兵の魔女8
夢を見た。
交わった魂。その交歓がもたらした融合。
重なりが見せた幻。
人気のない、野を割り彼方へと続く旅路をのんびりと歩いている。
足取りは確かで歩調は定か。陽は暑すぎず、風は寒すぎず、空気は湿りも乾きもしていない。
そこをアイランが歩いている。そのアイランの視点と、離れた位置からアイランをとらえる視点の二つを同時に見ている。
その感覚には憶えがあった。クリンと深く"魂感応"をした時と似ている感覚だ。
相手そのものに同化しながらも、その相手を第三者として眺めてもいる。
夢見心地の浮遊感と、安らぎのような快感が異なる点だった。
ふと、行く先に小さなカゴが置かれているのが見えた。
ひらけた十字路の真ん中に、いかにも目につくように置いてあるカゴだ。
歩調も速度も乱さず歩み続けたが、カゴの手前に差し掛かると、足を止めて屈み込んだ。
視線を落とせば、上等な絹と羽毛で包まれた、一抱えほどの何かが収められている。
立場上、彼女はそれを警戒対象として扱うべきであったが、おもむろに手を差し入れると包みの一端を開いた。
そこから顔を覗かせたのは、まさしく顔だった。
ただし、産まれて間もない赤子の、である。
安らかに眠っていた赤子は太陽の光を受けて、顔をそらしながら微かに呻く。
だが泣き声は上げず、目を開くこともなく、半分握った両手を万歳のように上げるだけだ。
覗き込む顔の角度を変えて日陰を作ってやると、それも収まり、元の健やかな眠りへと就いた。
カゴは清潔でしっかりと確かな技量で編まれており、中に敷かれた布や包みも上等な素材。
赤子も身体的には健康で、栄養も十分。オシメも清潔な綿布で出来ているばかりか、カゴと包みの隙間に替え用と思しきものまで数枚入っていた。
(──捨て子だ。裕福な家で、愛されている)
声にならぬアイランの心模様が聞こえた。
愛を注がれたまま捨てられた子供。
罪悪感と後悔と自責の念と祈りに満ち満ちたカゴで、何も知らずに眠っている。
その理由は"兵の魔女"であるアイランには明白だった。
「"忌み子"ね」
脆弱な魂と、そこから漏れ出る魔力を感じる。
親に愛されたが故に殺されず十字路に捨てられ、恐るべき偶然としてたまたま誰よりも早く自分がここを通った。
その巡り合わせに、思わず笑みがこぼれた。
愛らしい微笑みではなく、思いがけずご馳走に出くわした獣のような、飢えた笑顔だった。
「愛も運命も、たまには面白いことをするじゃなぁい」
彼女は赤子をカゴごと抱き上げ、再び歩き出した。
ようやく泣き出した赤子を「よしよし」となだめながら。
アイランはその後、9日間赤子と行動を共にした。
自費でオシメを揃え、自らの手で洗濯をし、行く先々で乳母を脅しては乳を飲ませた。
毎日五度は全身を拭い、下の世話をし、泣き出せばあやし、雨が降れば懐に入れて温めた。
そして10日目に、彼女は目的地であるシリネディーク城に到着した。
引き延ばしに引き延ばしていた、新しい協会長への挨拶と顔合わせのための旅。それが終わったのである。
まっすぐ登城し、"屍の魔女"アッサルートの引見に応じて対面した。
若き日のアッサルートは居住まいに老練さがなく、まだ"屍の魔女"の椅子に落ち着けていない印象があった。
隣に立つエルガンは今と変わらぬ堂々とした佇まいで、"兵の魔女"の一挙手一投足に注意深く気と視線を注いでいた。
アッサルートの方にやや困惑した様子がうかがえるのは、アイランが腕に抱くカゴのせいだろう。
そこからは赤子の声が響き、天井に向けて伸ばされた手も覗いていた。
アイランはつかつかと歩み出て、互いの表情が完全に見える距離で、まずはひざまずいた。
「この度の魔女協会長就任、シリネディーク城主並びに魔女協会領領主のつつがなき継承、まことにお慶び申し上げます」
"兵の魔女"は形式上は魔女名持ちの魔女らと同格だが、実際は全く独自の立場であった。
"屍の魔女"に代々伝わる"調整方"は"兵の魔女"を支配し、律する手段の一つであり、魔女の頂点に立つただ一人のみが最強の兵器を操れるという権威とセーフティの両立であった。
故に、比較的自由で協会長との繋がりも弱い他の魔女に比べ、アイランは明確に"屍の魔女"に臣下として、道具として仕えていた。
「そこで、ささやかながら寿ぎの品として、こちらの奇貨を贈らせていただきます」
床に置いたカゴから、白布に包まれた赤子だけを抱き上げる。
アッサルートは驚き、明らかに戸惑った。
当然だろう、就任の祝いに赤子を贈られた者など古今に類を見まい。
「ど、どうせよと言うのだ?」
その狼狽を取り繕おうとして、必要以上に威厳を押し出そうとしてしまう。
それでも、困惑の大きさはこの場にいる全員に筒抜けであったが。
アイランは赤子を抱いたまま立ち上がると、口角を吊り上げて笑みを浴びせる。
ぬらりと白く光る犬歯が、引き抜かれた短刀のように若き協会長を威圧した。
「辻にて拾った"忌み子"でございます。研究材料にするも良し、育てるも良し、協会長様のご随意になさるがよろしいかと」
駆け引きではない、心の底から疑いなく、そうすべきだと確信している声色だった。
未熟なアッサルートは更に冷や汗を流し、椅子の上でわずかに背を丸めた。
「い、忌み子ォ!? いきなりそんなん押し付けられたって困るわよ!」
手を振って拒絶の意思を示す。
その直後、アイランの笑みの性質が変わった。
ふにゃりと目元は柔らかくなり、叩きつけるような笑顔から、ごく自然な、日常の顔。
「なら、致し方ありませんわぁ」
つまりは「殺す顔」になったのだ。
「協会長様が引き取られないのなら、私が今、食らわせていただきます。いろんな母乳を吸って、こぉんなに安らかに眠っているんですもの、肉と魂はさぞ美味しいでしょうねぇぇ」
舌を伸ばし、赤子の頬をなでるように舐める。
その感触に赤子がぐずりだすと「おお、よしよし」と揺らしてあやした。
本当の母親のように、淀みなく、慣れた手つきで。
「食うって。こ、殺すの?」
「当然。もとより、協会が総力を挙げて治療せねば死ぬ子供です。であれば、周囲を巻き込む前に殺してしまうのが、長年続いた世のならいというものでしょう? ならせめて、私の舌と顎と魂を悦ばせてくれればいい」
言葉の後に開かれた口は、これまでと全く異なる意味を持っていた。
鮫のように大きく開き、全ての牙を剥き出しにし、蛇のように喉が開く。
食らう、というのは比喩でも何でもない。本当に食べるつもりだ。
その顔には既に笑みなど欠片も残っておらず、ただ無機的な両目がぎらぎらと光るばかりであった。
アッサルートは自らの背筋に走る怖気をはっきりと自覚し、目を丸くして肘掛を左手で強く握った。
「待った! わかった!」
だが、右手のひらは、まっすぐアイランに向けて突き出されていた。
「私が引き取って、責任持って治療するわ! だから食べるのだけはやめてちょうだい!」
今にもかぶりつこうとしていた口と頭が再び持ち上げられ、顎と喉が閉じられる。
舌を飲み込むように、一度首を伸ばして嚥下するような仕草をすると、その顔に再び笑みが浮かんだ。
「まことに重畳」
首を傾げて喜びを表す。その笑みは、ただの何の変哲も無い村娘のように純真に思えた。
赤子を抱いたままゆっくりとアッサルートへ歩み寄ると、躊躇いなく差し出す。
アッサルートは困惑もさめやらぬまま、椅子から立ち上がることすら出来ず、ただ促されるままに受け取った。
その表情は早くも疲れ、途方に暮れているようであったが、赤子の顔からは視線を外せずにいた。
見よう見まねといった様子で「よしよし」と体を揺らしてあやす真似をしながら、不安を膨らませていた。
『"兵の魔女"よ』
その隣に立つエルガンの鎧の奥から、ややくぐもった声が響いた。
咎めるようにも聞こえる、低くて、鋭い声だった。
『一体どういうつもりだ?』
問いかけるエルガンに対しても、同じように笑みを向ける。
そして何一つ淀みの無い声で、きっぱりと言ってのける。
「『フェルマーの日誌』には面白いことが書かれてるみたいねぇ?」
当時、多くの魔女たちですら『フェルマーの日誌』の内容は知らなかった。
だがアイランは自らルネイ国人衆と"フェルマーの子供たち"を狩り立て、殺したのである。
その詳細を知っていたとて不思議ではなかった。
「"忌み子"、"兵の魔女"の新たな血と魂の力として、相応しいと思わなぁい?」
エルガンすら、この答えには言葉を返さなかった。
アッサルートは赤子をあやしながら絶句するばかりである。
スケルトンの豪傑はその胆力で以って何とか、変哲のない言葉だけは絞り出せた。
『名は、なんとする』
「名前は、そうねぇ。十字路で拾ったから、クロス・フォーリーズでいいんじゃないのぅ?」
クロス・フォーリーズ。
その名は何の歴史も意味しない。
白紙と、四方の何処へでも行ける道だけが在る。
十字路の中央で授かった"忌み子"は、今ここから人生を開始した。
「その子に物心がつく頃に、また来るわぁ」
そして、"兵の魔女"アイランはそう言い残して去って行った。
ごく短い引見、ごく少ないやり取りだったが、それだけでアッサルートは十分に認識した。
話で聞くだけではない、己の目と耳と肌で、"兵の魔女"の危険さを知ったのだ。
腕の中でまたぐずり始める赤子を見下ろしながら、アッサルートは彼女の名を心に刻んだ。
アイラン。アイラン・ヘルゼンデル。
何か重いものを床に叩きつけたような衝撃音と振動で、クロスは目を覚ました。
裸体を跳ねるように震わせながら半開きの目を持ち上げると、まず目に入ったのは、同じく裸のアイランの白くてなめらかな背中だった。
次に目に入ったのは両の手に握られている血濡れた双剣と、その周囲で倒れ伏す三人の男たち。
そして最後に視線が向いたのが、アイランに見下ろされ座り込んでいる一人の男だった。
脂汗を滴らせながら荒く、それでいて細く息をつき、震える右手で左腕を押さえる男。
彼は左手首を切断されており、切りたてほやほやの新鮮な手首はベッドの隅に転がっていた。
突然の修羅場に仰天し、思わず毛布を抱き寄せるように握り締めてしまう。
倒れている三人の男たちは絶命しており、床には血溜まりが広がっていた。
「ア、アイランさん?」
少し汗で張り付いた、短い黒髪のかかった白いうなじに声をかける。
返答もなく、振り向くことすらないまま、彼女は男を押すように蹴り倒すと、ゆっくりと跨った。
昨晩、クロスに対してもそうしたように。
まさか、と嫌な予感が胸に走るクロスだったが、その予感は外れる。思いもかけない方向へ。
アイランは牙を剥き、鮫のような大口を開いた。
そして、男が悲鳴を上げようとした瞬間、その顔にかじりついた。
食い込んだ牙が皮膚と肉を貫き、骨を削りながら砕く鈍い音が響き渡る。
暴れる男の両腕を抑え込み、喉を広げて悲痛な断末魔ごと血肉を呑む。
やがて、ひときわ大きな破砕音と共に、男は糸の切れた人形が如く事切れた。
アイランの口が閉じられ、ごりごりと咀嚼音を響かせてから嚥下を済ませる頃には、男の体はただ指先を時折痙攣させるだけの肉塊と化していた。
広がっていた喉、大きく開いていた口も元の大きさに戻ったが、首や頬、艶のある柔らかい黒髪は血に塗れていた。
クロスが恐る恐る覗き込むと、男は顔そのものが抉れて無くなっていた。
だというのに出血は他の三人の死体よりも遥か少なく、血溜まりもできていなかった。
「アイランさん、その、一体何が」
問いかけには応えず、アイランは背を向けたまま部屋の隅に歩いて行くと、水桶から顔を洗い始めた。
首を洗い、手を洗い、水を染み込ませた海綿を絞って髪をすくように流す。
それから、ようやく口を開いた。
「魔道士の格好こそしてるけど、体格は良く、剣の扱いにも慣れていた。服の繊維にも冷気と乾燥による縮れが出ていなくて、真新しい」
立ち上がり、壁にかけてある黒衣をひとまず羽織る。
それを見て、クロスも慌てて服を着始めた。
昨晩の陶然とした余韻は消え失せていたが、横目で彼女のくるぶしやうなじに視線を送ることはあった。
「こいつらが謎の四人組よ」
足も洗い、布で水気を取ると、靴も履く。
血溜まりを歩いて足が汚れるのを避けるためだ。
クロスがちらりと死体の一つを見遣ると、彼女の言った通りであるようだった。
魔道士にしては筋肉質で、服には明らかに丈を足した形跡があった。
しかしそれにしても、アイランの口調は断言的で、確信に満ちていた。
「なんだか、お腹空いちゃったぁ。お片付けの前に、朝ごはんにしましょっ」
だがその疑念も、ようやく振り向いたアイランが見せた弾ける笑顔を前にしては、自然と喉の下で呑み下された。
違和感や恐れは既に無く、クロスは少し顔を赤らめて視線を逸らすだけだった。
それは無意識のうちの同意であった。




