第3節 ― エナ
ユエル=セルディスが帰ってきたのは、リシェたちが家を出て間もなくだった。
住宅街を抜ける角まで来たところで、後ろから駆ける足音が近づいてくる。振り返ると、細身の青年が片手で鞄を押さえながら走ってきていた。十九歳と聞いていたが、遠目にはもう少し幼く見える。黒髪は急いで整えたらしく前髪だけが妙に揃い、息を切らしているわりに、セルディス家の前へ視線を向ける動きだけが慎重だった。
「死者名記録庁の……ベルレインさん、ですよね」
「はい。ユエル=セルディスさんですか」
青年は頷き、膝へ手をついて二度ほど大きく息をした。
「母から、墓のことで記録官が来てるって聞いて。……まだ近くにいるかと思って」
「ちょうど聞き取りを終えたところです。あなたにも後ほどお話を伺う予定でした」
「だったら、今でもいいですか」
答えながらも、ユエルは家へ戻ろうとしなかった。
リシェが視線だけで玄関を示す。
「中でなくても?」
「外がいいです」
即答だった。
それから自分でも少し強すぎたと思ったのか、ユエルは鞄の紐を握り直した。
「母さんの前だと、たぶん……ちゃんと話せないから」
リシェは理由を問い返さなかった。
「分かりました」
近くに小さな休憩所があった。街路樹の代わりに細い白石柱が立ち、その足元へ季節の花が植えられている。墓域から流れてきた霧はもうほとんど消え、石の腰掛けには薄い陽が落ちていた。
三人――正確には、生者二人と死者一人で腰掛ける。
アスターは最初、ユエルの隣へ座ろうとしてから、さすがに聞き取り中の遺族へ近すぎると思ったのか、リシェ側へ移った。
「気を遣えるんですね」
「僕を何だと思ってるの」
「遠慮を覚え始めた死者」
「成長を褒めてくれてありがとう」
ユエルが不思議そうにリシェを見る。
「すみません」
「いえ……記録官の方って、独り言多いんですね」
「この人だけだと思うよ」
当然、その補足はユエルには聞こえない。
リシェは咳払いを一つして調査帳を開いた。
「お姉さまの墓碑から名前が消えた件について調べています。葬送時の記録では、あなたも遺族照合に立ち会っていますね」
「はい」
「エレナ=セルディスという葬送名についても」
ユエルの口元が固くなった。
「……はい」
「反対意見を出された記録があります」
「出しました」
短い返答だった。
先ほどミラと話した時とは違う。言葉数が少ないというより、一つ一つを余計なところへ転がさないよう慎重に置いているように見えた。
リシェは筆を止めた。
「理由を、改めて聞かせてください」
ユエルはすぐには答えなかった。
街路の向こうを、小さな葬列が通っていく。先頭の案内人が白杖を持ち、その後ろを数人の遺族が歩いていた。休憩所の前にいた人々が会話を止め、列が過ぎるまで道へ身体を向ける。
ユエルも黙って葬列を見送った。
最後尾の葬送灯が角を曲がってから、ようやく口を開く。
「エナって呼ばれたかったからです」
リシェの筆先が止まる。
「エナ」
「姉ちゃんの名前です」
「エレナではなく?」
「エナです」
ためらいがなかった。
ミラは一度も娘をそう呼ばなかった。
目の前の弟は、反対に一度も「エレナ」と呼ばない。
リシェはその違いを、調査帳へ書く前に本人へ返した。
「先ほどから、お姉さまをずっと《エナ》と呼んでいますね」
「……はい」
「いつ頃からですか」
「家を出て、少し経ってから」
ユエルは膝の上の鞄を開いた。
「姉ちゃん、それ以外で呼ばれるの嫌がってたから」
中から布張りの小箱が出てくる。
角が擦れ、何度も開け閉めした跡があった。ユエルは蓋へ手を掛けてから、一瞬だけリシェを見る。
「母さんには、これを持ってきたこと言わないでもらえますか」
「調査に必要な範囲で扱います。無関係な内容まで遺族間で共有することはありません」
「……役所の答えだ」
「役所なので」
アスターが隣で少し嬉しそうにする。
「気に入ってるね、その返し」
箱の中には手紙が十数通、束ねて収められていた。
新しいものほど紙の色が明るい。一番古い封筒だけは何度も開いたのか端が柔らかくなり、紐を解く指の跡まで残っている。
「姉ちゃんが家を出てから、送ってきたやつです」
「お母さまは?」
「知らないです。最初から」
ユエルは少し俯いた。
「母さんに見つかったら、姉ちゃんが手紙出さなくなる気がして」
リシェは最上段の一通を受け取った。
内容は、ごく普通だった。
仕事が忙しいこと。近所の焼き菓子が思ったよりおいしかったこと。ユエルが試験を控えていると知って、「落ちても死なないから寝ろ」と書いてあること。
文面の最後に、少し傾いた文字で署名がある。
**Ena**
リシェはそこを指先でなぞらず、紙面から少し距離を取って見た。
「ご本人が書いたものですね」
「はい。姉ちゃん、昔から字が汚くて」
「これで汚いなら、ルゼさんの公文書は災害ですね」
「誰?」
「お気になさらず」
アスターが笑いを堪えている。
もう一通を開く。
やはり最後は、Ena。
その次も。
家を出てから届いた手紙のほとんどに、その名があった。
どれも隠すような書き方ではない。装飾もない。新しい名を誇示している感じもなかった。ただ、自分の手紙へ自分の名前を書くように、自然に置かれている。
「この名前は、誰がつけたんですか」
「姉ちゃんです」
ユエルは答えた。
「最初に手紙が来た時、最後に知らない名前が書いてあって。誰だよって思って」
「訊かれた?」
「次の手紙で。そしたら、『私だよ、馬鹿』って」
ユエルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「自分で決めたって言ってました。エレナから少し取っただけだから、そんな大げさなものじゃないとも言ってたけど」
リシェは署名を見た。
出生名を全部捨てて、まったく違う人間になろうとした名ではない。
けれど、それをどう受け取るべきかは、まだ分からない。
手紙を戻そうとして、違和感に気づいた。
「……ユエルさん」
「はい?」
「こちらの署名は、最初からこの濃さでしたか」
差し出したのは、束の中ほどにあった一通だった。
文面は読める。
けれど末尾の署名だけが、薄い。
紙が日に焼けた薄れ方ではなかった。周囲の文字は黒いままなのに、Enaの輪郭だけが水に溶かした墨のように頼りない。
ユエルの顔から、先ほどまでのわずかな笑みが消えた。
「違います」
すぐに別の手紙を取る。
「昨日は……いや、一昨日は、もっと見えてました」
「他にもありますか」
「待って」
ユエルが箱の中を探り始める。
リシェも手袋をつけ、許可を取ってから一通ずつ確認した。
すべてが同じように薄れているわけではなかった。
私信として送られた短い手紙の署名は比較的はっきりしている。
ところが、家へ荷を送り返した時に添えられた受取控えや、本人確認のために公的な名前も併記した紙では、消失が進んでいた。
**エレナ=セルディス**
そこだけが、特に薄い。
隣へ本人が書き添えたEnaまで引きずられるように霞んでいるものもある。
「こっちは……」
ユエルが一枚の紙片を取り出した。
手紙というより、何かの包みに挟まれていた走り書きらしい。
――これ返す。あと三枚足りない。エナに請求して。
雑な字で、それだけ。
その「エナ」は、妙にはっきり残っていた。
リシェは三種類の紙を腰掛けへ並べた。
公的な名が記されたもの。
本人が弟へ送った手紙。
友人らしい誰かが書いた走り書き。
消え方が違う。
「墓碑だけじゃないね」
アスターの声から軽さが少し抜けた。
「はい」
リシェはごく小さく答えた。
名前そのものが無差別に消えているのなら、どこに書かれた文字も同じように失われるはずだ。
だが、そうなっていない。
少なくとも現時点では、正式な記録に近いほど変化が強いように見える。
「これ、墓と同じなんですか」
ユエルが訊いた。
「可能性はあります。ただ、まだ同じ原因とは断定できません。手紙は一度お預かりしても?」
迷いが顔に出た。
当然だと思う。
姉から来た手紙である。記録庁にとっては調査資料でも、弟にとっては違う。
「必要なものだけ選びます」
リシェは続けた。
「すべて持っていく必要はありません。こちらで状態を写し取り、返却もできます」
「……じゃあ、薄くなってるやつだけ」
「分かりました」
ユエルは何通かを分け、それから一番上にあった私信を箱へ戻した。
その時、リシェは尋ねた。
「葬送名選定の際にも、その話をしましたか」
「しました」
「お姉さまが《エナ》を自分で名乗っていたことを?」
「はい」
「通らなかった?」
ユエルは唇を噛んだ。
「……母さんが反対した」
アスターがユエルを見た。
リシェはすぐに返さず、調査帳の当時の記録を思い返した。
エレナ=セルディス。
出生記録あり。
遺体照合一致。
家族証言あり。
一方、エナという呼称には友人証言があり、弟からも申告されている。
だが正式な改名記録は存在しない。
終名聴取も弱く、死者本人が最期にどちらを望んだのかを確定できるほどの残響は得られていない。
「当時の記録では、エナという呼称が本人の葬送希望名だったことを示す証拠までは確認できていません」
「姉ちゃんはずっとそう名乗ってた」
「はい」
「手紙にも書いてある」
「それも大切な証言です」
「でも、足りなかった」
ユエルの声が硬くなる。
リシェは誤魔化さなかった。
「公的な出生記録と、ご遺族の証言の方が強かったのだと思います」
「母さんの、ですよね」
「お母さまだけではありません。正式な記録が残っています。本人の終名残響も弱かった。当時の担当者が、確認できる情報を重ねてエレナ=セルディスを選んだこと自体は――」
一度、言葉を選ぶ。
「当時の裁定として、不自然ではありません」
ユエルの肩が強張った。
「じゃあ、正しかったんですか」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
けれど、膝の上で拳が握られている。
「姉ちゃんが嫌がってた名前で墓に入れても、手順が合ってれば正しかったってことですか」
リシェは彼の目を見る。
ここで、制度を庇う言葉ならいくつでも言えた。
得られた証拠の範囲。
裁定時点での合理性。
死者名選定の原則。
けれど、それで目の前の問いへの答えにはならない。
「まだ分かりません」
ユエルの眉が寄った。
「分からない?」
「はい」
「記録官なのに?」
「記録官だからです」
リシェは膝の上の調査帳を閉じた。
「当時の判断に手続き上の不自然さがないことと、お姉さまがその名で眠りたかったかどうかは、同じではありません」
ユエルの拳が少しだけ緩む。
「だから調べます」
それ以上は言わなかった。
エナという名前を本人が選んだことは、分かった。
ただ、その名をどれほど大切にしていたのか。
エレナ=セルディスという名前を、本当に捨てたかったのか。
墓碑から名が消える現象と、その意思がどう繋がるのか。
答えはまだない。
リシェは預かった手紙を一通ずつ保護紙へ挟んだ。
最後に、薄れかけた署名が目に入る。
Ena
消えかけている。
そのすぐそばで、友人の走り書きに残された「エナ」は、まだ黒々としていた。
リシェは二つを見比べてから、静かに鞄を閉じた。




