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第4節 ― 彼女がいた部屋

 エナが暮らしていた部屋は、セルディス家から歩いて二十分ほど離れた古い集合住宅の三階にあった。


 表通りから一本入っただけなのに、墓域の静けさはずいぶん遠い。階下では仕立て屋が布を叩き、向かいの窓から昼食を作る香草の匂いが流れてくる。石造りの階段には住人が置いた鉢植えが二つあり、その片方だけ妙に元気がなかった。


「そこ、踏まないでくださいね。大家さんが大事にしてるんで」


 鍵を開けながら言ったのは、エナの元同僚だという若い女性だった。


 名はリナ=ハルト。エナより二歳ほど年下で、生前は同じ帳票商で働いていたらしい。肩までの茶髪を後ろでまとめ、仕事着の上に薄い外套だけを羽織っている。


「死者が踏んでも枯れるのかな」


「試さないでください」


「僕、植物に嫌われるほど悪い死者じゃないと思うけど」


「善悪の問題ではありません」


 リナには聞こえていない会話を終えたところで、扉が開いた。


「まだ片づけてなくて。というか、片づけられなくて」


 彼女は少し申し訳なさそうに笑った。


「どうぞ」


 リシェは一礼して中へ入った。


 最初に思ったのは、狭い、だった。


 次に、暮らしていたのだ、と思った。


 壁際に寝台。窓辺に小さな机。棚は二段しかなく、本と衣服と食器が同じ場所に押し込まれている。窓際には洗ったらしい布が一本だけ掛けられたままになっており、端が完全に乾いて硬くなっていた。


 机の上はさらにひどい。


 読みかけの本が裏返しに置かれ、その上に別の本が斜めに乗っている。筆記具は筒へ戻されず散らばり、菓子の包み紙まで一枚残っていた。


 アスターが室内を見回し、感心したように言った。


「うん。急に人間っぽい」


「何と比べていますか」


「お母さんの話」


 リシェは答えず、机の上へ視線を戻した。


 棚の端には、取っ手に細いひびの入った白いカップが置かれていた。捨てようと思えば、いつでも捨てられた程度の安物に見える。けれど底には何度も使った茶渋が残り、ひびのところだけ布で巻いて補強されていた。


「それ、何回言っても買い替えなかったんですよ」


 リナが気づいて言う。


「使えるからいいって」


「お気に入りだったんですか」


「別に。単に新しいの買うのが面倒だっただけです」


 即答だった。


 アスターが小さく吹き出す。


「ちょっと好きになってきた」


 リナは続けて、机の端から紙片を拾った。


「これもまだある」


 小さなメモだった。


 ――リナ 銅貨三枚

 ――給料日に返す

 ――忘れてたら殴ってよし


 その下に別の筆跡で、


 ――前もそう言って忘れた


 さらにその下に、


 ――今回は忘れない


 そして横へ、


 ――嘘つけ


 とある。


 リナは紙を見ながら笑った。


「結局、返してもらってないです」


「三枚」


「三枚です」


「請求されますか」


「誰にですか」


「ご遺族へ」


「嫌ですよ。死んだ同僚の家に行って、娘さんの借金ですって銅貨三枚取り立てる記録を人生に残したくない」


 それは確かにそうだった。


 リシェは調査帳へ書きかけて、やめた。


 アスターが覗き込む。


「書かないんだ」


「事件と関係ありません」


「死者の借金を見逃した」


「銅貨三枚です」


「額の問題なんだ」


「黙ってください」


 リナはそのやり取りには気づかず、今度は寝台を指した。


「あそこ、本当はもっとひどかったんですよ。亡くなったあとに一度だけ最低限まとめたんで」


「ひどいというと」


「朝」


 リナの口元に笑いが浮かぶ。


「朝だけは本当に使い物にならなかった」


 母親も似た話をしていた。


 寒い朝は何度起こしても寝台から出ない。


 だが、リナの話すエナは、その続きが違った。


「始業鐘の半刻前に起こしに来いって頼まれて、来るじゃないですか。起こすじゃないですか。返事はするんですよ。『起きてる』って。でも寝てるんです」


「器用ですね」


「目も開いてないですからね。三回目になると布団から腕だけ出して、『あと少し』って」


 リナは実際に腕を伸ばす真似をした。


「で、四回目に布団剥がすと怒るんですよ。頼んだの自分なのに」


「それでも起こしていたんですか」


「放っておくと仕事で困るの私たちなんで」


 言葉は呆れているのに、声は柔らかい。


 棚から服を引っ張り出して皺だらけのまま着てきたこと。給金日前になると昼食が急に質素になり、他人から菓子を一口ずつもらってしのいでいたこと。仕事中は愛想がよいくせに、自分から助けを頼むのは妙に下手だったこと。


「で、困ってる人には勝手に手を貸すんです。自分の仕事残ってても」


「家でも似たような方だったそうです」


「へえ」


 リナは少し意外そうな顔をした。


「家ではちゃんとしてたんですね」


「少なくとも、お母さまのお話では」


「エナがねえ」


 信じられないらしい。


 けれど、否定もしなかった。


 リシェは部屋を見渡した。


 母親の知る、弟の面倒を見る優しい娘。


 同僚の知る、朝に弱く、机を散らかし、小銭を借りたまま忘れる女性。


 どちらか一方が作られた人物像には見えなかった。


 人は、誰の前でも同じではない。


 リシェは机へ近づいた。


「遺品に触れてもよろしいですか」


「はい。記録庁の調査に必要なら」


「できるだけ動かしません」


 返事をしてから、隣を見た。


 アスターも机を眺めていた。


「何か気になりますか」


「……ちょっとだけ」


 いつもの軽い声ではあるが、視線が一つの物へ留まっている。


 机の端に置かれた荷札だった。


 古い紐がついたままの紙片で、何かの荷物から外して保管したものらしい。


 表面には薄く、


 **エレナ=セルディス**


 と記されている。


 その文字の中央を一本の線が横切っていた。


 さらに横へ、別の筆跡で短く書き足されている。


 **エナ**


「これ、触っていい?」


 アスターが訊いた。


 リシェは荷札を確認する。


 白紙化の異常が起きている可能性はある。アスターは記録を削るものに弱い。空欄の棺に残されていた白い粉へ触れた時には、彼自身の輪郭まで薄くなった。


「無理はしないでください」


「はい、記録官殿」


「違和感があったら、すぐ離すこと」


「分かった」


「本当に?」


「信用ないなあ」


「あります。少しだけ」


「増えたんだ」


 アスターが笑い、荷札へ手を伸ばした。


 指先が紙へ触れる。


 正確には、死者である彼の指が荷札の残響へ沈んだ。


 その瞬間、笑みが消えた。


 瞳の奥に、小さな光が揺れる。


「アスター?」


 返事がない。


 リナには彼の変化が見えていない。リシェは片手を軽く上げ、荷札には触れないままアスターを見守った。


 彼の輪郭が、ごくわずかに揺らぐ。


 部屋に吹いていなかったはずの風が、机の上の紙を一枚だけ鳴らした。


 アスターの意識が、残響の奥へ落ちる。


 朝だった。


 窓の隙間から白い光が差している。


 誰かが扉を叩く音。


「エナ、起きろ!」


 返事がない。


「聞こえてるでしょ!」


 寝台の布が動く。


 中から腕だけが伸びた。


「起きてる……」


「嘘つけ!」


 場面がほどける。


 雨。


 石畳を細かな水滴が叩いている。


 軒下から誰かが呼ぶ。


「エナ!」


 一人の女性が振り返る。


 濡れた髪が頬へ張りついている。


 何かを言われて、笑う。


 顔の細部までは残らない。


 声も形にならない。


 それでも、呼ばれた瞬間の動きだけは自然だった。


 自分を呼ばれた人間が、考えるより先に振り返ったような。


 また、途切れる。


 机。


 荷札。


 そこには、


 エレナ=セルディス。


 女の指が筆を持つ。


 躊躇なく、その上へ一本の線を引いた。


 黒い線。


 横へ書く。


 エナ。


 書き終えて、少しだけ眺める。


 指が文字の上を軽く叩いた。


 残響が切れた。


「――っ」


 アスターが一歩よろめいた。


 リシェはすぐ腕を伸ばしたが、触れる寸前で彼が机へ手をつく。死者の掌は木板をすり抜けかけ、それでも何とか姿勢を戻した。


「アスター」


「平気」


「顔色がありません」


「元々死んでるからね」


「そういう意味ではありません」


「うん。分かってる」


 いつもの返しが出たので、リシェは少しだけ息を緩めた。


 リナが怪訝そうにこちらを見る。


「どうしました?」


「少し確認を」


「荷札、何かありました?」


「まだ判断できません」


 嘘ではない。


 残響歩きで見えるものは、記録に残った断片だ。完全な過去そのものではない。まして、一つの場面だけで本人の葬送希望まで決めることはできない。


 リシェはアスターを見る。


「何が見えましたか」


「いくつか」


 アスターはまだ荷札を見ていた。


「朝、全然起きない。さっき聞いた通り」


「そこからですか」


「大事な人物情報でしょ」


「事件解決にはおそらく不要です」


「でも人としては大事」


 リシェは反論しなかった。


「ほかには?」


「雨の日。誰かに《エナ》って呼ばれてた」


 アスターは自分の耳を確かめるように少し首を傾げた。


「呼ばれて、普通に振り返ってた。なんていうか……考えてからじゃなくて」


 それから荷札を指す。


「これも見えた。《エレナ=セルディス》に自分で線を引いて、横に《エナ》って書いてた」


 リナが目を見開く。


「それ、たぶん本人です」


「心当たりが?」


「あります。あの荷札、店から部屋へ私物を送った時のものです。正式登録してる宛名じゃないと配送所が受けてくれなくて、エレナ=セルディスで出したんですけど……届いたあと、エナが『長い』って文句言ってたから」


「長さの問題だったんですか」


「たぶん半分は冗談です」


 リナが苦笑する。


「でも、それ以降も仕事場ではずっとエナでした。私も、他のみんなも」


 アスターはしばらく考えてから言った。


「こっちの名前の方が、慣れてる感じだった」


 軽い言葉だった。


 だが、リシェはその一言をすぐには書かなかった。


 慣れている。


 それは証拠としては曖昧だ。


 けれど、呼ばれて振り返るという身体の反応は、妙に胸へ残った。


「私も確認します」


 リシェは手袋を外した。


「それ使うの?」


「はい」


「さっき墓では、ほとんど聞こえなかったよね」


「墓碑と、生前使っていた遺品では残り方が違うことがあります」


「僕みたいに引っ張られたりしない?」


「あなたほど無防備ではありません」


「今の言い方ちょっと傷つく」


 リシェは荷札の端へ指を置いた。


 冷たい。


 墓碑よりずっと薄く、頼りない感触だった。


 目を閉じる。


 音を探す。


 紙の擦れる音。


 遠くの雨。


 机へ物を置く小さな振動。


 どれも記憶そのものではなく、死者が残した名の気配の周辺にあるものだ。


 リシェは声に出さず、心の中で呼ぶ。


 ――エレナ=セルディス。


 沈黙。


 完全な無ではない。


 どこか遠い場所に、その名前が存在していることだけは分かる。


 けれど、こちらへ返ってこない。


 もう一度。


 ――エレナ。


 やはり薄い。


 幼い頃から何度も呼ばれた名なら、何も残っていないはずはない。


 実際、わずかな重みはある。


 ただ、遠い。


 閉じられた部屋の向こうで聞いた声のようだった。


 リシェは呼び方を変えた。


 ――エナ。


 微かなものが返った。


 声ではなかった。


 言葉でもない。


 息。


 誰かが呼ばれて、振り返る直前に吸った、ほんの短い呼吸。


 それだけだった。


 リシェは目を開けた。


「どう?」


 アスターが近くにいる。


「《エレナ=セルディス》には、ほとんど反応がありません」


 リナの表情が少し強張った。


「《エナ》は?」


 リシェはすぐに答えなかった。


 荷札から指を離す。


「ごく弱い反応があります」


「じゃあ、やっぱり――」


「まだです」


 リナが言いかけたところで、リシェは静かに止めた。


「終名聴取としては弱すぎます。これだけで葬送名が誤っていたとは判断できません」


 リナは口を閉じた。


「すみません」


「いえ」


「でも……」


 彼女は部屋を見渡した。


 割れたカップ。


 散らかった机。


 干し忘れた布。


 読みかけの本。


「私たちにとっては、ずっとエナだったんです」


 リシェはその言葉も、今度は調査帳へ書いた。


 アスターが机の脇に立ち、荷札の二つの名前を見下ろしている。


「同じ人なのにね」


 小さな声だった。


 リシェは返事をせず、筆を走らせた。


 エレナ=セルディス。


 エナ。


 二つとも、一人の女性に繋がっている。


 どちらかが嘘だと決められるほど、リシェはまだ彼女を知らない。


 ただ、呼ばれた時の微かな息だけが、指先に残っていた。

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