第1節 ― 名前のある死者
死者名記録庁の朝は、紙の音から始まる。
夜番から引き継がれた帳票が運ばれ、乾ききっていない墨の匂いが閲覧室へ流れ込む。窓の外では霧がまだ庁舎の尖塔にまとわりついていたが、一階の受付ではすでに遺族が番号札を受け取り、書記官たちが声を抑えて応対を始めていた。
リシェは閲覧台の前に立ち、借り出した死者名簿を慎重に開いた。
革表紙は厚く、頁の縁には閉帳済みを示す黒い線が走っている。今朝、墓域で名が消えていた死者の記録は、探すまでもなくすぐに見つかった。
> エレナ=セルディス
> 二十五歳
> リシェは指先で行を追う
> 死亡確認 済
> 遺体照合 済
> 遺族照合 済
> 搬入時記録 異常なし
> 葬送名選定 エレナ=セルディス
> 閉帳 済
> 墓碑登録 済
> 眠りの鐘による葬送完了確認 済
欄外の訂正印まで確認したが、書式上の欠落はなかった。墨の濃淡も自然で、後から名前だけを書き足した形跡もない。
「……きれいですね」
「死者の記録に言う感想としては、ちょっと怖くない?」
すぐ耳元で声がして、リシェは顔を動かさずに答えた。
「あなたの存在の方が、記録官としては怖いです」
「朝からひどいなあ」
アスターは閲覧台の反対側に回り込み、開かれた死者名簿へ顔を寄せた。覗き込むだけなら無料だと思っているらしい。
だが、数秒して眉を寄せる。
「……見えない」
「当然です」
「いや、紙は見えてるよ。文字だけ、なんかぼやける」
「死者名簿ですから」
アスターが顔を上げた。
「死者なのに?」
「あなたは載っていません」
「それ、本人に言うと結構刺さるよ」
あまりに素直に返されて、リシェの指が一瞬だけ止まった。
冗談らしく口元を上げてはいる。ただ、その笑みがいつもより少し浅いことに気づいてしまい、リシェは名簿へ視線を戻した。
「……調査帳には載っています」
「余白にね」
「載っていることには変わりません」
「慰め方が役所っぽい」
「役所ですから」
今度はアスターが小さく笑った。
それで十分だったので、リシェは続きを確認する。
正式記録にエレナ=セルディスという名がある。身元不明ではない。誰にも名前を知られないまま運び込まれた死者でもない。墓碑だけが空白になっているのに、帳面の中では彼女の名はあまりにも整然と眠っている。
空欄の棺を前に、どこを探しても名が見つからなかった時とは、まるで逆だった。
「死者名簿側に不整合は?」
背後から声が落ちてきた。
リシェは反射的に背筋を伸ばした。
「ありません、セイン主任」
オルヴァ=セインはいつものように皺ひとつない制服姿で、閲覧台の脇に立っていた。灰色の髪はきっちり後ろで束ねられ、眼鏡の向こうの視線が、まず名簿、次にリシェ、最後に彼女の隣の空間へ移る。
アスターが無言で一歩だけ横へずれた。
「……今、避けましたね」
「何のことでしょう」
オルヴァは答えず、白手袋の指で記録の一行を示した。
「閉帳番号」
「一致しています。墓碑管理局の登録番号も同一です。葬送時の照合記録にも訂正なし。遺体確認は二名、遺族照合は母親と弟です」
「終名聴取は」
「弱いです。明瞭な名は採れていません。ただし、当時の担当記録官は遺族証言と公的記録に矛盾なしとして処理しています」
「それ自体は珍しくありませんね」
「はい」
死者が全員、最期に自分の名を残すわけではない。呼ばれる余裕もなく死ぬ者もいれば、残響そのものが弱い者もいる。その場合は遺体、遺品、生前記録、遺族証言を重ねて名を確定する。
エレナ=セルディスについても、記録上は正規の手順が踏まれている。
オルヴァは頁から手を離した。
「墓碑だけが異常を起こしているなら、まず疑うべきは二つです。墓碑側の構文不良。あるいは、外部からの故意の改竄」
「墓碑師は、削った跡もないと言っていました」
「故意に消す者が、鑿で削るとは限りません」
穏やかな声だったが、その言葉でリシェの意識が仕事へ切り替わる。
空白は、自然に生まれるとは限らない。
「墓碑管理局には、私から照会を出しておきます。ベルレイン」
「はい」
「現場をもう一度確認してください。墓碑そのものだけではなく、供花台、拓本、管理記録、遺族が保管している写しまで。異常が墓碑に限定されているかを先に切り分けなさい」
「分かりました」
「それから、遺族への聞き取りも。名を消したい人間がいる可能性を除外しないこと」
リシェは頷き、名簿を閉じた。重い表紙が落ち着いた音を立てる。
アスターも、それを合図にしたように閲覧台から離れた。
「じゃ、行こうか」
「どこへですか」
「現場」
「私はあなたに同行許可を出していません」
「死者に外出許可ってある?」
リシェは答えに詰まった。
制度上、死者が死者名記録庁を出歩くことは想定されていない。正確には、普通の死者は記録庁へ出勤してこない。
「少なくとも、あなたに自由行動を認めた覚えは――」
「でも僕、昨日も普通に歩いてたよ」
「それは許可したのではなく、止められなかっただけです」
「なるほど。実績解除方式なんだ」
「何も解除されていません」
「なら、今日も止められなかったということで」
アスターが扉へ向かおうとしたところで、オルヴァの声が飛んだ。
「好きにしなさい」
リシェとアスターが同時に振り返る。
主任はすでに別の書類を手に取っていた。
「ただし、仕事の邪魔をするな」
アスターが自分の胸を指した。
「僕?」
「他に誰がいます」
「僕が見えてるみたいに言うなあ」
「見えていません」
「即答なのが怖いんだけど」
「ベルレイン」
「はい」
「異常があれば、独断で処理しないこと。墓碑に再刻印もしない。必ず一度、持ち帰って報告を」
リシェはわずかに姿勢を正した。
「承知しました」
名簿を返却用の布に包み、閲覧台から離れる。
その横へ、アスターがごく自然に並んだ。
許可されたわけではない。正式な調査員でもない。記録上は、今もどこにも存在していない。
それでも彼は、リシェが歩き出すのを待ってから同じ速さでついてきた。
「ところでさ」
「何ですか」
「エレナ=セルディスって人、ちゃんと名前あるんだね」
リシェは足を止めずに答えた。
「少なくとも、記録には」
「墓にはないのに?」
「だから調べます」
庁舎の正面扉が開く。
朝の霧と、市場の方角から流れてきた焼きたてのパンの匂いが、紙と墨の空気へ入り込んだ。
リシェは鞄の留め具を確かめ、そのまま外へ出た。
背後から、アスターの足音のしない気配がついてくる。
死者名簿の中には、エレナ=セルディスという名がある。
墓碑には、何もない。
今度の死者は、名前を失っているのではなかった。
名前なら、すでにある。
ありすぎるほど、きちんと記録されていた。




