序節 ― 名前のない朝
最初にもらった名が、
最後まであなたの名とは限らない。
それでも、その名で呼ばれた日々まで
消してしまわなくていい。
眠るときくらい、
好きな声に振り向けばいい。
朝の墓域には、夜の霧がまだ残っていた。
白い墓碑の列は膝ほどの高さまで薄く霞み、その向こうを歩く墓碑師たちの姿が、時折腰から下だけ消えて見える。眠りの鐘が鳴るにはまだ少し早い。代わりに聞こえるのは、石を払う刷毛の音と、遠くの街路を走り始めた荷車の軋みだった。
墓碑師の男は、いつもの順路で石列を確かめていた。
夜露による染み。ひび。供花台の傾き。誰かが置いていった菓子の包み。墓碑は死者の名を眠らせるものだが、その石を守るのは生者の仕事である。男は欠けた角を指先で確かめ、腰の帳面へ短く印を入れてから、次の列へ進んだ。
そこで足が止まった。
「……は?」
昨日、自分で直した墓碑だった。
見間違えるはずがない。二十五年も石を削っていれば、他人の筆跡より、自分が刻んだ溝の方をよく覚えている。
昨日の夕方、この白石には確かに、
**エレナ=セルディス**
と刻み直した。
最初に薄くなっていた文字を確認し、古い刻みを追い、深さまで揃えた。終わったあとには指で溝をなぞり、石粉を払って、管理印まで押している。
その名前が、ない。
薄れたのではない。
削られたのでもなかった。
墓碑は、最初から何ひとつ刻まれていなかったように白かった。
男は刷毛を脇へ挟み、手袋を外した。冷えた石へ直接、指を這わせる。文字があったはずの場所を何度も往復したが、爪先に引っかかるものさえない。
平らだった。
「冗談だろ……」
「朝から墓碑に冗談を言わせる仕事なんですか?」
背後から声がして、男は肩を跳ねさせた。
黒い記録官服の裾を霧に濡らしながら、リシェ=ベルレインが石列の間を歩いてくる。肩には仕事鞄。まだ勤務前らしく、胸元の留め具だけがわずかに急いで整えたようにずれていた。
そして、その半歩後ろには、当然のような顔をした少年がついている。
死者名簿には存在せず、正式な葬送もされていない死者――アスター=ヴェイルは、墓碑の横へ回り込むと、白い表面を覗き込んだ。
「字、逃げた?」
「文字は逃げません」
リシェは即答した。
「この街なら逃げても驚かないけど」
「驚いてください。記録官として困ります」
「じゃあ、ちゃんと驚くよ。うわあ」
「心がこもっていません」
墓碑師にはリシェの返答しか聞こえていないらしい。彼は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、ネム=レクスでは記録官が誰もいない方向へ話しかけている程度なら、仕事を止めてまで気にすることでもない。
「ベルレイン記録官。ちょうどよかった」
男は白い墓碑を指した。
「これ、見てもらえますか」
リシェは冗談を切り上げ、墓碑の前へしゃがみ込んだ。供花はまだ新しい。白い小花が三本、夜露をまとっている。台座にも荒らされた跡はなく、周囲の土にも誰かが夜中に作業した形跡は見当たらない。
「昨日、修復されたんですか?」
「ああ。俺がやった。夕方までここにいた」
「刻まれていた名は」
「エレナ=セルディス。間違いない」
リシェは鞄から薄い手袋を取り出しかけ、思い直して片方だけ外した。
素手の指先を墓碑へ置く。
冷たい。
霧に晒された石なら、それ自体は珍しくない。けれど、その冷たさの奥に意識を沈めると、通常ならすぐに何かが返ってくる。
最後に呼ばれた声。
本人が縋った呼称。
墓碑へ定着した、名の残響。
リシェは目を閉じた。
《終名聴取》。
何も聞こえない。
それだけなら、珍しいことではない。残響の弱い死者もいる。誰にも呼ばれずに死んだ者や、長く眠った墓碑では、声がほとんど残らないこともある。
けれど、これは違った。
無音ではない。
耳を塞がれた感覚とも違う。
もっとはっきりと、こちらから伸ばした指先を押し戻すようなものがある。
聞くな、ではない。
触れるな、でもない。
言葉になる直前の拒絶だけが、石の奥から返ってくる。
――ここではない。
リシェの眉がわずかに寄った。
「何かいる?」
隣でアスターが声を落とした。
リシェはすぐには答えず、指を離した。白い石に残ったのは、自分の指先の薄い湿り気だけだった。
「名前は聞こえません」
「じゃあ、空っぽ?」
「……空っぽとも違います」
立ち上がりながら、もう一度墓碑全体を見る。
名がない。
それなのに、名がないことを主張しているようには見えなかった。
むしろ、この墓碑が何かを間違った場所に置かれているものとして拒んでいる。そんな感触だけが残っている。
墓碑師が帽子の縁を押し上げた。
「実はな」
声が少し低くなった。
「昨日も消えたんだ」
リシェが顔を上げる。
「昨日?」
「ああ。朝に見回った時、まず姓の方が薄くなってた。昼前にはほとんど読めなくなってたから、管理局へ出して、夕方に俺が全部刻み直した」
男は白い墓碑へ視線を戻した。
「今朝来たら、これだ」
一度ではない。
石の摩耗でも、施工の不備でもない。
刻み直した名が、一晩で再び消えた。
しかも今度は、一文字も残さずに。
霧の向こうで、朝最初の眠りの鐘が鳴った。
低く、長い音が墓碑の列を渡っていく。
リシェは白い石から目を離さなかった。




