第5節 ― 名前が薄れる
異常が墓碑の中だけに収まっていないと分かったのは、エナの部屋を出てから一刻もしないうちだった。
死者名記録庁へ戻ったリシェの机には、先に照会をかけていた帳票商から、小さな木製の名札が届けられていた。従業員が作業台につけるためのもので、裏面には店の管理印、表面には登録上の氏名が墨で記されている。立会人として一緒に戻ってきたリナは、それを見るなり「ああ、これ」と声を上げた。
「ずっと使ってたやつです。仕事場では誰もこの名前で呼んでなかったけど、登録だけは正式名だったから」
リシェは名札を保護布の上へ置き、窓際から差し込む昼の光に傾けた。表面には確かに文字がある。けれど《エレナ=セルディス》のうち、家名はほとんど白木の色へ溶け込み、名の方も輪郭がところどころ途切れていた。
「朝は、まだ読めたそうです」
届けに来た帳票商の職員が困った顔で言う。
「店長が、死者の名札を勝手に捨てるのもどうかって残してたんです。昼前に棚を整理してたら、急にこんな感じになってて。擦ったとか、水に濡らしたとかじゃありません」
リシェは手袋越しに表面を確かめた。墨が剥がれたなら繊維に跡が残る。削ったなら木目が荒れる。どちらもなく、文字だけが木の中へ沈むように失われていた。
「リナさん。仕事場で《エナ》と書かれているものは残っていますか」
「ありますよ。というか、そっちの方が多いです」
リナは自分の鞄を探り、折り畳まれた小さな紙を何枚か取り出した。勤務交代の覚え書き、菓子代の割り勘、誰かが急ぎで残した伝言。そのどれにも、気軽な筆跡で《エナ》と書かれている。
文字は残っていた。
黒く、はっきりと。
アスターが横から名札と紙片を見比べ、腕を組んだ。
「ずいぶん露骨だね」
「何がですか」
「長い方だけ嫌われてる」
「長さで判断しないでください」
「じゃあ家名?」
リシェは答えず、受け取った資料を机の上へ並べた。
ユエルから預かった手紙。エナの部屋に残されていた古い荷札。勤め先の正式名札。そこへリナが持ってきた私的な走り書きを加える。並べてみると、違いは見落としようがなかった。
正式な名として記された《エレナ=セルディス》は薄れている。
本人が選んで使っていた《エナ》は、残っている。
「これだけなら、誰かが特定の名前を消そうとしてるって考えられる?」
アスターが訊いた。
「可能性はあります」
「でも墓は全部消えたよね」
「はい」
墓碑には《エレナ=セルディス》と刻まれていた。その文字は、一度薄れ、墓碑師が刻み直し、翌朝には名前全体が平らな白石へ戻っていた。
リシェは机の端に置いた照会票を取った。
「本帳は?」
アスターが尋ねる。
「先ほど再確認を依頼しました」
「まだある?」
「あります」
返事をした直後、閲覧室から書記官が一枚の確認票を持ってきた。リシェは礼を言って受け取り、記載された照合結果へ目を落とす。
死者名簿。
エレナ=セルディス。
閉帳記録あり。文字欠損なし。照合印にも異常なし。
公的な死者名簿だけは、変わらず残っていた。
リシェは確認票を持ったまま、机の上に並ぶ薄れた文字へ目を移した。
似ている。
空欄の棺を調べていた時、墓碑や葬送札、周辺の写しから先に名が抜け落ちていった。正式な帳を一息に消すのではなく、その名へ繋がる周縁の記録を一つずつ薄くしていくやり方。
空名会が扱う《白紙返し》。
「嫌な顔してる」
アスターの声に、リシェは顔を上げた。
「普通の顔です」
「その眉間で?」
「考えています」
「それを嫌な顔って言うんじゃない?」
リシェは相手にせず、調査帳を開いた。《白紙返し》と断定するにはまだ早い。類似しているだけなら、別の異常である可能性も捨てられない。
それに、似ていないところが一つある。
「もし《白紙返し》なら」
声に出すと、アスターが机へ少し身を寄せた。
「何?」
「《エナ》も残る理由がありません」
リナが二人分の沈黙を一人で受けるように、リシェを見た。
「エナも?」
「死者の名そのものを白紙へ近づける処理なら、正式記録か私的な呼び名かを選んで残すとは限りません。少なくとも、エナという呼び名だけがこれほど明瞭に残っているのは不自然です」
「じゃあ、別のものが起きてるってことですか」
「まだ分かりません」
リシェは薄れた名札を保護紙へ戻した。分からないものを分かった形に整えるのは、記録ではない。
そこへ、受付側から靴音が近づいてきた。若い書記官が扉から顔を出し、「ベルレイン記録官」と呼ぶ。
「セルディス家から急ぎの連絡です。保管していた手紙にも変化が出たそうです。それと、墓碑管理局からも」
「墓碑に?」
「また変化があったわけではないそうです。ただ、遺族の方が現地に来ているので、一度確認してほしいと」
リシェは机の資料をまとめた。
「行きます」
「僕も?」
アスターが訊いた。
「聞く必要がありますか」
「一応、同行許可を」
「出していません」
「ほら、やっぱりないんだ」
その軽口を背中で聞きながら、リシェは鞄を閉じた。
墓域へ戻る頃には、朝の霧はほとんど晴れていた。
白い墓碑は昼の光を受け、朝よりも輪郭をくっきり見せている。墓碑師たちの作業音が遠くに響き、供花を売る子どもが墓域の入口で客を呼んでいた。死者の名が消えている場所から数列離れれば、いつもと何も変わらないネム=レクスの日常だった。
問題の墓碑の前には、ミラ=セルディスが立っていた。
朝に会った時と同じ黒い上着を着ている。片手には新しい白花があり、もう片方には数通の手紙を抱えていた。
「ベルレインさん」
リシェを見ると、ミラはすぐ歩み寄ってきた。
「これを見てください」
差し出された手紙は、ユエルが隠していたものではない。家へ残っていた、まだエナが若い頃の手紙や、公的な通知に近いものだった。
「今朝までは読めたんです」
一通を開く。
文面は残っている。
けれど宛名の横にあったはずの差出人欄から、《エレナ=セルディス》の文字だけが薄く抜け始めていた。別の紙では《セルディス》がほぼ消え、《エレナ》も最初と最後の文字が霞んでいる。
「こんな……紙が古いからじゃありません。ずっと箱に入れてあったんです。ほかの文字は何ともないでしょう?」
「はい」
リシェは一枚ずつ確認した。
確かに同じだ。
家に残る書類でも、正式な名前ほど消失が進んでいる。勤め先の名札、荷札、手紙。場所も材質も違うものから、同じ名だけが抜け落ち始めている。
「墓は朝のままです」
ミラが白い墓碑を見た。
「何度見ても、何もない。昨日までは、あの子の名前があったのに」
声に疲れが混じっていた。
リシェは墓碑へ近づいたが、すぐには触れなかった。石そのものより、まず周囲を確かめる。供花台、土、台座の隙間。朝には夜露で分かりにくかった場所が、今は乾いている。
そこで、白石の根元に別の白さがあることに気づいた。
粉だった。
石粉にしては細かすぎる。指で擦った跡のように、一部が墓碑の周囲へ淡く散っている。光の当たり方によっては石と見分けがつかないほど白い。
リシェの身体が先に反応した。
「アスター、待って」
ちょうど墓碑の横へ回り込み、しゃがもうとしていた少年が止まった。
「まだ何もしてないよ」
「近づかないでください」
「見るだけ」
「それで触りましたよね」
「今回は触らないって」
アスターは不満そうに眉を上げた。
「過保護じゃない?」
「一度消えかけた人が言わないでください」
返事はほとんど反射だった。
空欄の棺のそばで、白紙化の痕跡へ触れたアスターの指が透け、名前さえ掴めなくなりかけた時の感触がまだ鮮明に残っている。彼自身は軽く言うが、リシェにはもう一度確かめる気などなかった。
アスターは一瞬ぽかんとしたあと、少しだけ口元を上げる。
「人って言ってくれた」
「そこですか」
「大事じゃない?」
「今は大事ではありません。下がってください」
「はいはい」
それでも素直に二歩下がったので、リシェはそれ以上言わなかった。
黒手袋を替え、紙片を一枚取り出して、白い粉を直接触らないよう慎重に掬う。粉は重さをほとんど感じさせず、保護紙の上でも輪郭がぼやけて見えた。
白い粉。
名前を失う記録。
本帳より先に薄れる周辺の記録。
別々だった違和感が、同じ方向を指し始めている。
「これ、知ってるものなんですか」
ミラが訊いた。
リシェは保護紙を折りたたみ、封をした。
「似たものは見たことがあります。ただ、同じものかは検分してからです」
「娘の名前が消えたことと関係が?」
「可能性はあります」
ミラは墓碑へ視線を戻した。
白い石には、何も刻まれていない。
しばらくその表面を見つめてから、彼女が口を開いた。
「エ……」
声が途切れた。
リシェは顔を上げる。
ミラは墓碑を見たまま、唇をもう一度動かした。
「エ……」
続かない。
先ほどまで普通に話していた女性の喉が、急に言葉の使い方を忘れたように止まっている。ミラ自身も何が起きたのか分からないらしく、眉を寄せ、目を伏せ、それからもう一度墓碑を見た。
「娘の……」
指先が白花の茎を強く握る。
「名前が……」
アスターからも軽口が消えた。
数秒だった。
たった数秒。
だが、ミラの顔から血の気が引くには十分だった。
「エレナ」
ようやく出た名前に、ミラ自身が息を呑んだ。
「エレナ。そう、エレナよ」
確認するように二度目を口にする。
「エレナ=セルディス。私の娘。私が……」
声が震えた。
これまでのミラなら、娘について何を訊かれても迷わず答えた。好きだった料理も、幼い頃に泣いた理由も、家を出たことさえ自分なりの言葉で説明していた。
その彼女が、娘の名だけを失いかけた。
「私がつけた名前なのに」
小さな声だった。
朝、家で聞いた時とはまるで違う。
あの時の《私たちがつけた名前ですから》には、揺るがない確信があった。今はその同じ事実に縋るように、ミラは何度も指先で花の茎を確かめている。
「忘れるはずないのに」
リシェはすぐに慰めの言葉を出せなかった。
忘れたわけではない。数秒後には戻った。
だが、戻ったから問題がないとは到底言えない。
「ミラさん」
リシェは彼女の正面へ回った。
「今、娘さんの顔は思い出せますか」
「もちろんです」
「子どもの頃のことは?」
「覚えています。何でも。エレナが初めて歩いた日も、学校へ行った日も、ユエルを抱いていたことも」
「《エナ》という呼び名は?」
ミラの表情がわずかに強張った。
「……知っています」
それは忘れていない。
関係も、記憶も、娘がいたという事実も失われていない。
抜けたのは、名前だけだった。
「今日は一人で帰らないでください」
「でも」
「ユエルさんに連絡します。それまで墓域管理所で休んでください。もしまた名前が出てこなくなったら、無理に思い出そうとせず、その時に何が思い出せて、何が出てこなかったかを職員へ伝えてください」
リシェの声音に、ミラは何か言い返しかけてやめた。手にした白花を墓碑へ供えようとして、名前のない石を前に一瞬動きを止める。
それでも花は置いた。
名が刻まれていなくても、その下に眠るのが誰かは分かっているように、台座の中央へ丁寧に整える。
リシェはその手元を見てから、もう一度足元の白い粉へ目を落とした。
墓碑だけではない。名札、手紙、荷札、そして今度は人の記憶。
空白が、紙と石の外へ出始めている。
「リシェ」
アスターが少し離れた場所から呼んだ。
「これ、《白紙返し》?」
「似ています」
「でも《エナ》は残ってる」
「はい」
「じゃあ、何か変だね」
リシェは頷いた。
その一点が、どうしても合わない。
消えているのは、エナという女性に結びつくすべての名前ではない。《エレナ=セルディス》だけが、より強く、より速く薄れている。
そして白紙返しに似た痕跡が、墓碑の足元に残されている。
誰かが何かをした。
その可能性を、もう脇へ置いておくことはできなかった。
ミラが管理所の職員に付き添われて歩き出すのを見届けてから、リシェは調査帳を開いた。ユエルから聞いた言葉が、頁の中に残っている。
――姉ちゃん、それ以外で呼ばれるの嫌がってたから。
彼は葬送名に反対していた。
姉がエナを名乗っていたことを知っていた。
そして、母親には隠して姉と手紙を交わしていた。
それだけで何かを決めつけることはできない。けれど、今なら訊くべきことがある。
リシェは調査帳を閉じた。
「戻ります」
アスターが隣へ来る。
「記録庁?」
「その前に、ユエルさんへ」
「さっき話したばかりじゃない?」
「今度は別のことを聞きます」
リシェは封じた白い粉を鞄へしまい、名前の消えた墓碑へ最後に一度だけ目を向けた。
台座には、ミラが置いた白花が残っている。
その墓が誰のものかを、まだ誰も忘れてはいない。
だが、名前だけが先に遠ざかり始めていた。




