『フェルマーの日誌』
フェルマー・ナング、統暦前12年生まれ、男性、現界人。
ニノ・トゥーザの街の東部富裕地区、石材商人の家に生まれる。
彼の地はゾルイン・ポータルから近く、魔界王に早期に降伏したのもあり戦時下でも平和を保っていた。
そこで何不自由なく育ち、良質な教育を受けられた彼は幼い頃から神童ぶりを発揮した。
9歳の頃には魔道士会の拠点があるルネイ地方に留学し、14歳で魔道士見習いとして直弟子入りを認められる。
生理学と形質学を学び、そう生まれついたかのように学問の世界へ没頭した。
25歳の時には、種族ごとの魔力形質の違いが、形態や生態にも影響を及ぼすことを発見。
一躍名を馳せ、当時としては最年少の一級魔道士として独立を果たしたのだ。
しかし、彼の名を歴史に留めたのは、その輝かしい業績故にではない。
研究に対する異常なまでの執着、禁忌や倫理、時には法すら意に介さぬ行動力。
ある時には赤子を14人買い取って半数を解剖し、もう半数を拷問して魔力と魂の状態が肉体に与える変化を比較した。
懐には常に刃物と睡眠薬を入れ、記録用の木簡を持ち歩き、研究に使えそうな検体を常に探し求めた。
妊婦に魔力液を飲ませ、奇形児や死産を意図的に生み出したこともあったという。
最も有名な逸話は、魔女協会領に単身侵入し"忌み子"の研究記録を盗み出そうとした話であろう。
失敗し捕らえられた彼は、"屍の魔女"の自治裁量権によって処刑が宣告された。
しかし、当世随一の生理学者である彼を殺せば、魔女と魔道士の対立は深刻化してしまうだろう。
そう憂慮した統王が助け舟を出し、17年の役刑が課されるのみで事態は収められた。
これによって彼は魔道士会から除名処分を受け、役刑に服することとなったが、それでも研究はやめなかった。
その狂気的なまでの執念深さと徹底した完璧主義こそが、彼の名を広めたのである。
永遠に隠し抜いたことであったが、高い知性を生まれつき持っていた彼は常に孤独であった。
神童であった彼に、対等な関係を築ける同年代の友は一人もいなかったのである。
その孤独は、やがて彼の専門分野と結びつき、一つの狂気へと結実した。
高い能力を持った人間を、人工的に作り出す。
生まれついて優秀な者を、自らの手で作り上げる。
抑え難い欲求を、天才としての知性が後押しした。
「可能である」という確信が、彼の脳髄と五体を動かしたのだ。
狂気の矛先は"忌み子"へと向けられた。
彼は"忌み子"たちが、ある種の才能に特化しやすいことに気付いた唯一の人間だった。
多くの場合、子供らはその才能を開花させる前に死亡してしまうのだが、もし生き延びられたなら?
短命ではない"忌み子"をもし生み出すことが出来たなら?
どのような才能を持って生まれるのかを、生まれる前から操作出来たなら?
その研究のために、彼は魔女協会に忍び込んだのだ。
そして、その狂気は一部の者らの目に留まったのである。
統王に対して反旗を翻さんとの意思を固める、後に三角連衡に加わる勢力たち。
即ち魔道士会分離派と、彼らと繋がるルネイ国人衆たちである。
彼らは秘密裏にフェルマーの身柄をルネイ地方に移し、その研究を手助けした。
統王を倒し、その後の治世に於いて優位を得られるよう、彼らは全てをかき集めていた。
フェルマー自身に統王への叛意は無かったが、研究を続けるために、彼は魔道士会分離派へと取り込まれていったのである。
そうして、フェルマーは12人の"忌み子"を意図的に生み出した。
幾十、幾百もの失敗と犠牲の末に、爆発も漏出もしない、完璧な子供らを作り上げたのである。
その子供らはルネイ国人衆らの養子となり、それぞれに十分な教育と環境が与えられた。
12人は皆が健康に、そしてフェルマー自身をも超えるほどの速さで力を伸ばしていった。
"フェルマーの子供たち"と呼ばれ、統王亡き後の世界を支配する子らとして将来を嘱望されていた。
だが、この計画は崩壊する。
三角連衡の乱でルネイ国人衆が敗北したのだ。
フェルマーと子供たちは残らず"兵の魔女"に狩り立てられて首を斬られ、研究日誌は全て魔女協会に回収された。
だが研究日誌には、四ヶ月分の空白があった。
おそらくは"フェルマーの子供たち"を生み出す、その具体的な方法が記されているであろう箇所の。
それは余りにも危険な技術であり、禁忌に狂気を重ねた研究成果である。
だが同時に、根本的な解決法が見つかっていない"忌み子"問題の突破口になりうる知識でもある。
故に、統王も魔女協会も、この"失われた四ヶ月"の部分を探していた。
統王は過ぎた力を封じるために、魔女協会は必要な答えを得るために。
しかし、この二者以外にも、禁じられた業を追い求める者はいる。
魔界守旧派、分離派諸侯、一部の商家、スロヴ共同体、そしてカーギ・カリン。
頑なに反統王を貫き、新たな世界を受け入れない者たち。
彼らにとってフェルマーという名は半ば伝説化され、日々旗色が悪化していく情勢下でのよすが、希望であった。
消え去りかかっている、古い世界の老兵たちが求める、古い夢なのだ。
呻き声と共に目覚めたクロスがまず感じたのは、床の冷たさだった。
続いて、起き上がろうとした時に走った股間への鈍痛と、膝の震え。
最後は聞き覚えのある、囁き声だった。
立ち上がれないながらも、何とか床に座って呼吸を整える。
その間に、出入り口近くの礼拝所へと視線を向ける。
そこでは、天の光の御前とは思われぬような光景が広がっていた。
革ロープでぎちぎちに椅子に縛り付けられたアーゲルンの男を、"鋤の魔女"が拷問しているのである。
それも、鞭を打ったり爪を剥がしているのではない。
後ろからしなだれかかるように抱きつき、耳元で何事かを囁いているのだ。
右手は襟の下に滑り込み、左手は潰れた股間を捏ね回す。
その両手が僅かに動く度に、男の四つ目全てが白目を剥き、全身は痙攣していた。
「あらぁ、お目覚め?」
"鋤の魔女"がクロスに気付き、手を止めて体を起こす。
男は糸の切れた人形のように項垂れたが、彼女がそれを気にかける様子は全く無い。
それどころか、息は荒く、顔は上気し、声色はまさしく娼婦が如く甘かった。
今や愛をめでる敬虔な信徒ではなく、一人のサキュバス。
性を貪り、愛を鷲掴む、房中の魔物の姿がそこにあった。
「な、何をしてるんです?」
牙を剥く捕食者を見たような気がして、思わずどもりながら状況を訊ねてしまう。
自分の現在の状況も奇妙であったが、あまりにも目の前の光景が刺激的すぎてそちらを優先せざるを得なかった。
「この方にお尋ねしておりましたの、誰の差し金か、どうして日誌を盗みに来たのか、誰が協力したか、あと一番大事な、イェザリ派に改宗するかどうか、優しくね」
髪を引っ掴んで無理やり顔を上げさせる。
白目を剥き、涎を垂らす姿に、謹厳なアーゲルン人の面影は残っていない。
全身を拘束され、唯一自由な二股の尾は"鋤の魔女"の尾に絡め取られ、スカートへと引き込まれている。
苦痛と暴力と快楽こそサキュバスの本領であり、この光景はその全てを表していた。
クロスはついつい憐れみを覚えながらも、言うべきことを絞り出した。
「それで、何かわかりましたか?」
「名前はマトク・ブーナトーチ・コベルタクス。カーギ・カリン二等司祭で、大司教カウダックのひ孫さん、今の所はその程度ですわね」
「やっぱり、カーギ・カリンでしたか」
アーゲルン人の伝統的な宗教、カーギ・カリン。
心を読む力を持つ彼らにとって、真実と嘘は同価値であり、美徳でも悪でもない。
そんな彼らが古来より崇めてきたのは"大いなる魂"である。
この世の全ての魂は"大いなる魂"の一部であり、その根源と繋がっている。
意志の集合体にして、無作為の自然現象、その下であらゆる生物は自立であり自由。
神々や天などなく、現象が現象としてそのまま存在し、それを魂が捉え彩るのだ。
個人の魂を超越した巨大なる無意識が全てであり、それと深く繋がる能力を持ったアーゲルン民族を正当化する教義である。
その思想、そして心を読む力は、当然が如く時と共にアーゲルンをより傲慢に、高圧的に変えていった。
時代が進み、文明が発達していくに従い、彼らは支配的で、自己中心的な暴君へと育っていったのである。
統王が昔のいち良民へと回帰させはしたものの、その時代の強さに憧れを抱く者も多い。
故に、カーギ・カリンの過激原理派閥は三角連衡の乱の際、魔界守旧派と共に魔界での叛乱を主導していた。
統王の息子らに撃破され、主だった指導者は処刑されたが、組織が残れば頭は代わりが生え変わる。
数を減らしたとはいえ、その思想と都合のよい懐古は、今も受け継ぐ者が存在していた。
「でも、カーギ・カリンの過激派は今や死にかけの勢力ですわ。こんな大それたことをする気力も、それをするための情報も得られるとは思えません。だぁかぁらぁ」
再び男の股間を鷲掴む。
滲んだ血が更に滴り、全身の痙攣が再開した。
「もっともっと、お話しましょうね?」
耳元で囁く、その直後に出入り口のドアから二人の男が飛び入った。
クロスが咄嗟に反応してカンテラを掲げながら片膝を立てようとしたが、"鋤の魔女"は涼しげな視線を送るだけ。
それもそのはず、二人の男は床に降り立つのではなく、倒れ込んだのだから。
しかも、よく見ると手枷と足枷、更には猿轡で拘束されている。
『何やってるんですかマーレィさん!』
続いて部屋に駆け入ったは、クロスにとって見覚えのある人物だった。
重々しい足音に、羽音混じりの声、黒によって覆われた全身。
"胞の魔女"クルギャその人であった。
彼女はアーゲルン人の男に駆け寄ると、左袖から十数匹の虫を出して男の服に潜り込ませる。
『イェザリ派の修道女ともあろう方が、こんな酷い仕打ちをするなんて』
「酷い仕打ちはお互い様ですわ。この男はディゴでは生きられない虫を放ち、作物の命を無為に奪い、寺院に放火し、研究者を一人殺したのですから」
そう答えながらも、男から離れる。
"胞の魔女"に対する敬意からそうしたのだ。
『だからって、必要以上に痛めつけすぎです! ヘラシュ=ノグさんから頂いた自白剤があるのに』
てきぱきと応急処置を施す彼女の名を、呼ばう声があった。
気を向けると、そこにはクロスの困惑した表情があることだろう。
「クルギャさん、どうしてここに?」
クロスは彼女の住処を確保するように仰せつかり、そのことを今日の昼に"鋤の魔女"へ伝えたばかりである。
結果、色よい返事を受けられたとはいえ、その日の夜にやって来るのはいくら何でも早すぎだ。
"胞の魔女"は『クロスさん、ご無沙汰しています』と、踊りに誘う乙女のように恭しい礼を前置いた。
『騙すような形になってごめんなさい、実は二日前には荷物に紛れてここに来ていたんです』
「えっ、それじゃあ、俺はなんのために」
『それはですね──』
続けようとした言葉に"鋤の魔女"が「犯人を炙り出すためですわ」と差し挟んだ。
「犯人を特定して、総督や統王よりも先んじて尋問するには、犯人たちがこっそりとわたくしを襲うよう仕向ける必要がありましたの。そこで、計画通りに事が運んでいると思わせるために"日誌を外へ持ち出す役"を演じる人間として、あなたを使ったのですわ」
「それなら、そう言ってくだされば」
「連中があなたを拉致したり脅迫する可能性もありました。"魂感応"を仕掛ける可能性もね」
拉致、脅迫、"魂感応"。これらは当然"鋤の魔女"に対しても行われる可能性があった。
しかし敵地で、日誌の確たる所在も不明なまま"鋤の魔女"を拉致したり、自分たちが犯人だと自白するような脅迫を行うのは危険極まりない。
"魂感応"も、男がサキュバスに対して行えば"サキュバスの誘惑"にかかりやすくなり、かえって主導権を握られてしまう。
だからこそ"鋤の魔女"は、連中に行動を促すひと匙の動機として、クロスを使ったのだ。
迂闊に動いてもらうための刺激として、彼をここに呼んだのである。
そして、罠を張って待ち伏せた。
"腑の魔女"と"胞の魔女"を含めた三人で。
何とも複雑な思いだったが、結果、このように上手く運んだのだから是非もないことであろうか。
しっかと口を噤んで、"胞の魔女"が投げ入れた二人の男に視線を移すのみだ。
「敵の協力者はあれで全部ですの?」
『はい。寺院中くまなく調べて、怪しそうな人たちに自白剤を使いました、間違いないと思います』
「それなら、こいつよりもあいつらに訊いた方が早そうですわね」
尻尾を解き、倒れ伏す二人の傍まで歩み寄って猿轡を尻尾で外す。
悪あがきで即座に大声を出そうとするが、"鋤の魔女"が首を踏みつけてそれを制した。
靴のかかとが横から喉に食い込み、掠れたような息が漏れるばかりである。
その状態で、もう片方の男に目配せをすると、そちらはしきりに頷いた。
尋問は成立だ。もう片方の男の猿轡を解くと、首を踏む足をどけて、代わりに尻尾を口に突っ込んで黙らせておく。
「あなたの黒幕は?」
そして、もう片方の男への質問が始まった。
彼はアーゲルン人ではなく、人間の男で、左目が打撲傷で腫れていた。
「大司教カウダック様です。魔界領ゴンデリン・マーチで命を受けてから、2ヶ月かけてここに来ました」
絞り出すような声だったが、自白剤の効き目もあり、すんなりと答え始めた。
2ヶ月かけてここに来て、2ヶ月前に潜入したのなら、時間的には当然4ヶ月前の話となる。
「日誌がここにあるって、4ヶ月前には知っていたのですね。どこから知ったのですか?」
「わかりません。俺はただ『マトクに協力して、日誌を取り戻せ』と言われただけです。マトクとはこの町で落ち合って、初対面でした」
「日誌を奪った後はどうする予定でしたの?」
「マトクが自殺して、その死体に埋め込んで外の仲間に渡してから、ポルーカ領にいる連絡員のところまで運んでもらう計画でした。あそこは物流の管理が杜撰だから」
「大掛かりな計画ですわね、ディゴ荒野にあなたの仲間は何人いるのですか?」
「俺の知る限りでは27人、うちカーギ・カリンの信徒が8人で、あとの素性はよく知らないです」
続いて、それらの名前と所在を次々に挙げていく。
その全員が聞いたこともない名前だったが、偽名や通称のようなものもいくつか混じっていた。
それらを完璧に記憶するのは"胞の魔女"の得手である。
「では最後に、何のために"失われた四ヶ月"を手に入れようとしたのですか?」
しかし、この質問をぶつけた時、男は初めて口ごもった。
困惑した様子ではない。意思に勝る何かが栓をしたように、いきなり口を閉じたのである。
「答えなさい。そう、命じます」
足で顎を持ち上げ、男の目を見下ろしながらそう告げる。
"サキュバスの誘惑"の一部を成す、催眠術だ。
自白剤で肉体を、催眠術で魂を開き、言葉を盗み上げる。
そうして、男はようやく、単なる喋るための"構造"のように言葉を並べ始めた。
「偉大な"魂の啓蒙"再興の為だ、信徒として最高の栄誉だ。不浄な魂と、それに阿る堕落した魂を釜底に追いやり、真に高潔な魂を復活させる為だ。かつて成し得なかった偉業を成し遂げる為だ。今や男たちは腑抜け、女たちに骨を抜かれた。女の股に支配された堕落の王を殺し、真に強い王を蘇らせる。魂の再生、それをこの俺の行いから開始する為だ」
カーギ・カリンは伝統的な価値観そのものである。
後は、個々人がそれをどの範囲まで許容し、遵守しようとするか。
だがこの言葉には、それ以上の意味があった。
"鋤の魔女"は男の目を見下ろす。
細められた目の奥で、瞳はどう輝いているのか、うかがい知れなかった。
だが、彼女は笑んだ。不敵でも不気味でもなく、純真な笑みを浮かべたのだ。
そして、静かに、柔らかく、母のように言い放つ。
「そんな分からず屋を教え諭してこその"イェザリ派"です。わたくしたちは、狩人を改心させたゾームとナイシャラーを目指しているのですよ? あなたは、本当に、よくぞここに来てくれましたわ」
その姿を見て、クロスは何故だか背筋が凍るように寒く感じた。
包容と寛容が、このような恐怖を喚起しうるのだとは、思いもよらなかった。
『もう十分です、彼らを衛兵に引き渡します』
それを見かねてか、"胞の魔女"が割り込んだ。
見ると、アーゲルン人の男は既に縛めを解かれ、虫たちに受け止められている。
"鋤の魔女"は足を下ろし、尻尾を引き抜いて背を向ける。
クロスはただ、痛みも忘れて座っていた。
目の前の光景と、男が口走った重大な事実に打ちのめされていた。
男は、大司教が「日誌を取り戻せ」と命令したと言った。
日誌はカーギ・カリンのものではなく、フェルマー、ひいては今は亡き魔道士会分離派とルネイ国人衆のもの。
つまり、奴らは一人ではない。
男の口ぶりからも明らかである。
三角連衡が、復活したのだ。




