法の魔女3
コー・ナイルの地下牢はその寒さでよく知られていた。
暖炉は一基のみ、それも監房には据えられておらず、看守の見張所の近くにある。
石壁と分厚い木の扉で出来た牢獄は洞窟のように湿っており、冬には息も白くなる。
寝床の毛布は三枚支給されているが、どれも薄ぺらな上、埃まみれで、長時間くるまっていると咳が止まらなくなった。
病をわずらい、発熱する者も多く、中にはこじらせて死に至る場合もあった。
それでも、決して凍死まではしない。
湿気も毛布も寒さも拷問のように囚人を痛めつけはするが、命を奪うほどでは無いのだ。
刺すような冷たさではなく、臓腑の奥まで染み込むような粘つく寒さなのである。
アイランはそこに閉じ込められていた。
手枷と鎖で壁に繋ぎ止められ、足環は特大の鉄球と繋がっている。
首輪の内側には短くも角ばった棘が生えており、激しく動けば首に刺さって食い込むようにできていた。
これらのいましめのせいで体を縮こまらせることも、さすることも出来なかったが、彼女にそれらは必要なかった。
全ての拘束を外し、獄を破るなど、その気になればいとも簡単であったが、そうしていなかった。
ここでこうして縛られているのは彼女の意思であり、手段なのだ。
"兵の魔女"の意思を、寒さなどで遮るなど不可能だった。
彼女はただ、じっと待っている。
一毫も震えず、一秒も飽きず、一抹も怯えずに。
蔵にしまわれた剣のように、待ち続けていた。
不意に、かんぬきの外れる音が響いた。
この暗闇の中でも、正確に時は数えられている。今は食事時では無いはずだ。
面会も本来は全面禁止。法廷に呼び出されるような理由もない。
ならば、おそらくは。
火の灯ったロウソク立てを持って入ってきたのは、一人の男だった。
労働者風の格好をした優男で、たたずまいはごく普通の男のようにしか見えない。
だが一対一で"兵の魔女"を前にして、普通の男であるかのように振舞える者がどれほどいるだろうか?
たとえ檻越しであったとしても、猛獣を恐れるのが人間というものである。
「久しぶりねぇ、クランツちゃん」
そして、アイランは一目で見抜いた。
昔日に感じた、一つのにおい。欠けて、膨れ上がった魂のにおいを憶えていた。
クランツ・フェルマー・ルネイ。彼女がこの檻に放り込まれる原因を作った人物だ。
「久しぶりだねアイラン」
アイランが殺しに来た日。
アイランに見逃された日。
アイランに見初められた日。
その時以来の再会であったが、幾度も顔を合わせた親友のように二人は言葉を交わしていた。
「立派に育ってくれて、嬉しいわぁぁ」
暗がりの中、ロウソクのかすかな明かりに照らし出される笑顔は、あらゆる恐怖をかき立てる。
たとえ純粋な喜びから発せられた表情であったとしても。
「あなたはちっとも変わらないな」
だがクランツに怯んだ様子は全く見られない。
家族に話しかけるかのように、緩み、落ち着いていた。
帽子を取ってポケットにねじ込み、ロウソク立てを寝床の上に置くと、魔力を流して明かりを強くした。
「相変わらず、怪物のふりがお上手だ。私にとっては喜ばしいことだが」
「ふりぃ?」
わざとらしく首をかしげてみせる。
甘えるような仕草だったが、それに騙されるほどクランツも盲目的ではない。
「あなたをずっと見てきた。己を磨き、力を育みながら、あなたのことは何から何まで調べ上げ、何も見逃さないよう努めてきた」
やや威圧的な物言いだったが、焦れてはいない。情熱的でもない。
まるで詩を朗読するかのような、なめらかな声だった。
「あなたは他の"兵の魔女"とは違う。受け継いだ怪物的な本能に突き動かされているだけで、怪物そのものではない。もしそうならあの時私を躊躇なく殺していたはず。魂のにおいすら嗅がず、私が特別であるのにも気付かないままにね」
アイランの目の前に立ち、ただとうとうと読み上げるように語り続ける。
「本来のあなたはとても人間的な女性だ。その奥にひしめく、マードックが暴き出した幾万もの亡者どもがそうさせないだけでね。そして、その人間性が二人の人間をこの世に残した。私と、彼だ」
クランツと、クロス。
どちらも、アイランがアイランでなかったならばとうに消えているはずの命。
「歴代の"兵の魔女"は破壊的な衝動そのものだ。あなたもそのように振舞ってはいるが、私には通じない。もちろん彼にもね。本能を利用して人間的な行動を正当化し、実行できるようにする。その理性と人間性と、高い知性があなたを異質な存在にした」
本能と人間性、衝動と理性、どちらも真実である。
一人の人間を一つの言葉で語り尽くすなど不可能なのだから。
「だが、本能は本能。今のあなたの内から湧き上がるのは嫌悪なのか? それとも悦びなのか?」
アイランの頬をそっと指の背でなでる。
指先はくすぐるように下がり、なめらかで白い細首で止まった。
「どちらでも構わない。アイラン、私と結婚してほしい」
さすがにと言うべきか、アイランの目に驚きの色が浮かんだ。
少女のように目をぱちくりと瞬かせ、純朴さで瞳を染め上げた。
男に一方的に襲いかかる経験は豊富でも、告白された経験は無いのだろう。
それも、婚前交渉なしでいきなり求婚とは。
しかし、クランツの至って真面目な表情を見ていると、かえってその言葉を正面から飲み込めた。
見開かれた目は引き絞るように細められ、口は牙を剥きながら短い笑い声をこぼした。
「花嫁にするには、あんまりな仕打ちじゃないかしらぁ?」
「花道と牢獄は求婚の贈り物代わりだ。楽しんでいただけているように見えるが?」
「ええ、素敵な贈り物だったわぁ。あんな激しくせめられたのなんて初めて。この状況も、すっごくどきどきわくわくして全然飽きない」
今まで支配し、虐げ、愛してきた者たちの前に引き出され、糾弾される。
罵声と怒声の大きさはそのまま、彼女の存在がいかに大きいものであるかを物語る。
普段、自分自身ですら気付かないような暗い欲望。できるなら一生隠しておきたかったに違いない暴力を、力の限り叩きつける。
それら全ては、アイランにとっては愛の囁きであり、破滅願望という杯に注がれる酒でしかない。
強靭な魂と喜んで死地へ飛び込む本能と、ひとさじの人間性が練り上げた、歪んだ器。
クランツはそれを理解していた。そして、何よりも的確だった。
「調査して、駆け回って、聞き回って、殺し回って、私の力は存分に見ただろう? 相応しいはずだ。私と結婚したら、何度も同じ快楽を味わわせてあげられる。そしてあなたは、最後には首を切り落とされるんだ。罵声をあげる観衆が雨のように物を投げつける。体を縛る縄が食い込んで神経を押しつぶす痛み。自分の首に振り下ろされる斧の鈍い輝きを最後に見るんだ。そして死後にも、あなたの名は穢らわしい裏切り者として謗られ続けるんだよ」
顔を寄せ、囁く。
その声と息が触れる度に、語る言葉の景色を想像する度に、アイランの体はびくりと震えた。
足を閉じ、隠すようにふとももを擦り合わせるさまは生娘のよう。
本能が種を求めて湿り気を帯び、理性が快楽に想いを馳せる。
あの、気持ちいいのが何度でも──
それは甘美な誘いだった。
熱い吐息が漏れる。
クランツとは一切直接ふれあっていないのに、彼に全身を愛撫されているような心地だった。
「それと、贈り物がもう一つ。本当はこれを届けに来たんだ」
ぽふ、と頭に何かが乗せられた。包み込むような、柔らかい感触。
顔を上げながら上目遣いで見上げると、見慣れたつばの裏側が見えた。
「これって」
「落し物だよ」
連れて来られる時に叩き落とされ、踏みしだかれた、彼女の魔女帽子。
折れ目は正され、泥はしっかりシミ抜きされた、薔薇の刺繍の帽子だ。
それが今、主人の頭の上に帰還を果たしたのである。
「破れてなくてよかった。命名紙もそのままにしてある」
顔を離し、アイランを見下ろしながら笑む。
それは勝ち誇ったような、酔いしれた笑顔だった。
彼は証明した。自分が"兵の魔女"の本能に叶う者であると。
その魂の力が、新しき種として十分な条件を満たしていると。
「くっはぁぁぁぁぁぁぁぁ」
だらしなく舌を突き出しながら、アイランのゆるみきった吐息と声が響いた。
こらえ切れずにあふれ出たような声であり、頬は上気し、目は潤んでとろけていた。
発情した獣そのもの。淫靡な欲望をのべつまくなしにまき散らす、飢えた淫乱女。
だが、クランツは眉をしかめた。
気付いたのだ、その欲しがりな目が自分に向けられていないことに。
「すっごく、とぉっても素敵な告白。正直ぃ、今すぐ飛びついてむしゃぶりつきたいわぁ」
「でも」と続く。そして、それを合図にしたかのように、とろけた目は別人のように鋭くクランツを射抜いた。
これもまた、獲物を狙う獣の目だった。押し倒すためではなく、食い殺すための。
「愛なき故の愛、そんなもんじゃあ私は満たされないの。破壊するだけじゃ、蹂躙するだけじゃ足りない、もっともっと欲しい。まだまだ食い足りない、愛し足りない」
鎖が軋み、手枷がひび割れる。
壁全体が悲鳴をあげ、天井までが震え始める。
手枷はまるでパンのようにちぎれ、鎖は絹糸のように切れた。
首輪は花冠のように引き裂かれ、棘は虫のように潰された。
「私は、ここで待ってるの。あの子が助けに来てくれるのを。その時、あの子はどんな顔で迎えてくれるかしら? 泣きそうな顔? 嬉しそうな顔? あなたみたいに笑ってかしらぁ? どんな言葉を最初にかける? 私に何をしてくれる? 抱きついてくれるかしら、手を握ってくれるかしら、キスしてくれるかしら、それとも殴ってくれるかしら」
鉄球になど繋がれていないかのように、一歩を踏み出す。
まるで小石のように、特大の鉄球が軽々と引きずられた。
「あなたは立派になってくれたけど、あの子は次に会う時どんなに立派になってくれるかしら。それを想うと、どきどきとわくわくが止まらないの。だから私はここにいる。迎えに来てくれるのを待ってるの」
石造りの部屋全体が揺れるほど強く踏み込み、鉄球を浮かせる。
その一瞬後に足を振るえば、いましめの鉄球は武器となってクランツに襲いかかった。
即座に身を屈めて避けると、鉄球はそのまま天井に突き刺さってめり込んだ。
「だからぁ、邪魔しないでちょうだい?」
振り上げた足を下ろし、引き抜かれた鉄球が監獄中に響き渡るような音を立てながら床に落ちた。
彼女ならば、今すぐここでクランツを殺せるだろう。
だが、そうしない。クロスを手伝うためだ。
もしここでこいつが死ねば、ただの一般人の死でしかない。
クロスの望みはそうではないはず。だから殺さない。
「フラれてしまったか」
立ち上がり、襟を正しながらため息をつく。
「やはり、あなたは怪物ではない、とても人間的だ。でも、大いに勉強になった。新たな発見だ」
扉を力強く三度叩くと、数秒も待たずに開かれる。
クランツは自分の帽子を被り直すと、出がけのついでのように、言い放った。
「人間性というものは、時に怪物以上に化物じみている」
侮辱にして称賛。
それを残して彼は立ち去り、扉は閉じられた。
すぐさま、寝床に置かれたままの明かりを取る。
ロウソク立てを持って、先ほどちぎった手枷の残骸のそばで屈み込んだ。
柱のように太い枷。そのちぎれた断面を照らせば、小さな薬包一つと二枚の紙片がめり込んでいた。
木材が乾いている間に綺麗な割れ目を作って挟んだのだろう。
あとは湿気を吸わせて膨らませれば、自然と割れ目は締まって閉じるというわけだ。
二枚の折り畳まれた紙片に明かりを寄せると、それぞれに送り主の名が書いてあった。
片方は6代目"法の魔女"ハリシュ・リオソラン。
そしてもう一枚は──
──クロス・フォーリーズ
アイランは思わず、笑い声を漏らした。
少女のように、花のように、小さく笑った。
「とても、素敵な贈り物ね」
うっとりと慈しむような笑みを一人浮かべる。
そして、二枚の紙片と薬包を口に放り込んで、一息に嚥下した。
──予想を裏切り、期待に応える、素敵なアプローチだったわ。
ロウソクを吹き消すと、牢獄は再び暗黒と静寂で満たされた。
そこに何者もいないかのように。
そこに何者かを隠しているかのように。




