第2節 ― 母がつけた名前
セルディス家は、墓域から二つ街区を下った古い住宅街にあった。
白い墓碑が並ぶ道を外れると、黒石の舗装は少しずつ狭くなり、家々の窓辺には洗濯物や鉢植えが増えていく。軒先で朝食の皿を洗う音がし、向かいの家では老人が葬送灯の煤を布で拭っていた。死者の街であっても、昼前の住宅街はよく働く生者の匂いがする。
呼び鈴を鳴らすと、扉はほとんど間を置かずに開いた。
「記録庁の方ですね」
ミラ=セルディスは五十歳ほどの、小柄だが姿勢のよい女性だった。喪の期間らしい黒い上着を着ているものの、髪はきちんとまとめられ、玄関にも埃ひとつ見当たらない。
「リシェ=ベルレインです。お時間をいただきありがとうございます」
「いいんです。墓碑のことでしょう? 朝、墓碑師さんから連絡がありました。さあ、外ではなんですから」
リシェが礼をして中へ入る。アスターもその脇を当然のように抜けようとしたが、ミラが扉を閉める手にぶつかりそうになって慌てて身体を引いた。
「危ない」
「何がですか?」
「いや、こっちの話」
リシェは小声で返し、何事もなかった顔で客間へ続いた。
部屋に入って最初に目についたのは、棚の上に並べられた写真だった。
幼い少女が大きすぎる帽子を被っているもの。歯が一本抜けたまま笑っているもの。まだ赤子だった弟を抱き、明らかに重そうな顔をしているもの。少し成長すると、学校服を着た姿や、家族四人で食卓を囲む写真も増えていく。
どれにも、同じ少女がいた。
エレナ=セルディス。
死者名簿に記され、墓碑から消えた名前の持ち主。
「かわいいでしょう」
ミラが茶器を置きながら言った。
問いかけというより、長い年月をかけて確かめ続けてきたことを口にしたような声音だった。
「この頃はまだ髪が癖っ毛で。毎朝、櫛を入れるだけで大騒ぎだったんですよ。痛い、引っ張るなって」
写真の一枚を手に取る。そこには十歳にもならない少女が、不機嫌そうに髪を二つに結ばれていた。
「泣き虫でした。転んだだけで泣くし、犬に吠えられて泣くし。なのにユエルが泣くと、自分はもう泣いていないふりをするんです」
「弟さんの面倒をよく?」
「ええ。六つも離れていますから。あの子、赤ん坊の頃は本当に手がかかって。私が夕食の支度をしているあいだは、エレナがずっと抱いていてくれました」
ミラはよく話した。
エレナは煮込み豆が嫌いで、肉だけ拾って食べたこと。甘い焼き菓子が好きだったこと。寒い朝は何度起こしても寝台から出ず、最後には毛布ごと床へ引きずり下ろしたこと。
十二歳の冬には熱を出した弟のそばから一晩離れなかった。十五歳の頃には近所の子どもへ読み書きを教えていた。十七歳になると家の買い物を任せられるようになり、値切るのが下手で、いつも市場の老婆に余計なものまで買わされて帰ってきた。
細かな話が途切れない。
何を食べたか。
どんな顔で怒ったか。
どの季節に風邪を引きやすかったか。
娘を知らなければ出てこない話ばかりだった。
リシェは必要以上に筆を走らせず、聞いたことだけを短く調査帳へ残していった。
「優しい子でしたよ」
ミラは湯気の立つ茶をリシェの前へ押した。
「あの子は、昔から自分より人のことを先に考える子で。頼まれれば断れないし、嫌なことがあっても我慢する。そういうところが心配だったんです」
アスターが写真棚の前で一枚ずつ覗き込んでいる。手に取ることはできないので、首を傾けたりしゃがんだりしながら、器用に角度を変えていた。
「この人、本当に写真だと全部真面目そうだね」
リシェは返事をせず、茶に口をつけた。
少し濃い。けれど、丁寧に淹れられている。
「家を出られたのは、二十歳頃ですね」
ミラの指が、ごくわずかに止まった。
「ええ。二十歳になって、少ししてからです」
それまで流れるように続いていた言葉の間に、初めて小さな空白が落ちた。
リシェは声の調子を変えずに尋ねる。
「家を出たあとは、どのくらい会われましたか」
「……いずれ戻ると思っていましたから」
答えが、問いからわずかにずれた。
リシェは筆先を紙へ置いたまま待った。
ミラは茶器の位置を整えた。もう十分に揃っている受け皿を、指一本ぶんだけ動かす。
「若い頃は、誰だって家族が嫌になることくらいありますでしょう? 自分だけで何でもできるような気になる時期もあります。エレナは少し頑固でしたから、一度家を出た手前、帰るに帰れなくなっただけなんです」
「直接会われたことは?」
「何度かは」
「五年間で?」
ミラの目が一度だけ伏せられた。
「……多くはありません」
先ほどまでなら、そこから具体的な日付や場所が出てきただろう。
けれど今回は続かない。
リシェは写真棚を見た。
エレナが幼い頃の写真は多い。学校を出る頃までもある。
そこから先が、ほとんどなかった。
一番新しい写真でも、今のリシェとそう変わらない年頃に見える。
「手紙のやり取りはされていましたか」
「最初の頃は。でも、あの子も意地を張っていたから」
「お勤め先は?」
「知っていました」
「現在の友人関係は?」
ミラの唇がわずかに固くなった。
「……家を離れてから付き合い始めた人たちのことまでは、全部は」
初めて出た、はっきりとした「知らない」だった。
リシェはそれ以上追わず、頁を一枚戻した。
「葬送時の記録では、ご友人の方々から別の呼び名について証言があります」
ミラの表情が変わる。
悲しみではない。
苛立ちとも少し違う。
よく知っているものを、他人から説明されることへの居心地の悪さに近かった。
「エナ、ですね」
「ご存じだったんですね」
「ええ。知っています」
ミラは少しだけ息を吐いた。
「あの子が勝手に使っていた呼び名です」
写真の中では、少女が弟の頭を撫でながら笑っている。
「どうしてその名前を使っていたのか、ご本人から聞かれたことはありますか」
「若い人は、そういうことをしたがるでしょう。髪型を変えたり、服を変えたり、呼ばれ方を変えたり。家を出たばかりでしたし、少し違う自分になりたかったんじゃないですか」
声は穏やかだった。
嘲る響きもない。
ただ、それが一時の気まぐれであったと、最初から決めている響きだけがあった。
「葬送名の選定では、《エナ》という呼び名も候補に上がっています」
「ええ。聞きました」
「その際、エレナ=セルディスを希望された」
「希望というより」
ミラはそこで言葉を切り、膝の上で両手を重ねた。
「当然だと思ったんです」
リシェは黙って続きを待った。
「あの子が生まれた時、私たちが何日も考えてつけた名前です。エレナ。呼びやすくて、きれいで、あの子に似合う名前をって」
声が少しだけ柔らかくなる。
「熱を出した夜も、その名前を呼びました。初めて歩いた時も。学校へ送り出した朝も。叱った時も、褒めた時も、ずっと」
ミラは笑おうとした。
けれど、目元だけが追いつかなかった。
「家を出たからって、それまでの二十年がなくなるわけじゃないでしょう?」
「はい」
リシェは否定しなかった。
ミラはその返事を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。
「娘の本当の名前はエレナです。私たちがつけた名前ですから」
その言葉にも、嘘はなかった。
リシェにはそう聞こえた。
支配したいからという一言だけでは片づけられない。写真を捨てず、服を畳んで残し、嫌いだった料理まで覚えている人間の声だった。
だからこそ、簡単には扱えない。
聞き取りを終え、リシェは立ち上がった。
「お時間をありがとうございました。墓碑の件はこちらで引き続き調査します。何か変化がありましたら、文字だけでなく、娘さんに関する記録や手紙にも異常がないか確認してください」
「手紙まで?」
「念のためです。異常の範囲がまだ分かっていません」
ミラは不安そうに写真棚を見たあと、すぐに頷いた。
「分かりました。あの子のものは、ほとんど残してありますから」
玄関まで見送られる。
靴を履いたところで、廊下の奥に掛けられた古い外套が目に入った。若い女性には少し地味な色で、袖口が丁寧に繕われている。
「あれも娘さんのものですか」
「ああ、ええ。十八の頃に着ていたものです。捨てようと思ったこともあったんですけど」
ミラは外套へ目を向け、ほんの少し笑った。
「戻ってきた時に、何もないのも寂しいでしょう」
リシェは一礼して家を出た。
扉が閉じる。
住宅街には昼前の光が差し始め、向かいの家では先ほどの老人が葬送灯を磨き終えたところだった。遠くで売り子が昼用のパンを呼び売りしている。
アスターはしばらく何も言わず、リシェの隣を歩いた。
角を一つ曲がり、セルディス家の扉が見えなくなったところで、ようやく口を開く。
「いいお母さんに見えるね」
「はい」
リシェは足を止めなかった。
幼い娘の髪を梳いた母親。
熱を出せば看病し、好物を覚え、帰る場所を五年も残していた母親。
そのどれも本物なのだろう。
だから、少し間を置いてから答えた。
「だから難しいんです」




