第1節 ― 死者名記録庁の朝は甘い
朝になると、葬送都市ネム=レクスは少しだけ甘い匂いがする。
死者の街に甘い匂いなど似合わない、と外から来た旅人はよく言う。
だが、それはネム=レクスを知らない者の言葉だった。
人が死ぬ。
遺族が泣く。
棺が運ばれる。
記録官が名を聞く。
墓碑師が石に文字を刻む。
鐘守が眠りの鐘を鳴らす。
それらはこの街にとって、雨が降ることや、パンが焼けることや、子どもが朝寝坊することと同じくらい、日常の一部だった。
だからこそ、朝には菓子が焼かれる。
黒い石畳の道に、白花市場の露店が並んでいた。
葬送用の白花を束ねる店。
喪章の刺繍をその場で直す店。
墓碑に供える香を売る店。
その隙間に、まだ湯気の立つ焼き菓子を並べた小さな屋台がある。
蜂蜜を練り込んだ丸い菓子。
黒麦を使った硬い焼き菓子。
白花の蜜を薄く塗った、淡い銀色の菓子。
屋台の老婆が、しわだらけの手で焼きたてを並べながら声を張った。
「朝葬帰りの方には、白花菓子ひとつおまけだよ。涙で塩気が足りてる顔には、蜂蜜多めにしてやるからね」
向かいの花売りが眉をひそめる。
「その売り文句、どうかと思うよ、婆さん」
老婆は鼻を鳴らした。
「泣いた人間に甘いものを渡して何が悪い。死者は眠る。生者は腹が減る。それがネム=レクスの朝だよ」
花売りは言い返せなかった。
実際、その言葉に反論する者は少ない。
葬列のあと、人は必ず少し空腹になる。
悲しむにも、立っているにも、腹は必要だった。
市場の端では、葬列案内人が黒い掲示板の前に立ち、今日の葬送予定を読み上げていた。
「本日の第一葬列、東墓碑回廊、第三鐘刻。故人名、審理済み。第二葬列、白花坂共同墓域、第五鐘刻。仮名裁定待ちにつき、参列者は記名札を忘れずに。第三葬列は――ええと、喪主様が寝坊されたため、半鐘刻ほど後ろ倒しです」
集まった人々から小さな笑いが漏れる。
案内人は、営業用の明るい笑顔を崩さず続けた。
「なお、葬送中の居眠りは死者への失礼にあたりますので、眠気のある方は白花市場の蜂蜜菓子をご利用ください。向かいの店です。私の親戚です」
「宣伝するな!」
花売りの男が声を飛ばす。
案内人は杖を片手に優雅に礼をした。
「生者の経済もまた、死者の眠りを支える大事な柱です」
「うまいこと言った顔をするな!」
白花市場の朝は、いつも少し騒がしい。
その騒がしさの中を、リシェ=ベルレインは小走りで抜けていた。
黒い記録官制服の裾が、石畳をかすめる。
白い襟はきちんと整えられ、胸元の銀留めには死者名記録庁の小さな紋章が光っている。
腰には小型の死者名簿。
左手には革表紙の調査帳。
右手には、骨白の筆記具を収めた細長い筒。
歩き方は急いでいるのに、姿勢だけは不自然なほど正しい。
そのせいで、彼女は余計に目立っていた。
「おや、ベルレイン記録官。今日も足だけ急いで、顔は真面目だね」
白花菓子の老婆が声をかける。
リシェは足を止めず、軽く会釈した。
「おはようございます。顔を急がせる方法は、まだ習っていませんので」
「習ったら教えとくれ。うちの嫁に使う」
「家庭内での使用はおすすめしません」
真顔で返すリシェに、老婆は愉快そうに笑った。
リシェはそのまま市場を抜けようとして、ふと足を止めた。
道の脇で、小さな少年がしゃがみ込んでいた。
手には葬送用の白花の束。
だが、そのうちの数本が石畳に落ち、露と泥で花弁を汚していた。
少年は泣きそうな顔で、花を拾おうとしている。
指先が震えているのは、寒さのせいだけではないだろう。
リシェは迷わず膝をついた。
「落としましたか」
少年はびくりと肩を跳ねさせる。
「あ……はい。でも、だいじょうぶです。洗えば、たぶん」
「葬送花は、洗うと香が落ちます」
リシェは淡々と言いながら、汚れた花を拾い上げた。
花弁に付いた泥を、手袋の指先でそっと払う。
少年の目が不安げに揺れた。
「じゃあ、使えませんか」
「表には供えられません」
少年の顔が曇る。
リシェは少しだけ言葉を足した。
「でも、墓碑の裏側に置く花なら大丈夫です」
「裏側?」
「死者は、正面から供えられた花だけを見るわけではありません。たぶん」
「たぶん?」
「私はまだ死んだことがないので、断定はできません」
少年は目を丸くしたあと、思わず吹き出した。
リシェは汚れの少ない花を束に戻し、泥のついた数本を別に分けて渡した。
「こちらは、あとで墓碑の陰に。見えにくいところでも、置いた人の気持ちは消えません」
少年は両手で花を受け取った。
「ありがとうございます、記録官さま」
リシェは一瞬だけ表情を和らげた。
「どういたしまして」
その微笑みは小さかった。
白花の朝露ほどの、ほんのわずかなものだった。
だが、少年には十分だったらしい。
彼は花束を抱え直し、葬列案内人のほうへ駆けていった。
リシェはその背を見送り、すぐに時計塔を見上げた。
鐘針は、始業時刻を少し過ぎている。
「……書類は待ってくれませんね」
彼女は小さく呟き、今度こそ記録庁へ急いだ。
死者名記録庁は、ネム=レクス中央庁街区の北側に建っている。
城にも見える。
神殿にも見える。
巨大な書庫にも見える。
白い石壁に、黒い尖塔。
尖塔の窓には青白い灯がともり、夜に書かれた死者名簿が、朝の冷気の中で静かに乾かされている。
建物の正面には、閉じた黒帳と眠る王冠の紋章。
その下に、石に刻まれた庁訓がある。
――死者を名なしに捨ててはならない。
リシェはその文字の前で一瞬だけ足を止めた。
毎朝、そうする。
誰かに命じられたわけではない。
けれど、ここを通るたびに、彼女は目を向けずにはいられなかった。
死者を名なしに捨ててはならない。
その言葉は、リシェにとって誓いであり、同時に少しだけ痛みでもあった。
名を記す。
死者の声を聞く。
最後に呼ばれた名を拾う。
最後に呼びたかった名を探す。
それが彼女の仕事だった。
けれど、記録するだけで救えない死者がいる。
それもまた、彼女は知っていた。
「ベルレイン!」
庁舎の扉を押し開けた瞬間、鋭い声が飛んできた。
リシェは背筋を伸ばした。
「はい」
玄関広間の中央に、主任記録官オルヴァ=セインが立っていた。
年齢は四十代半ば。
細身で、灰色の髪を後ろでひとつに束ねている。
記録官制服は皺ひとつなく、白手袋には墨の汚れすらない。
目つきは冷たいが、怒っているというより、常に何かの不備を発見するために生まれてきたような顔をしていた。
オルヴァは手元の書類を見下ろし、次にリシェを見た。
「ベルレイン記録官。死者は待ってくれるが、書類は待ってくれない」
リシェは深く頷いた。
「死者のほうが待ってくださるなら、書類も少しは見習ってほしいです」
広間の空気が一瞬止まった。
近くで記録簿を運んでいた見習いが、吹き出しそうになって慌てて咳払いをする。
オルヴァは眼鏡の奥で目を細めた。
「それは反省か」
「希望です」
「希望を述べる前に出勤時刻を守りなさい」
「はい。遅刻理由の記録は必要ですか」
「必要ない。どうせ『市場で少年が葬送花を落としていたため』だろう」
リシェは少しだけ驚いた顔をした。
「なぜご存じなのですか」
オルヴァはため息をついた。
「君は遅刻するとき、たいてい死者か子どもか猫に関わっている」
「猫は二回だけです」
「二回もあるのが問題だ」
玄関広間の奥から、さらに賑やかな声が聞こえてきた。
記録官見習いたちの作業室である。
「それ、私の蜂蜜菓子です!」
「名前が書いてなかった」
「死者名記録庁でその理屈が通ると思ってるんですか!」
「じゃあ終名聴取してみろよ。最後に呼ばれた名は俺だ」
「菓子に終名を求めないでください!」
リシェはそちらを見た。
徹夜明けの見習いたちが、記録台の端で焼き菓子を取り合っている。
一人は半泣きで、もう一人は口に菓子を詰め込みながら逃げていた。
オルヴァはこめかみを押さえた。
「……死者名記録庁の朝は、なぜ毎日こうも甘い匂いがする」
リシェは真面目に答えた。
「糖分は記録精度に影響します」
「君までそちら側に行くな」
「私はまだ中立です」
「中立なら菓子を隠し持つな」
リシェの手が、わずかに止まった。
オルヴァの視線が、彼女の外套の内側へ向く。
「出しなさい」
「これは証拠品ではありません」
「菓子だろう」
「非常用の糖分です」
「出しなさい」
リシェは無言で、白花菓子をひとつ取り出した。
市場の老婆が包んでくれたものだった。
オルヴァはそれを見て、わずかに眉を上げる。
「またあの店か」
「はい。涙で塩気が足りている顔には蜂蜜多めだそうです」
「……あの婆さんは葬送倫理を何だと思っている」
「生活だと思っているのでは」
オルヴァは黙った。
それは、否定しきれない答えだった。
ネム=レクスでは、死は仕事であり、祈りであり、生活だった。
廊下の向こうから、若い女性記録官が駆けてくる。
腕には大量の死亡届、肩には死者名簿の写し、口には半分かじった焼き菓子。
「主任! 西回廊の仮名照合、三件終わりました! あと東墓碑の綴り間違いですが、墓碑師が『筆跡が悪い記録官が悪い』と主張しています!」
オルヴァは即座に返す。
「筆跡が悪い記録官は誰だ」
女性記録官は口をもごもごさせた。
「……私です」
「では墓碑師に謝ってきなさい」
「でもあの人、『死者は文句を言わないから生者がちゃんとしろ』って三回も」
「正論だ」
「主任、味方してください!」
「正論に敵対するほど暇ではない」
女性記録官はがっくり肩を落とし、菓子の残りを口に放り込んで走り去った。
リシェはその背を目で追いながら、少しだけ安心した。
いつもの朝だった。
重い帳。
冷たい石壁。
死者の名。
書類の山。
甘い菓子。
職員たちのくだらない言い争い。
死と生活が、同じ机の上に並んでいる。
それが、リシェの知っている死者名記録庁だった。
だが、その朝は、いつものままでは終わらなかった。
玄関広間の奥。
黒い扉が乱暴に開いた。
濡れた外套をまとった葬列案内人が、ほとんど転がり込むように入ってきた。
顔は蒼白だった。
髪には朝霧の雫が張りつき、銀杖を握る手が震えている。
広間のざわめきが止まった。
オルヴァが一歩前に出る。
「何事です」
案内人は口を開いた。
しかし、すぐには声が出なかった。
喉が、何かを拒んでいるようだった。
リシェはその様子に、胸の奥が冷えるのを感じた。
死者の現場から来た者は、泣いていることがある。
怒っていることもある。
疲れきっていることもある。
だが、名前を言えない顔をしている者は、よくない。
案内人は震える手で、白い葬送札を差し出した。
「空白墓地で、異常葬送が発生しました」
オルヴァは札を受け取らない。
目だけで確認する。
「死者名は」
案内人の唇が震えた。
「ありません」
「仮番号は」
「ありません」
「棺内は」
「空でした」
広間の空気が凍った。
見習いたちの一人が、持っていた菓子を落とした。
乾いた音が、やけに大きく響いた。
オルヴァの声が低くなる。
「詳しく」
案内人は一度、息を吸った。
「夜明け前、空白墓地にて葬列が進行していました。通常手順に見えました。参列者も、棺も、葬送花もありました。ですが……棺が軽すぎたため、棺内確認を行いました」
「結果は」
「遺体なし。遺品なし。葬送札は空欄。棺の内側に、爪で引っかいたような痕跡がありました」
リシェの指先が、無意識に死者名簿の表紙を押さえた。
案内人は続ける。
「棺底に文字がありました」
オルヴァの目が細くなる。
「何と」
案内人は、その言葉を口にするのを恐れているようだった。
やがて、かすれた声で告げる。
「まだ、記すな、と」
広間のどこかで、誰かが息を呑んだ。
リシェもまた、言葉を失っていた。
まだ、記すな。
それは死者の願いなのか。
生者の命令なのか。
あるいは、記録そのものへの拒絶なのか。
オルヴァは、わずかに顎を引いた。
「眠りの鐘は」
案内人の顔色がさらに悪くなった。
「鳴りました」
今度こそ、広間全体がざわめいた。
「ありえない」
「死者名が確定していないのに?」
「墓碑記入前だろ」
「閉帳式もなしに鐘が鳴るわけが――」
オルヴァが手を上げると、ざわめきは即座に止まった。
「参列者は」
「混乱しています。多くが、誰を送っていたのか思い出せません。喪主らしき少女も、自分が誰のために泣いていたのか言えない状態です」
リシェは、その言葉に胸を突かれた。
誰のために泣いていたのか、わからない。
悲しみだけが残り、名前が消える。
それは、死者にとっても、生者にとっても残酷な空白だった。
オルヴァは案内人から葬送札を受け取った。
白い札は、朝の光を受けてもなお、紙ではなく骨のように見えた。
彼女はそれをリシェに差し出す。
「ベルレイン記録官」
リシェは姿勢を正した。
「はい」
「君が行きなさい」
周囲の見習いたちが、驚いたようにリシェを見た。
オルヴァは続ける。
「空白墓地の現場確認。棺内痕跡の記録。参列者の証言聴取。可能であれば終名聴取。無名死者受付所にも照会しなさい」
リシェは白い葬送札を受け取った。
その瞬間、指先から冷たさが上がってきた。
ただの紙ではない。
ただの空白でもない。
触れたはずなのに、触れた感覚が薄い。
まるで、そこにあることを紙そのものが拒んでいるようだった。
リシェは小さく息を吸った。
耳の奥に、何かが聞こえた気がした。
声ではない。
名でもない。
けれど、深いところで、誰かが喉を塞がれているような気配。
彼女は札から手を離さなかった。
「……承知しました」
オルヴァはリシェの顔を見た。
「無理に聞こうとするな」
その声は、いつもの叱責より少しだけ低かった。
リシェは目を上げる。
「主任?」
「空白は、沈黙とは違う。沈黙にはまだ意志がある。だが空白は、意志ごと削る」
リシェはその言葉を胸に留めた。
「覚えておきます」
「覚えるだけでなく、生きて戻りなさい」
一瞬、広間が静かになった。
リシェは少しだけ困ったように瞬きをした。
「死者の記録庁で、その言い方は縁起が悪いのでは」
オルヴァは眼鏡の奥で目を細める。
「君が遅刻しないなら、私も言い方に気を遣う」
「努力します」
「それは失敗予定の返事だ」
近くの見習いが、今度こそ小さく笑った。
重くなりかけた空気が、わずかにほどける。
リシェは調査帳を胸に抱え直した。
白い葬送札。
空欄の棺。
記憶を失う参列者。
鳴るはずのない眠りの鐘。
どれも、死者名記録庁の法から外れている。
それでも、誰かが泣いていた。
誰のためかわからなくなっても、涙だけは残っていた。
ならば、そこにはまだ、記すべきものがある。
リシェは踵を返し、庁舎の扉へ向かった。
背後から、オルヴァの声が飛ぶ。
「ベルレイン」
「はい」
「菓子は置いていきなさい。現場で食べるな」
リシェは立ち止まり、外套の内側に手を入れた。
少し考え、白花菓子を半分だけ取り出して受付台に置く。
オルヴァの眉が動いた。
「半分?」
「非常用です」
「何の」
「生者でいるための」
そう言って、リシェは扉を開けた。
朝の光が、黒い制服の縁を白く照らした。
外ではまだ、白花市場の老婆が声を張っている。
「泣いた人には甘いもの! 泣けない人には、もっと甘いものだよ!」
リシェはその声を背に、空白墓地へ向かって歩き出した。
腰の死者名簿が、歩みに合わせて小さく揺れる。
その表紙の奥で、まだ何も書かれていない頁が、ひとりでにかすかに震えた。




