腑の魔女12
パンタント・ヘラシュ=ノグは王都で生まれ育った。
双角族の男とスロヴ人の女という、当時は珍しい取り合わせの夫婦は、この独り子を存分に愛した。
父は病弱で床に臥せることが多かったが、補助金と年金と長期仕官手当で生活には困らなかった。
母は壮健で鈍色宮に仕える女中であったが、夫の病のために職を辞して家庭に入り、まもなくパンタントを授かった。
ヘラシュ=ノグは元々魔界の一地方、ノーヴァント丘陵地帯の主君に仕える家系だった。
だが丘陵地帯一円はハーバント家を掌握したコードラン・ヴァルグホーン・ハーバント──後の統王に従属。
軍事通行権を与え、交易の協定も結んだが、部分的な徴税権の移譲のみで貢物の強要はされなかった。
ある時、丘陵地帯を嵐が攫った。多くの家畜が死に、作物は土砂に埋もれた。
蓄えも大雨で腐り落ち、数万の民に飢饉が襲い掛かった。
ヘラシュ=ノグも一村を世話する名主の一人として、民らの窮状を目の当たりにした。
飢えを前にしては、全員を救うことなど出来なくなる。誰かを選んで、見棄てなければならない。
それは極限の選択であり、彼はその極限へと追い詰められつつあった。
日々悪化する状況の中で、比例するように責任は重さを増す。
一部の者を切り捨て、残った者らに僅かな食料を集中させれば、生き残れる者もいるだろう。
だが、誰を殺さねばならないのか? 老い先短くも経験豊富な老人か? 壮健だが最も人数も多い大人か? 未来はあれどまた作れる子供か?
どれもこれもが、最悪の選択に思えた。
それを救ったのがコードランだった。
彼は何の因果も無いノーヴァント丘陵地帯に60tの軍糧と4000もの工兵隊を提供したのだ。
この糧秣は、アーゲルン人の支配域へ出征している軍の予備兵糧であった。
これを失えば、彼の軍はアーゲルン人という強大な敵を相手に一敗も許されない状況へと追い込まれる。
当然、それなりの目論見はあったろうが、それでも危険な決断を下してまでノーヴァントを救ったのは事実である。
2年後、ノーヴァントがハーバント家に吸収されると、彼は忠誠を誓い、20年もの間ノーヴァント行政官の一員として魔界王の治世に貢献。
その後は暫く病のせいで職を退いていたが、現界統一後は復帰し王都の行政に尽力。
行政使府の具体的な機能と対応マニュアルの制定等活躍したが、10年後やはり病が原因で職を辞した。
妻とはその時期に出会い、周囲の反対もあったが恋愛の末に結婚した。
父は、娘に幾度もその話をした。嬉しそうに、誇らしそうに、咳を押し殺しながらも実に幸せそうだった。
そして最後は、娘の顔を見つめながら決まってこう締め括るのだ。
「統王様のためにこの命を捧げられるのが、俺の誇りなんだ」
そんな父の姿を見て育ったパンタントが御典医を志すのは、ごく自然な摂理と言えた。
病気がちの父を助けたい。父の恩人であり、尊敬する統王のために働きたい。
彼女は定期検診にやって来る医師から、どこで医術を学べるのかを訊ね、"腑の魔女"の名前を聞き出した。
その日の夜に、胸中の決意を両親に吐露すると、二人は驚いたように顔を見合わせた。
だが、やがて父は破顔し、病床より体を起こして震える声を絞り出した。
「お前がなりたいものになりなさい」
母は視線を伏せていたが、その理由は分からなかった。
王都に滞在中だった9代目"腑の魔女"の下に弟子入りを願い出たのは、翌日の早朝からだった。
最初は歯牙にもかけられずに門前払いされた。
母は、統王様か夫の紹介状を携えてはどうか? と提案したが、例え神が書いた紹介状を差し出しても、魔女は自らが是と認めねば決して首を縦には振らない。
魔女とは既存の通念に対する反抗者であり、魔界流の自立心に富んだ学術者たちだ。
紹介状で弟子入りさせてもらったところで、まともな教えなど授けてはもらえない。
魔女の知識が欲しくば、自らそのものを認めさせるしかないのだ。
経験からそれを熟知していた父は、あくまで身一つでぶつかるべきだと娘に忠告した。
その忠告は、功を奏した。
パンタントは連日"腑の魔女"の下を訪れ、迷惑も顧みずに毅然と弟子入りを申し出たのだ。
"腑の魔女"も流石に頑固であり、一年後の王都を離れる時まで撥ね付けに撥ね付け続けた。
だがまさに王都を離れるという段になって、自分が去ればあの少女はどうなるだろうか? と気に掛ける自分に気付き遂に膝を折る。
魔女はパンタントの弟子入りを認め、学会を欠席してまで王都の滞在を延長した。
"腑の魔女"の下で、彼女は努力を重ね、めきめきと頭角を表した。
外科の執刀術を学び、内科の検診術を学び、薬学の調剤術を学び、数々の実践と濃密な経験を六年間に詰め込んだ。
修行の最中で父の訃報を受け取っても、医者の道を見失いはしなかった。
寧ろ決意はより強固な意志へと進化し、より強く地を踏みしめさせた。
医者になる。彼女は父の墓前で涙ながらにそう誓ったのだ。
ある日、"腑の魔女"はパンタントを呼びつけてこう言った。
「御典医として何不自由ないほどの知識と経験は授けた。だが忘れるな、お前が手にした医術という業を、お前が完璧に乗りこなす日は永遠に訪れないであろう。世のさだめに逆らう医の力は、誰のほしいままにもならぬのだ」
この言葉と共に、パンタントは卒業した。
"腑の魔女"は御典医試験のための推薦状を書き、統王に届けてくれた。
そのおかげで慣例を破って試験への参加が認められ、彼女は最優秀の成績を以って、見事最年少にして初の女性御典医としての地位を射止めるに至ったのである。
先輩である典医たちが女の、それも魔女の推薦である彼女の存在を疎ましく思わぬはずは無い。
だが、普段より統王とその家族に近しく、監視の目も厳しい典医という立場にあっては露骨な嫌がらせも讒言もかえって己の首を締めるだけ。
学者である彼らにとって、目障りな女を排除するに当たって必要とするのは"正論"である。
彼女の母がスロヴ人であることを弾劾しようとした者が罷免されるのを目の当たりにしては、息を潜めて機を窺わざるを得なかった。
程なくして、その機は訪れた。
生まれたばかりの統王の末娘が、何らかの病である可能性が出てきたのである。
その赤子は夜泣きが異様に長く、脈が定まらず、心音にも僅かな異常が見られた。
典医長は病の断定には時間がかかるとしたが、パンタントは心音に混じる僅かな雑音を聞き逃さない。
赤子を先天ヘレズイ病と診断し、他の典医らの見解と真っ向対峙したのだ。
当時、彼女は既に統王の夫人らや娘御らを相手に、的確な診断と助言で信用を得ていた。
他の典医らは当然夫人らを敬ってはいたものの、女であるという事実への侮りを抱いており、信を置かれていなかったのである。
実直で分け隔てなく、医療に関しては身分を超えてまで正面から全力でぶつかるパンタントは、適当にへつらうだけでコミュニケーションを雑に済ませる典医たちよりもかえって信頼されたのである。
故に彼女は他の典医全てを相手にしても、怯むことなく立ち向かえたのだ。
「ただちに手術するべきです。先天ヘレズイ病の平均死亡年齢は0〜3歳! 心臓が動けば動くほど危険は増し、ご息女はたった今息を引き取られても何ら不思議では無い状態です!」
声を張り上げて机を叩けば、それを数倍した音量が一斉に返ってくる。
「現段階で先天ヘレズイ病とは断定出来ん!」
「たとえそうだとしても、赤子の心臓への手術など危険過ぎる。その場で御息女が亡くなったらば如何するつもりか!」
「お前のやり方は余りに危険だ。未切開の弁形成術などという実験を、統王様の御子で行わせる訳にはいかん!」
「御息女が手術に耐えられるかどうかも分からん! 成功しても後遺症が残る可能性が高いのだぞ!」
「せめて合併症の有無を検査すべきだ!」
典医たちに邪心が無いと言えば嘘になるが、申す言葉そのものは至極尤もであった。
先天ヘレズイ病に対する魔女の解法を学び、その手術を目の当たりにもしたが、経験は無かった。
しかし彼女には自信があった。必ず治してみせる。それだけの技術は修めているとの確信があった。
「実験的な手術ではありません。この方法で完治した例を、私はこの目で見ました! 急がなければ、あの子は今! まさに! ここで! 死ぬんですよ!」
両者は徹底して譲らなかった。
今すぐ手術をするかしないか、それが決定的な違いだった。
判断は統王に委ねられた。
典医たちの雇い主であり、患者の父親でもある彼に決断を求めるのが、最も良い道であると思われたのだ。
彼は窓から空を見上げ、手を後ろで組みながら呟くようにこう答えたという。
「我が裁可のもたらす災禍の責は、我が背にあり。時を置くべし」
軍配は上げられた。
手術は行わず、暫く様子を見ると決まった。
その結果子供が亡くなろうとも、誰も責任を取る必要などは無いと付け加えて。
この決定にパンタントは不満を覚えた。
あの症状は間違いなく先天ヘレズイ病だ。すぐに手術しないと命の危険は増すばかり。
手術をしても危険だが、どちらも危険ならば治療に向けて踏み出すべきだ。
先天ヘレズイ病には、外科手術以外の処置など存在しないのだから。
この信念に基づき、彼女はなんと、無断で手術を強行した!
赤子を攫い、衛兵に追われながら幾人かの夫人に匿ってもらい、特に親しかった第四夫人の寝室を手術室とした。
出入り口にはバリケードを組み、助手も無いままたった一人で密かに執刀したのである。
通常より遥かに小さな器具を適度に温め、慎重に開胸する。
肋骨が脆すぎるため開胸器は使えず、左手の指で感触を確かめながら隙間を維持し、そこから器具や指を差し込むしかない。
体温をギリギリまで下げて出血は抑えているが、母親の血を常に絶妙に輸血しながらの手術となった。
小さな赤子は容易く失血死するが、輸血量を制御しなければ血圧で大きな損傷を負ってしまう。
慎重に、それでいて早急に、全てを済ませなければならない。
(よし、やっぱりだ…!)
指先の感覚で、心臓弁の異常を確認。この瞬間、先天ヘレズイ病が確定した。
緊張が走るのと同時に、自分の診断が当たっていたことに内心喜んでもいた。
弁形成術とは、弁の形状を修正し本来の機能を取り戻させるための施術である。
成人に対しては心臓を切開し、患部の弁にそれぞれの医者手作りの矯正具を装着して終わりだ。
矯正具の形状や材質は医術の流派により様々で、"腑の魔女"は襞のあるトーナゴム製のものを使っており、彼女もこれを使用していた。
だが、赤子の心臓は小さく、弱過ぎる。切開などしては深刻な損傷になってしまう。
そこで、二本の極細の針を弁の手前に突き刺し、手探りだけで弁の詳細な形状を把握。
そのまま針で少しずつ削り、少なくとも弁としての機能不全を起こさない形状にまで彫刻するのだ。
パンタントは師がこの方法で赤子を助ける手術に立ち会ったが、実践の機会は得られていなかった。
だが典医として仕えている限り、いつか必ずこの事態には直面せざるを得ない。
これは彼女が、医者として、王に仕える者として超えねばならない試練でもあった。
少なくとも、彼女自身はそう信じてやまなかったのである。
慎重に二本の針を突き刺し、弁を探し当てると、突き刺さぬように、傷つけぬように優しく表面をなでて形を確認する。
これだけでも大変な精妙さと天才的な指先感覚を必要としたが、赤子への手術は更に時間との勝負にもなる。
急ぎながら、それでも冷静に、彼女はかつてない集中の只中に立っていた。
指先の小さな感覚、擦れ合う指紋の形まで感じ取る程の冷たい集中力。
彼女は成功を確信し、形成異常の弁を整え始めた。
(ん!?)
その時、新たな異常を感じ取った。
形成異常を起こしている弁をなぞる感触に、思いの外強い抵抗を感じる。
薄膜を押すような、ごく僅かな反発を指先に感じるのだ。
感触の正体を確かめるべく、角度を変えて針を滑り込ませる。
指先への集中を切らさず、針を伝わる僅かな振動、音を骨で感じ取る。
「これは……!」
思わず一人呟いてしまう。
──弁が、癒着している!
弁の隙間に血溜まりが出来て、それを繋ぎとして一部が癒着してしまっている。
無理に引き剥がせば弁が致命的な損傷を負うか、出血してしまうだろう。
針先を魔力で熱して傷口を焼き塞ぎつつ、癒着部分を丁寧に削り剥がさなくてはならない。
だが、パンタントは魔女としてではなく医師としての修行を積んだのみだった。
魔力を用いた精緻な医術は学んでおらず、助けのない独力の施術であるため魔法使いの協力も得られていなかった。
しかし既に開胸し、針も二本刺し込んでしまっている。
いま中断したとして、二度目の手術など望めないだろう。
患者の体力が保たないだけではなく、命令違反を押しての手術である以上、この手術が済めば間違いなく自分は弾劾され捕縛される。
この患者を助けられる機会は、今しか無いのだ。
大きな賭けに、彼女は出ざるを得なかった。
針を一本引き抜き、針先を火で炙ってから、寸分違わぬ箇所へ再び刺した。
熱を維持できないため傷口を塞ぎ切れない危険があり、更なる時間の制限から焦りが生じてしまう。
熱した針を心臓に何度も刺し込むわけにはいかないのだ。針先が冷めないうちに施術を終わらせねば。
だが、時間がかかりすぎた。
開胸してより40分が経過したにも関わらず、ようやく癒着部の剥離を済ませたところだった。
当初の予定では、もう閉胸と縫合を終えておくべき時間である。
この時間を過ぎてしまえば、生存の確率は凄まじい勢いで下降し始めるのだ。
彼女自身、それを肌で感じていた。
子供の体が死につつある。心臓が耐え切れなくなりつつあるのだ。
「お願い、もう少し、もう少しなのよ」
弁の修理に移り、針で形を整える。
その時、後方の扉がしなるほど強く叩かれた。
衛兵たちの足音と喧騒も響き、バリケードを突破すべく力強く何度も槌を打ち付ける。
まるでノックのように、時間を刻むように、鳴り続ける。
初めて、彼女は手術中に眉をひそめた。
自覚できてしまうほどの強い焦りが指先を震えさせ、彼女はそれを嗚咽と併せて懸命に押し殺した。
開胸から一時間後、ようやく弁の形成術が完了した。
ただちに針を引き抜けば、極小の穴は自然と塞がる。
それから、彼女は小さな心臓を指で挟んで揉み始めた。
普段ならば閉胸後に体温を上げつつ刺激を与えて心臓を活発化させるが、今回は手術が長引き過ぎた。
既に心臓は、形成術完遂とほぼ同時に停止していたのである。
ならば危険を承知で、直接心臓マッサージで動かさなければならない。
「動け、動け、動け」
祈るように呟きながら心臓を揉み続ける。
決まったリズムで刺激を加え、心臓に生きることを思い出させるのだ。
「動け、心臓動け、頼む、動いて」
祈りが懇願に変わろうとも、手を休めなかった。
だが心臓は動かない。血液は送られない。肺は空気を取り入れない。
脳は崩壊を始め、魂は空気のように体から抜けていく。
「動いて、動いてよ、どうして、動け!」
どうして動かない? 最善は尽くした。今できる全てを完璧に行った。
なのに何故、心臓は動き出さない? 病気は治した、完璧に治したのだ。
動かなければおかしい。動かなければ嘘だ。動かなければ理不尽だ。
動くはず、今にも動く、動かなければいけない。
──動け、心臓、動け。
「動いてよぉ!」
だが、遂に心臓が再び動くことはなかった。
生還が可能な死の線、時間制限を超え、彼女は心臓から手を離した。
患者が、死んだ。
私が、死なせた。
その場で崩れ落ち、手術台に背を預けて座り込む。
最善は尽くした、完璧だったんだ。
そう呟きながらも、溢れる涙を止められなかった。
彼女は初めて、患者の死を経験した。
自分の手の中で死んでいく命を感じた。
力なくうなだれ、大粒の涙を滴らせながら、悲しみに打ちのめされていた。
衛兵が扉を破って雪崩れ込んでも、彼女は気付きもしなかった。
パンタントは統王の前に引き出された。
衛兵たちに取り押さえられ、大粒の涙で顔をぼろぼろに崩したまま。
「統王様、先ほど、確認いたしました」
典医の一人が神妙な面持ちで報告する。
統王は背を向けたまま、窓から空を見上げていた。
「統王様、ごめんなさい、ごめんなさい」
濁った声で、その背中に向けてただ謝罪の言葉を繰り返す。
取り押さえられたまま、子供のように泣きじゃくり、歪み腫れた泣き顔を晒す。
そのあまりの無様さと統王の後ろ姿から、典医たちすら糾弾の言葉を失っていた。
あまりにも惨めで、哀れで、酷な光景に、敵すら目を覆った。
「ごめんなさい、統王様、ごめんなさい、私のせいで」
尊敬していた人、父母が仕え敬っていた人、多くの人々の病を取り去った人、自分の医の道を応援してくれた父が尊んでいた人。
そんな人の子供を、この手で殺してしまった。
それは彼女にとって、自分の人生への裏切りであり、父母への裏切りであった。
大きく泣き喚きながら、彼女はただひたすら謝り続けた。
統王の背は微動だにしなかった。
だが、振り向くこともなく、震えることもなく、空を見上げ続けていた。
そして、初めに指令を下した時と同じ声で、ただこう告げた。
「残念だ。本当に、残念だよ」
パンタント・ヘラシュ=ノグは追放された。
典医たちは声こそ上げなかったものの、弾劾文書を作成して上奏。
統王がそれを受け入れ、彼女は典医の職を追われたのである。
王宮を追われた彼女は、家に戻らなかった。
自分は父の遺志を裏切ったのだ。今更、父の妻に合わせる顔などあるはずも無い。
王都にも居られなくなった彼女は心身ともにボロボロであり、自殺すら真剣に考えるほどだった。
苦痛に咽び泣き、罪悪感に押し潰され、悲しみの残りカスに塗れながら、だが死ぬことは叶わなかった。
食はまともに喉を通らず、体は痩せ細り、衣服は擦り切れるに任せ、髪は乱れ放題。
狂人の様相を呈し、フランド地方をただ当て所なく放浪した。
彼女の頭を満たしたのは師の言葉。
『世のさだめに逆らう医の力は、誰のほしいままにもならぬのだ』
この戒めを全身全霊で痛感する毎日を送り、己の愚かさと後悔を毎夜噛み締めた。
だがそれは同時に、医の道を忘れ去ることが出来なかったという事実の証左でもあった。
ある日、不慮の事故で負傷した地元民たちに治療を施す中で、修行時代の日々と共に彼女はそれを思い出したのだ。
医の道を志した理由を見失っても、それを学ぶ日々の中で開花していったものは消えていなかった。
自分はやはり、既に医者なのだ。であるならば、命尽きるまで医者であり続けるしかない。
彼女は体を洗い清め、服を換え、魔女協会領へ向かった。
自分は無価値かもしれないが、医者には価値がある。医療には力がある。
ならば自分そのものを超えた医の力が、この世界に現出する。自分はその媒介になろう。
自分が医を使うのではなく、自分を医に使わせよう。
魔女協会領で師に再会した彼女は、正式に魔女の弟子となった。
そして単なる医者ではなく、魔力の業を医療に用いる魔女の道へ進んだのだ。
新たな使命が五体と魂を衝き動かし、病的なまでの執着が壊れかけた心を繋ぎ止めた。
姉弟子のクルーラー・グーニィとは議論をもとに友情を深め、互いの心の傷を晒し合った。
そうして、とうとう彼女は10代目"腑の魔女"を継承したのだ。
その後は直ぐさま医者不足に喘ぐディゴ荒野へ赴き、以後15年間、医療に尽くす。
だが、その魂には些かの揺らぎも生じていない。起きて然るべき変化も。
傷は癒えていない。
彼女は未だ、許されてはいないのだ。
「先生、先生」
"腑の魔女"は眠りから揺り起こされた。
瞼を薄く開くと、見下ろすクロスの顔が目に映った。
彼は既に、"腑の魔女"を先生と呼ぶほどの敬服を見せていた。
「ん、何ぃ?」
体を起こし、涎を布巾で拭う。
「デザンさんが意識を取り戻しましたよ」
クロスの報告に「あぁあ」と頭を掻きながら応えると、冬眠から覚めた獣のように立ち上がる。
そして帽子を直し、襟を立て直すと、入院患者たちが並んで寝かされている寝台室へ歩き出した。
疲労と寝ぼけで足元を少しだけふらつかせながらも、進む方向を誤りはしなかった。




