兵の魔女4
食事を済ませると二人は二階へ上がった。
止める者も咎める者もなく、殆どの者は視線すらくれなかった。
酒場の二階は宿になっており、狭い一本道の廊下の両側に、宿泊部屋への扉が並んでいた。
廊下の木材は一歩毎に軋んだが、魔女は構わず進み、あたかも自分の部屋を目指すかのように迷いなく一つのドアを蹴り開けた。
即座に、四人の屈強な男たちが色めき立つ。
簡素な宿泊部屋に似つかわしく無い、頑健な四人の用心棒といった風体であったが、彼らは"兵の魔女"の姿を見ると腰の得物に伸ばしかけていた手を止めた。
注意深く睨み続けてはいるものの、阻むような愚は犯さなかった。
「ドアは手で開けろ、泥がつくだろうが」
その奥に、一人の老いた爬虫人が座っていた。
小綺麗な書き物机に向かい、背中を丸め、ペンを置きながら眼鏡を外す。
老いからか、爬虫人とは思えぬほど目は虚ろで、姿にも覇気はまるでない。
「クロスちゃん、こいつがアーリー・マードック。魔道士会コー・ナイル支部長で、ここの支配人で、元分離派の裏切り者よぅ」
爬虫人は魔界の少数民族の一つで、外見をかいつまんで述べるならば「直立するトカゲ」と言ったところだろう。
魔界は東のトゥレンティ諸島に住まい、幾つもの部族に分かれてそれぞれの文化を持ち生きてきた。
採集や漁の他、一部の部族間では交易も行い、地下や木の上に住居を設け、海底と太陽を神と崇めて暮らしていた。
その存在は、ハーバント家がアーゲルン人を征服した後に行った領内一斉検地調査によって初めて認知され、その時は捨て置かれた。
だが魔界統一の際には彼らにも使節を送り、軽い挨拶と交流を前置いて、お決まりの選択を突きつけた。従属か闘争か。
彼らは一枚岩ではなく、それぞれ部族毎の意思があった。
それでも16の部族のうち14が闘争を選び取り、銛や斧を手に、漁舟に乗って軍隊に立ち向かった。
その結果は惨憺たるものであり、戦った14部族の中で残ったのは3部族のみ。
しかしそれがかえって彼らの眼を世界へ向けさせることになり、生き残った爬虫人たちは驚きと共に文明社会へと飛び込んでいった。
今や彼らは魔界現界を問わず方々に散らばり、他者の文明、新しき世に順応して生きている。
原始生活を続ける爬虫人は最早おらず、トゥレンティ諸島は単なる漁業と海路の拠点としてのみ存在し、かつての面影は残っていない。
アーリー・マードック。
この男も、そんな爬虫人の一人であろう。
今生きている爬虫人たちは、変われるからこそ生き残った者たちばかりなのだ。
「何の用だ。さっさと済ませて出てってくれ」
鱗と歯列の奥から絞り出される声は弱弱しく、細い。
魔道士のはずだが魔道士会の制服は着ておらず、商人風の派手な衣装の服に、種々の貴金属を身につけている。
しかしそれらに頓着している様子はなく、高価な宝石で彩られた腕輪を平気で机に押し付けている。
「ちょぉっと情報が入ったのよ、あんたの古巣のことでねぇ」
臆することも気遣うこともなく、アイランはずかずかと部屋に踏み込むと、机の縁に腿を乗せるようにして体重を預けた。
マードックの目がじろりと一度だけ彼女の顔を見上げたが、表情が変わることはなかった。
鱗に覆われた表情の読みづらい皮膚であるというだけではない。
老いによる体の鈍りか、気力の衰えか、感受性の細りか、"兵の魔女"を前にしても石の如く動じない。
「分離派の連中のことなど知らん」
口調にも敵意や嫌悪は無い。
ただ面倒臭がっているように見えるだけだ。
「でも、目を光らせてはいるわよねぇ? うまくやったお前を恨んで応報しに来るか、水に流して手を握りに来るか、どっちにしても今の安泰は崩れるわよぉ」
トカゲの面が沈黙を返す。
「分離派の残党がどこまで権力に絡み付いてるか、私ならそれをハバハの実を絞るようにギュッと簡単に搾り取れるわ。そうしたらお前と分離派は無関係だって統王に証言してあげられるようになるし、連中の手が届かない安全な場所も教えてあげられるのよぅ。それになによりも──」
ふわり、と、机に預けていた腿が不自然に浮き上がった。
前傾姿勢のまま、重心が一瞬にして後方へ移ったかのように、体全体が後ろに傾いたのだ。
そして、その一瞬後、クロスは壁に刺さった短剣の音を聞いた。
ほぼ同時に、野太い悲鳴が響き渡る。
それから、クロスはようやく気付いた。
アイランが後方の壁──つまりは廊下がある方向の壁──へ短剣を投げた事実。
それが壁越しに、廊下にいた誰かを突き刺したのだという事実。
投擲する瞬間はまるで見えなかった。そんなはずは無いのに、ふと気付いたら彼女が投擲後の姿勢で立っていたのである。
「──これは私の仕事よ、お前の意思は関係ないの」
きっぱりと言い放った横で、用心棒の男たちが慌てて廊下へ出る。
やや悶着の後に、引っ立てられた悲鳴の主は、魔道士会の制服を着ていた。
左耳を押さえる両手の隙間からは血が止め処なく溢れ、目には涙を溜め、喘ぎながら荒く息をついていた。
「ボスの話を盗み聞きなんて、躾がなってないわよん。こーゆー欲深なとこは凄く魔道士らしいと思うけどねぇ」
壁に刺さった短剣を引き抜くと、先端には血がこびりついていた。
アイランは舌を伸ばし、ねぶるようにその血を綺麗に舐め取ると、味わうように口の中を漂わせてから飲み込む。
それから短剣を右袖の中に仕舞い、ようやくその短剣がどこから抜かれたものなのかをクロスは理解した。
用心棒たちは顔をしかめたが、マードックはただ手を横に振って、無礼な盗み聞き男を何処かへ連行するよう指示するのみだった。
「相変わらず魔道士はいいモン食ってるわぁ。あの子、消しちゃうなら私に頂けないかしらぁ?」
「昔とは違う、ワシらはそんな私刑で人を殺めはせんようになった。他所にトバして、キャリアを積み直させる程度よ」
「なぁんだ」
クロスは呆気に取られるばかりだった。
普段なら得手であるはずの交渉の場で、何も出来ずにいた。
ただただ、眼の前で起きていることを受け止めるのに精一杯であった。
「それで、情報は頂けるのかしら?」
再度訊ねると、マードックは鼻でため息をつき、手元のペンと適当な紙を破って手繰り寄せる。
そして、手早く何事かを書き入れると、紙片を丸めて差し出した。
アイランはそれを受け取るとその場で開いて中身をあらためる。
それから、ほんの少し眉を曲げて、一言。
「これだけ?」
マードックがそれ以上に眉間をひん曲げる。
「分離派どもは未登録の魔道士だ。目撃証言だけで、大体の人数を推測するだけなんだよ。これで用事は済んだろ、さっさと出て行ってくれ」
「ふぅん、まあ、いいけどぉ」
「行くわよクロス」と即座に続けてあっという間に退出していってしまう。
それにまともな反応すらできず、慌てて後を追う形になってしまった。
マードックはため息をつきながら眼鏡を着け直し、再び執務へと没入する。
その表情と目つきは満ち足りた者のそれでは無かったが、それでも彼はペンを握った。
紙片を破り取られて端が欠けた紙は、数秒眺めて逡巡した後に、引き出しへと放り込まれた。
二人は店を後にし、往来を真っ直ぐ進んでいた。
とはいえ、道を選んでいるのはアイランであり、クロスはその後をついていくのみである。
道行く人々は綺麗に左右に分かれて道を譲り、可能な限り距離を置こうとする。
その姿はまさに小魚の群れへ悠々と泳ぎ入るサメのようだった。
恐れられ、嫌われ、忌まれ、だが触れようとも思われない。
そしてそれを誇るかのように、アイランは何の淀みもなく足取りを重ねていく。
「次は、どこへ行くんですか?」
その後ろ姿へ懸命に問いかける。
足を止めさせることは叶わなかったが、それでも優しげな猫撫で声で返してくれるだろう。
「4人よん」
「はい?」と聞き返すと、今度は横顔を向けてくれた。
「未登録の魔道士が31人。うち17人がただのモグリ、8人が架空名義、1人が登録手続き中、1人が私に殺されてまだ見つけられてないやつ、それで残りの4人が素性不明なのよぅ」
当然のように語られた秘密については、記憶の隅に追いやることにした。
「その4人、を探すんですか?」
「そうなるわねぇ。んま、その前にちょっと寄り道するけどねぇ」
そう告げると、突然横に曲がって路地裏へ入って行った。
後を追ってクロスも飛び込むと、そこは道というよりも建物と建物の隙間のような場所だった。
最奥の突き当たりにはガラクタが積み上げられ、壁は薄汚れ、石畳は所々引っこ抜けたり欠けている。
そこでアイランは壁に背を預けて立っており、クロスの腕を引いて路地裏の中へと引っ張り込んだ。
胸が強く鳴ったのは興奮のためか、それとも恐れのためか。
それを計るいとまもなしに、胸を押されて壁に押し付けられた。
一体何のつもりなのか、訊ねようとしたが、顔を上げた瞬間に「静かに」と小声で囁かれてしまった。
その時の彼女の表情が、何故だか悪戯を仕掛けようとする子供のようにとても楽しそうで、歪み上がった口角に無性に圧倒されてしまって、言葉が引っ込んでしまった。
十数秒も待っていると、突然男が一人路地裏に新たに入って来た。
平服姿の太った中年男であり、アイランとクロスを見るとぎょっとした目つきで全身を強張らせる。
その強張りにアイランが微笑みかけたかと思った直後、軽く指を曲げた平手で男の顔を叩いていた。
指の一つは男の目に入り、男は咄嗟に目をつぶって顔を背けながら、防ぐように両手を差し出す。
その右手首を掴みながら捻り、肩を押さえて極めつつ、大の男をいとも簡単に振り回す。
顔面を壁に打ち付け、のけぞろうとしたのに合わせて引き倒す。
当然、足を払い、腕を引いて空中で半回転させ、うつ伏せに。
そして捻り上げた右腕に足を絡ませると、一息に肘をへし折り、手首を捻じ折った。
体を石畳に押し付けられているせいで悲鳴すら上げられぬ男は、呻くような喘ぎのみを漏らす。
へし折りながらも、アイランは片膝を男の背中に食い込ませていた。
「び、尾行!?」
一連の出来事から、クロスは素早く結論を弾き出していた。
とはいえ、目の前で繰り広げられた明らかに過剰な凶行には尻込みしてしまったが。
「街に入って少しのところから尾けてきてたわね。察しはついてるけど、お顔をはいけ〜ん」
食い込ませた膝を外し、仰向けになるよう男を転がす。
一瞬のうちに消耗し切った男の表情は虚ろだったが、目には微かに敵意の灯が残っていた。
顔つきは冴えない現界人といった風だがヒゲは立派で、禿頭にはうっすらと汗疹が浮いている。
「トゥガン・セレイパ衛兵部曲長。東門の責任者が、勤務時間中に供も連れず平服のままで何をしてるのかしらぁ?」
寒冷地で頭に汗疹が出来るのは、兜で蒸れるからだ。
ヒゲが整えられ、体が太っているのは、現場にあまり出ないタイプの責任者だからだ。
「知っ、てるだろ。お前は、見張られている。領主、様に、報告するため」
「じゃあどうして東門担当のお前が西門の管轄内でコソコソ私を尾行なんてしてたのかしらぁ? 普段なら武装した衛兵たちに遠くから見張らせてるわよねぇ? その時でもお前は絶ぇっ対現場になんて来ないし、事あるごとに他所の管轄に押し付けたがってたじゃなぁい?」
詰問すると、男は口を噤んだ。
口を滑らせないようにというよりは、言い返す言葉が見つからないといった印象だった。
「もう分かってんのよ。お前みたいなデブの衛兵ごときがトグナイア連峰で体型を維持するには、運動を避けて、賂を受け取るしかないわ。今回、前者は叶わなかったようだけど、その習慣を覆すぐらい実りある後者を袖に収めたのよねぇ?」
傍に屈み、左手の人差し指を優しげに握る。
だが、男の顔色には恐怖が浮かび、まなこに宿っていた敵意は懇願へと変化した。
「お前の袖に誰がナニを突っ込んだ?」
微笑みかけ、問うのと同時に人差し指をへし折った。
今度は男も存分に悲鳴を響き渡らせる。
クロスは野次馬や、駆けつけた住民や衛兵らを心配して辺りを見回したが、路地裏にやって来る者はいなかった。
「お前の指を全て折る。お前のモノをしごいてから叩き折る。それでも言わないなら、しょうがないから魂に尋ねるわよぉ?」
囁きながら、今度は中指をそっと包む。
苦痛、恐怖、懇願、敵意、予感、そしてほんの一匙の快感と安穏。
全てがぐちゃぐちゃに織り混ざり極限状態を迎えた男は、そこからの解放を請い願った。
即ち──
「わかった! 全部言うからやめてくれぇ!」
──あっという間に、音を上げたのである。
アイランが無邪気な笑みをクロスに向けながら、片目をつぶってみせる。
それに対し、クロスはただ苦笑いを返すことしかできなかった。




