腑の魔女11
デルグンドラ人は遥か昔、スロヴ人との争いに敗れ荒野に逃げ延びた人々の末裔だという。
荒野にあるのは乾いた土と吹きすさぶ寒風、毎年のように降り積もる雪。
不毛なる荒野で乏しい資源を奪い合いながら、彼らは身を寄せ合って生きてきた。
略奪の循環は、暴力で成り立つ奇妙な分かち合いと共同体を、奇跡のように生み出した。
もし神が同じ環境、同じ時期、同じ人々を再び用意したとしても、同じ結果にはならなかったであろう。
殺し合い、奪い合いながらも、彼らは憎しみ合いはしなかったのである。
逆に言えば、彼らにとって怒りも憎しみも、暴力には不要なものであった。
ごく簡単な動機で、いとも容易く殺し殺される。
怒りも憎しみも嫌悪も無しに、暴力を振るえてしまう。
先の戦で統王に徹底的に叩きのめされた経験が無ければ、太平の世でも当たり前のように生きていただろう。
デザン・スノウルは混沌とした略奪の時代と、統王がもたらした秩序の時代の過渡期に生まれた。
彼女が生まれた時には、デルグンドラから"最後の略奪"の余韻も消えて久しく、闘争は過去のものとなっていた。
物心ついた頃から母よりデルグンドラ人の話を聞かされていても、最早それを実践する時代ではないことは肌で感じていた。
初めて感じた痛みは赤子の時分、記憶すら残らぬ激痛だった。
長い夜泣きは強さの証として見過ごされてきた痛みは、長じて後も残り続けた。
それが尋常ではないと気付いた時には、彼女は既にスノウル女公だった。
大トカゲに乗れないスノウルは民を率いることができない。
既に思いがけない家督継承で責任を負っていた彼女が、もし痛みに倒れればどうなるか?
後継は途絶え、総督の好意を一度断ったにも関わらず、その舌の根も乾かぬうちに頼らざるを得なくなる。
それは余りに情けない。もとより、痛みはただの痛みである。我慢してしまえば済むことだ。
豪傑さと責任感が、常に正しい選択をするとは限らない。
彼女は君主である。彼女の領地は危機に瀕している。彼女には何の助けもない。
正しい選択を下すべきであるというのが無理であった。
「何があったんですか?」
戸板に駆け寄りながら訊ねる。
デザンは気を失いかけており、呼吸も引き攣っていた。
「食事中に、胸を押さえて倒れたんです! 心臓発作とは思ったんですが、脈がおかしくて」
付き添いの書記が慌てながら答える。
彼とて元魔法使い。相応の知識は持ち合わせているはずだが、明らかに手に負えない事態のようだった。
体は痙攣し、顔は紅潮。常に胸を押さえ、嗚咽のような呻きを漏らす。
心臓が止まりかかっているのだ。
恐ろしい事実が、皆の目の前で横たわっていた。
「緊急手術よ」
震え一つなく立てているのは、その中で"腑の魔女"一人のみだった。
その姿に、先ほどまでの腑抜けたような印象は微塵も残っていない。
「さっさと運ぶ!」
声を張り上げれば、全員がその通りに動いた。
書記がデルグンドラ衛騎兵に「ほら!急げ!」と急かし、戸板は隣の部屋へ運ばれる。
その間に"腑の魔女"は顔に布を巻き、ローブの上から前掛けを身に着けた。
クロスも同様に口と鼻を覆い、投げ渡された帽子を被る。
酒と流水で手を洗い、カンテラを灯して腰に引っ掛ける。
魔女に続いて隣の部屋へ駆け込むと、それと入れ替わるように、書記と衛騎兵二人が追い出されていった。
デザンは中央の手術台に寝かされ、既に麻酔薬を漏斗で喉に流し込まれていた。
「フォーリーズ君、冷気は使える?」
暖炉の前で吊るしていた器具を並べ、ハサミで服を裂きながら訊ねる。
「はい、火の応用で」と答えると、ペンで切開箇所の当たりをつけながら「体温下げて」との指示が下された。
カンテラを右手に持ち、左手でデザンの手に触れる。
自分の体を通して、カンテラの火種とデザンを繋げ、炎に体温を吸い取らせる。
魔力ごと体温を奪い取り、炎は大きさを増すが、デザンの肌色は薄く、心臓の動きは穏やかになっていった。
「このぐらいでいいわ」
その間に"腑の魔女"は手術の準備を済ませていた。
開胸による心臓手術。最低限心臓を動かしたまま行う手術では、体温を下げて可能な限り心臓を大人しくさせなくてはならない。
眠らせ、体温を下げ、それでも心臓が動いたままで執刀しなくてはならない。
当然、肉体にもたらされる危険は時間と共に跳ね上がっていく。
故に、彼女は直ちに短刀を差し入れた。
「左前側方開胸! 開胸器取って」
左脇から前方にかけて刀を入れ、皮膚を開き、筋肉を切開するまで10秒もかからない。
クロスが開胸器を手渡す時には、既に肋骨が露出していた。
肋骨の間に開胸器を差し込み、折れないようこじ開ければ肺と心臓が姿を現した。
「やっぱりね、先天ヘレズイ病だわ」
心臓を掴んで、果物を品定めするように眺めながら呟いた。
その声は緊迫しており、立て襟と帽子の間からは冷や汗が覗いていた。
「ヘレズイ…?」
「先天的な形成異常で、心臓の静脈血を制御する弁の形に出る異常よ。血圧が上昇すると弁が機能不全を起こして塞がってしまい、不整脈や胸痛、動悸なんかの症状が出る。血圧低下で一時的に症状は緩和されるけど、物凄く危険な状態よ」
「先天的ってことは、赤ちゃんの頃からずっと、だったんですか?」
「そうでしょうね、今まで生きてたのは奇跡に近いわ。かなり痛かったはずでしょうに」
話しながらも手は止めない。
開胸状態を維持し、血管の固定と触診を開始している。
「この発作は多分、血瘤のせいね。塞栓が何度も起きることで血栓が出来て、それがどこかに詰まったんだわ。血管を開いて栓を取り出さないと」
「大動脈や大静脈を切るんですか?」
「場所によってはそうなるわね……あった!」
細い動脈の一つを、"腑の魔女"の指先が挟んだ。
すぐさま、それより遥かに細い、蜘蛛の糸のような光の筋にしか見えない針を突き刺す。
血管を詰まらせている血瘤を貫き、固定すると、刀でごく小さな穴を開けてそれを取り出した。
その血瘤は、摘出してしまえば米の一粒よりも小さな、塊とも言えぬような歪な栓だった。
こんなに小さなもの一つが詰まっただけで、人体は時に死に至る。
そう考えると、なんだか空恐ろしいような気がして、クロスは肌を粟立たせた。
動脈に開いた小さな穴は軟膏で塞ぎ、清潔な布片を巻いて補強する。
動脈の傷はあとあと異なる病の原因になったりもするが、今はしのごのと言っている場合ではなかった。
触診で他の血栓が無いのを確認すると、傷口を閉じて縫合し、体を温めて心臓の動きを正常に戻していく。
その最中でもこまめに脈を取り、異常が起きていないか確認を欠かさなかった。
そうして、何とか安定した状態に戻った時には、二時間が経過していた。
手術そのものは10分も経たずに縫合処置まで完了させたため、他の時間を使って体の状態を回復させていたのだ。
「はい、終わりね」
治療の完遂を告げる顔に、いつもの笑みは無かった。




