと言ってるみたいな顔もしなかった」
紙片を持つ指が少し震える。
「だから、信じたんです」
「分かりました」
責めも慰めもせず、リシェは差し出された紙を受け取った。
安い紙だった。
表には遺族支援と遺品整理についての簡単な案内があり、葬送費用に困っている場合は相談に応じるとも書かれている。裏返すと、下層街の住所と、一人の担当者名が小さく記されていた。
**ノエ=カルム。**
アスターがリシェの肩越しから紙を見た。
何も言わない。
リシェも名前を読み上げず、その紙を調査帳の間へ挟んだ。
「ありがとうございます。お母さまのところへ戻ってください」
「ベルレインさん」
ユエルが呼び止める。
「姉ちゃんの名前……戻せますか」
すぐに「はい」とは言えなかった。
何を戻すのかさえ、まだ決まっていない。
消え始めた《エレナ=セルディス》なのか。残っている《エナ》なのか。それとも、そのどちらも失わずに置く方法があるのか。
「戻せるものは戻します」
リシェは答えた。
「ただ、どの名前を墓碑へ戻すかは、まだ決めません」
ユエルはしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かりました」
管理所へ戻っていく背中を見送り、リシェは調査帳に挟んだ紙片へ指を置いた。
隣では、アスターがまだ黙っている。
「何か言いたそうですね」
「言わない方がいいかなって思ってる」
「珍しいですね」
「僕だって空気くらい読むよ」
軽く返したものの、いつもの笑い方には戻らなかった。
リシェは彼を見たが、問いかけはしなかった。
アスターもまた、自分では選んでいない名前を今持っている。
そのことを今ここで言葉にすれば、ユエルから投げ返された問いを、都合よく彼へ渡すことになる気がした。
だからリシェは、調査帳を閉じただけだった。
紙の間には、下層街の住所が残っている。
白紙返しを止めるためにも、エナが何を失いかけているのか確かめるためにも、次に聞くべき相手は決まった。
墓域の向こうで、午後の眠りの鐘が低く鳴り始めた。
リシェはその音が途切れるまで待ってから歩き出し、アスターも少し遅れて隣へ並んだ。




