序節 ― 誰も知らない葬列
その朝、葬送都市ネム=レクスでは、誰も入っていない棺のために葬列が組まれていた。
夜明け前の空は、まだ黒を手放しきれていなかった。
白い霧が墓碑のあいだを這い、黒い石畳の上を、葬列の灯がゆっくりと進んでいく。
先頭を歩く鐘守が、音の鳴らない小鐘を胸に抱えていた。
その後ろに、白い喪花を捧げ持つ子どもたち。
さらに後ろには、黒布をかけられた棺を担ぐ四人の棺職人。
そして、顔を伏せた参列者たちが続く。
誰も大声を出さない。
誰も足を急がせない。
ネム=レクスでは、葬列の歩調を乱すことは、死者の眠りを乱すことと同じだとされている。
だが、その朝の葬列には、どこか奇妙な軽さがあった。
棺を担ぐ男の一人が、肩をわずかに上下させる。
「……おい」
隣の男が目だけで応じた。
「何だ」
「軽い」
「口に出すな。縁起でもない」
「いや、縁起の問題じゃねえ。昨日の猫用の棺のほうが重かったぞ」
「猫に失礼だろ」
「死者に失礼な状況なのは、どっちだと思う」
二人の小声は、霧に吸われてすぐに消えた。
先を歩く葬列案内人が、細い銀杖をこつんと鳴らして振り返る。
「私語はお控えください。死者の眠りに響きます」
棺職人は口を閉じた。
だが、片方はなおも棺の重みを確かめるように、肩を少しだけ浮かせた。
軽い。
あまりにも軽い。
まるで、中に納められているのが人ではなく、夜明け前の霧そのものであるかのようだった。
葬列は、空白墓地の奥へ進んでいく。
そこは、名前の刻まれていない墓碑ばかりが並ぶ場所だった。
白く平たい石。
名も、日付も、祈りの文もない。
ただ、そこに誰かが眠るはずだったという形だけが、静かに立ち並んでいる。
墓碑のあいだには、まだ露に濡れた白花が咲いていた。
花弁は薄く、朝の光を受ける前から、ほのかに青白く見える。
参列者の中に、一人の少女がいた。
年は十歳を少し越えたくらい。
痩せた肩に、借り物らしい黒い外套を羽織っている。
袖は長すぎて、指先まで隠れていた。
彼女は両手で白花を握りしめていた。
握りしめすぎて、茎が折れ、花粉が手のひらについている。
泣いていた。
けれど、その涙には妙な空白があった。
悲しみはある。
胸を押し潰すほどの何かは、確かにある。
なのに、彼女の顔には、肝心のものを探している迷子のような戸惑いが浮かんでいた。
「……どうして」
少女は小さく呟いた。
隣にいた年配の女が、そっと肩に手を置く。
「大丈夫だよ。もうすぐ眠りの鐘が鳴る。そうしたら、ちゃんと送れるからね」
少女は女を見上げた。
「誰を?」
女は、そこで言葉を止めた。
「え?」
「わたし……誰を、送るの?」
少女の問いは、冷たい霧よりも静かに葬列へ広がった。
その場にいた者たちが、ひとり、またひとりと顔を上げる。
誰も答えなかった。
葬列案内人が、困ったように眉を寄せる。
「落ち着いてください。葬送中に故人の名を見失うことは、まれにあります。強い悲嘆による記憶の揺れです。手順に従えば、死者名札が――」
彼は棺の蓋に結ばれた白い葬送札へ目を向けた。
そして、言葉を失った。
葬送札は、空白だった。
本来そこには、死者の名が記されていなければならない。
生前名。
仮名。
終名。
あるいは、まだ裁定を待つ者の仮番号。
どれであっても、何かしらの記録があるはずだった。
だが、白い札には何も書かれていない。
墨の跡すらない。
剥がされた痕もない。
最初から、名など書かれる予定がなかったかのように。
葬列案内人の指先が、銀杖の柄を強く握る。
「棺を、下ろしてください」
棺職人たちは互いに目を見合わせた。
「ここでですか」
「ここでです」
「まだ墓碑前じゃありませんが」
「棺を、下ろしてください」
二度目の声は、案内人のものとは思えないほど硬かった。
棺は、黒い石畳の上に置かれた。
ごとり、という音が不自然に軽い。
棺職人の一人が、顔をしかめる。
「なあ、やっぱり――」
「黙って」
別の職人が肘で小突いた。
葬列案内人は膝をつき、棺の留め金に手をかけた。
本来なら、ここで蓋を開けることは禁じられている。
葬送前の棺は、死者の最後の帳だ。
不用意に開けば、眠りに入ろうとする名を呼び戻してしまう。
だが、葬送札が空白である以上、儀式を続けることはできなかった。
「ネム=レクスの法により、棺内確認を行います」
案内人はそう告げた。
声はかすかに震えていた。
留め金が外れる。
ぎい、と乾いた音を立てて、棺の蓋が開いた。
中には、誰もいなかった。
参列者たちが息を呑む。
棺の内側には、白い布が敷かれていた。
死者の頭を置くはずの場所には、小さな白花が一輪だけ残されている。
そして、棺の内壁には、爪で引っかいたような傷がいくつも刻まれていた。
内側から。
何かが、あるいは誰かが、外へ出ようともがいたように。
「空だ」
棺職人の一人が呟いた。
「だから言っただろ。軽いって」
「今それ言うな」
「いや、言うだろ。棺が空っぽなんだぞ」
「死者が聞いてたらどうする」
「どこにいるんだよ、その死者」
その言葉に、誰も笑わなかった。
笑えなかった。
少女がふらりと前へ出る。
年配の女が止めようとしたが、少女はその手をすり抜けた。
棺の前で膝をつく。
中を覗き込む。
何もない。
そこには、眠るべき誰かの体も、髪も、手も、最後の表情もなかった。
ただ白い布と、折れた白花と、内側から刻まれた傷だけがあった。
少女の喉が、小さく鳴る。
「……いない」
涙がこぼれる。
「いないのに、どうして、こんなに苦しいの」
誰も答えられなかった。
そのとき、棺の底に置かれていた白花が、ふいに崩れた。
花弁が一枚、二枚、静かにほどける。
その下から、白い木地に刻まれた細い文字が現れた。
葬列案内人が身を乗り出す。
「何か、書かれている……?」
霧の中で、文字だけが灰色に浮かび上がった。
――まだ、記すな。
その瞬間。
遠く、都市中央の鐘楼から、鐘が鳴った。
ごぉん。
低く、深く、街の地下まで沈み込むような音だった。
参列者たちの顔色が変わる。
眠りの鐘。
本来、それは葬送が完了したときにだけ鳴る。
死者の名が定まり、墓碑に刻まれ、記録が閉じられたとき。
生者の世界から死者の眠りへ、名が移されたとき。
その鐘が、今、鳴った。
棺は空。
葬送札は空白。
死者の名は定まっていない。
なのに、鐘は鳴った。
一度だけ。
まるで、何かが勝手に葬送を終わらせたかのように。
「……おかしい」
葬列案内人が呟く。
その声は、もう職務上の冷静さを保てていなかった。
「記録されていない死者に、眠りの鐘が鳴るはずがない」
参列者たちはざわめき始めた。
「誰の葬儀だった?」
「いや、私は、誰に呼ばれてここへ……」
「親族だったはずだ」
「本当に?」
「顔が、思い出せない」
「名前は?」
「名前……名前は……」
白い霧が濃くなる。
墓碑のない墓碑群が、ただ黙って彼らを見ていた。
少女だけが、棺にすがりついたまま、首を振っていた。
「ちがう」
小さな声だった。
「ちがう……こんなの、ちがう」
彼女は必死に、何かを思い出そうとしていた。
けれど思い出せない。
誰かの笑顔がある。
手の温かさがある。
寒い朝に、半分に割られた焼き菓子がある。
白い花を抱えて歩く背中がある。
なのに、名前だけがない。
呼ぼうとすると、喉の奥が白く冷える。
舌の上から、言葉が滑り落ちる。
「わたし……」
少女は棺の白布を握りしめた。
「誰のために、泣いてたの?」
その問いに答える者は、もういなかった。
ただ、棺の内側に刻まれた文字だけが、霧の中でかすかに滲んでいた。
――まだ、記すな。
そして空白墓地の奥で、誰にも見られぬ墓碑のひとつが、音もなく白く欠けた。




