兵の魔女1
コー・ナイルはディゴ荒野を西に抜け、ハヴナ森林道を河沿いに北上し、街道を進んだ場所に建つ街である。
東西に壁のように伸びるトグナイア連峰を見上げる位置にあり、地熱と地理の恩恵を受けて発展してきた。
吹き下ろす寒風を防ぐように、北側の防壁から街の内側へ天井が伸びており、その様から人々はこの街を"くり抜き損ねたカボチャ"、失敗カボチャと呼んだのだ。
トグナイア連峰から北は未踏地であり、その手前にあるコー・ナイルは最北端の街である。
厳しい環境に曝されながらも、この街が街としての人口と経済を長年の間維持して来られたのには理由がある。
行軍路を西へ25km程進んだ場所にあるダグナマンバ大要塞、南側に点在する村々、川沿いに建てられた南東の出城"井戸城"。
これらとコー・ナイルを併せた土地は、かつてスロヴ分裂後の正統王家の一族が移り住み、一つの国として作り上げた場所である。
コー・ナイルはその都であり、スロヴ文化圏からは飛び地であるが故に、正統王家でありながらスロヴ文化圏の諸国家には含まれない。
それ程の僻地である。地熱を生かした農耕や温浴文化のおかげで生活は可能でも、大規模な建築が出来るほどの資源確保は至って困難だった。
だが彼らには魔道士会がついていた。当時はカイレン魔術組合であったが、正統王家としての古くからの交流があり、彼らの手助けを得られたのだ。
魔道士たちもコー・ナイルを拠点に活動を続け、国と街を富ませながら影響力の翼を普く世界に広げていった。
王家によって統御される立場であった魔道士たちが、王家の弱体化に伴い、力を増して寧ろ王家の力を取り込んで拡大した。
単なる金銭面での互助会であったカイレン魔術組合が、いまの魔道士会に繋がる雛形へと変化を遂げた地。
それがコー・ナイルであり、かつての役割を終えた今でも色濃い影響が残っているのだ。
街の中央に建つ二本の尖塔こそ、その象徴と言えるだろう。
片方の塔はかつての王家の塔であり、もう片方の塔は魔道士会所有の塔として現在も使用されている。
これらの歴史が示す事実は一つ。
魔道士会発祥の地であり、魔道士会なくして成立し得なかった街。
それは現界随一の、反魔女の土地であるということ。
魔道士と魔女の対立の歴史の中で育まれた街。それがコー・ナイルであった。
故に、クロスはコー・ナイル入りを避けた。
回り込んで西の行軍路に直接入り、少し進んだところで道を北へ逸れる。
林と藪を掻き分けながら200mも斜面を進めば、トグナイア連峰の切り立った崖に出くわした。
まるで切り出したように突き出た崖の肌には、手足を引っ掛けてよじ登るための窪みが点々と空けられている。
魔女の包丁。
地元民からそう呼ばれる地形は、古くから忌み嫌われる土地だった。
スロヴ人たちが移り住む前から、原住部族はここを禁足地とし、今も立ち入る者はない。
傾斜の中に突如現れる山肌と断崖は、トグナイア連峰そのものよりも威圧的だった。
だが進まねばならない。この断崖の上に用があるのだ。
雪こそ無いものの夏の終わりの北国である。かじかむ手で岩を掴み、よじ登るのは細腕のクロスには不可能に思えた。
重ねて、荷物を背負っている。無理して登ろうとしたならば、文字通り骨が折れかねない。
しかし今回に限っては師アッサルートの言い付けに従わねばなるまい。
散々叩き込まれた言葉を反芻しながら、クロスは決意と共に唾を呑み込んだ。
『いい、クロス。あなたがこれから会うのは世界で最も危険な魔女よ。
それは彼女が素手で男5人を5秒もかからずに殺せるからだとか、標的を見つけるため自ら処刑台に上り、80人の衛兵を薙ぎ倒しながら暗殺を遂げたからだとか、そんな理由じゃないわ。
"兵の魔女"は進むために、殺すために、破壊するために、絶望的な状況へ切り込んでいくために作られているの。
躊躇も恐怖も狼狽もなく、むしろ歓喜すら浮かべながら突入する。自ら進んで危険へ飛び込むよう、定められている。
生物としては完全に破綻した破滅願望。それが脈々と継がれてきた"兵の魔女"の血脈なのよ。
クロス、あなたがその毒牙から無事に切り抜けるためには、適切な対処を取らなければならないわ。
だから間違いなく、確実に、こうするのよ。
"ドアを三回ノックし、こう言う。『薔薇は葉脈と根を絶てり。万事に小鳥無し』"
あなたの幸運を祈っているわ。』
旅には険峻が付き物である。街道の整備が進んでいるとはいえ、変わり者の魔女たちは皆思い想いの場所に居を構えているのだ。
事実、ディゴ荒野では幾つもの悪路や起伏に遭遇した。
その経験から、クロスは既に登山具を調達して荷物に収めていた。
腕に固定するピックと、靴底に巻きつけて固定する鉤。
荷物は一旦下ろして縄に括り付け、登り切ってからハーケンのリングを通して引き上げる。縄が崖の縁で切れないようにするためだ。
こうして一つ目の関門を通り抜けたクロスであったが、これは最も簡単な難題であるのは今更述べるまでもない。
道具を仕舞い、荷物を負い直して振り返ると、崖上の小さな草はらにポツンと建つ小屋が見える。
それは怪物のねぐらにしては余りにもささやかで、ありふれた住処だった。
どこにでもあるような石組みと木組みに、見慣れた藁葺きの三角屋根。
煙突は雪詰まりが起こらぬよう屋根の一部の下にこぢんまりと突き出ており、微かに煙を吐き出していた。
どうやら、留守ではないらしい。
今度は息を大きくつき、己を奮い立たせるように「よし」と呟いて強く足を踏み出す。
玄関のドアに迫り、握った右手を近づけ、息を呑む。
それから、小さく震える手を三度、ドアに打ち付けた。
「薔薇は葉脈と根を絶てり。万事に小鳥無し」
まずは、重い沈黙が立ち込める。
冷気と澄み渡った大気に、生き物が奏でる音は殆ど響かない。
空には雲も鳥もなく、不気味なほど青白い空が冷たく覗き込むように見下ろしていた。
もう一度、同じようにしてみるべきかな?
そう考え始めた頃、鍵の開く音と共にドアノブが動いた。
思わず心臓を射抜かれたように体が跳ねる。
緊張のあまり、ドアが開くのも遅く感じられるほどだった。
蝶番の軋む音、そしてその奥から一つの人影が姿を見せる。
それは──
「こんにちはぁ」
クロスより少し背が高いだけの、細身の魔女だった。
白い小顔は大きな魔女帽の鍔にほとんど埋もれ、袖から伸びる小さな手と細指は花びらのように儚い。
腕も枝か蔓のように細くしなやかで、腰など薄手の黒衣ごと抱き寄せれば折れてしまいそうだ。
表情も柔らかく微笑んでおり、年齢もどう多く見積もっても20代前半にしか見えなかった。
もしかして"兵の魔女"の弟子か、使用人だろうか?
そのように考え、気を緩めかけた時、彼女はにっこりと歯を見せて笑った。
「あなたがクロスちゃんよねぇ?」
少し間延びしたような甘い声と共に覗いたのは、サメの如く尖ったギザ歯だった。
太く鋭く、それでいて不自然な白い牙の連なり。
それこそ、彼女が"兵の魔女"である証拠であった。
「は、初めまして、クロス・フォーリーズです」
肩を強張らせ、礼を取る。
緊張と、鼓動の高鳴りを自分でも感じられた。
それを見て、彼女はまず不思議そうに首を傾げる。
それから、再び微笑んで、右手を差し出した。
「初めまして、アイラン・ヘルゼンデルです」
悪戯を仕掛ける少女のような、屈託のない笑顔。
たおやかな細腕と、しなやかな指の白さに絆されたか。
もしくは緊張で混乱していたのか、クロスはついその手を握った。
直接触れ合っても、やはり肌は柔らかく、膂力の感触もクロスより弱々しく思えた。
「31代目"兵の魔女"よぉ。よろしくね?」
だからこそ、更に困惑するしかなかったのだ。
目の前の人物と、これまで得ていた情報の全てが、あまりにも当てはまらなくて。
『とはいえ、あなたが彼女の下から完全に無事に帰れるとは思っていないわ。あなた自身もそう心がけなさい。
"兵の魔女"の行動原理は戦い、殺し、貪り、痛めつけることだけ。
そしてそれらの欲望は、時に己へと向けられる場合すらある。
何があろうとも、彼女が視界の中にいようと外にいようと、1km圏内に存在していると確信できるならば決して気を抜かないで。
たとえどう見えようとも、決して彼女に気を許さないで。
彼女をあなたの捕食者にしないよう、常に注意していなさい。
その果てに、あなたは彼女から大きなものを得られるかもしれないわ。
誰にも理解できない輝きを見る機会が、必ず訪れるはずよ。
そのことに用心しなさい。彼女に触れれば、あなたは変わらずにはいられないでしょう。
くれぐれも気をつけてね、クロス。』




