腑の魔女5
ものの数分で、診療所は満員御礼といった風情となった。
居間と待合室を兼ねた部屋には十数名が詰め掛け、椅子やら机やら床やら棚やら、思い思いの場所に腰をかけている。
むせ返る汗と垢の臭いは、彼らの衛生観念そのもの。
隣室から何度か"腑の魔女"が現れて桶一杯の水をぶち撒けるほどだ。
その度に彼女はガラス管から粉を吸い上げ、鼻息を荒くして戻っていく。
それから程なくして、必ずこう叫ぶのだ。「次!」と。
クロスはその中で、受付や介助のような役目を担っていた。
合図や打ち合わせをするでもなく、自然とそうなった。
杖もなしに歩いてきた老人の膝の震えを見かねて居間へ行ったら、やることがあまりに多すぎてそのまま戻れなくなってしまったのだ。
そうして、診療と治療は"腑の魔女"が、待合室での患者の世話はクロスが、という分担が形成されたのである。
子供の鼻水を拭い、咳をする男の口を布で覆い、嫌がる者を説得する。
襟を掴まれるほどの不興を買うのも一度や二度では無かったが、他の患者は誰も助けてはくれない。
結局は魔法で大人しくさせるのみだ。盲点拡張法で反応を遅らせ、こめかみをはたくと同時に魔力で脳を揺らして昏倒させる。
クロスはこの方法を"ハンス式麻酔"と名付けて活用していた。
それでも、怒りや不機嫌といった予兆無しの、半ば反射的な攻撃には対処できない。
デルグンドラ人はどうやら、暴力のハードルが非常に低いようだ。
ちょっとしたことで「なんだか殴りたくなったな」と思ったらば即実行してしまう。
だから彼ら自身、自らが振るった暴力の理由を理解していないようだった。当然、謝罪などもない。
こんな連中を日常的に相手しているのかと思うと、"腑の魔女"に対する認識を改めねばならなかった。
あれは怠惰だったのではない。貴重な休み時間だったのだ。
そして今は、カーテン一枚を隔てた奥で、分からず屋の患者どもと延々と格闘し続けている。
ぐずる子供を押さえつけ睨みつけて苦い薬を口に押し込み、「悪いところなんか無い」と終始叫びながら抵抗する男を杖で打ち倒してから、その打撲傷ごと治療を施す。
旦那の投げた釘が腹に刺さった身重の女性には緊急手術と検査の後に入院させ、出産までの間の別居を申請するための医師判断書を渡してやった。
問診もたった一人で全てこなし、老人や子供の要領を得ない話や、自覚なき嘘を一つ一つ潰し続けた。
腕を折った患者を治して蹴り出しては紫の粒を飲み、風邪ひきに薬草を処方しては白い粉を吸う。
入院患者が急変しても、順番を守らず勝手に患者が乱入しても、薬剤や器具の在庫が不明になっても、彼女はそれらをバッタバッタと端から捌き、斬り伏せた。
そして、そのような繁忙の最中にあっても、医療設備の掃除だけは決して欠かさなかった。
歯を食いしばり、目を剥き、薬で喝を入れ、あらゆる事態をこなしながら病や怪我を討ち取り続ける。
それは最早学者というよりも戦場の猛者であり、デルグンドラ人たちから彼女がどうやって信頼を勝ち得続けているのかという証明であった。
相手を肩書きではなく名前で呼ぶ文化を持つスノウル領民をして、彼女のみが「先生」と呼ばれ続ける。
「先生」という呼び名こそが、最も彼女を如実に表すのだと誰もが知っていたのだ。
「先生! 急患だァ!」
戸板に乗せられて新しい急患が担ぎ込まれた。
腹を押さえて呻く8歳かそこらの少年だったが、ただならぬ状態なのは、ちらりと横目で見ただけのクロスにも察せられた。
衣服は糞便と吐瀉物で汚れ、戸板の上には今も内容物など無い胃液が吐き出され続けている。
呻き声には時折絶叫に近いものが混ざり、呼吸は早く、肌からは血色が失せていた。
母親らしき女性が付き添って声をかけ続けていたが、反応らしい反応を一切示さない。
ただ苦しみ、のたうち、吐き、そしてまた苦しむだけ。母親も半狂乱で、泣き出す一歩手前のようだった。
思わず、待合室での役目を放り出して後を追う。
クロスが隣の部屋に入った時には、既に戸板は手術台に置かれ、診断が始まっていた。
「いつからですか?」
「わかりません、ついさっきです。お腹が痛いって苦しみだして、吐いて、ちっともおさまらなくて」
「シーレンス、落ち着くのは無理でしょう。でも息子のためにしっかり話して」
敬語が出るのは真剣な証なのだろう。御典医を務めていた頃の彼女が出ているのだ。
「下痢はしてた? 食欲が無かったりはしてましたか?」
訊ねながら、少年の額に触れる。
それから衣服の糞便に怯むことなく服を破り、右下腹を押し込むように触る。
「下痢はわかりません。でも、そういえば、昨日は夕食を残してました。いつもはおかわりをねだるぐらいだったのに」
「なるほど」
手早く少年の衣服を全て剥ぎ取っていく。これはクロスも手伝った。
そして手を動かしながら、きっぱりと母親に告げた。
「急性虫垂炎です。即刻、手術します」
下痢、嘔吐、発熱、食欲不振、局所的な腹痛、そして右下腹部を押し込んだ時の違和感。
十中八九、急性虫垂炎だ。
母親は、明らかに驚いた顔をした。涙も止まるほどの驚きだった。
「えっ、手術って、なんです? どういうこと?」
「息子さんのお腹を切り開いて腑の悪い部分を切り取ります。今すぐやらないと悪い部分は更に広がって、腹膜という部位が侵されれば最悪死にます」
「その、薬とかで何とか出来ないの? あなた医者なんでしょ?」
「医者だからこの方法しかないってよくわかるんですよ。まあとにかく、私はこれからそうしますので、一応知らせました。同意は必要ありません、あなたには関係ない事ですからね」
「えっ、ちょっ、なによ、どういうつもり」
「クロス! そっち持ちなさい!」
不穏な事態になりそうなところでさっさと会話を打ち切った。
毅然とした指示に逆らうこともできず、言われた通り戸板の一端を持つ。
もう一端は"腑の魔女"が持ち、口も手も一切挟ませずつかつかと壁際まで進むと、石製の壁を蹴り開けた。
「あの、ヘラシュ=ノグさん」
「なに?」
壁を通り抜けた先は、同じような石製の部屋だった。
ただ、同様に清潔であるものの、置かれている物品は遥かに少ない。
手術台の他には、手術道具が乗せられた銀製トレイと、灯り用の燭台三本、そして暖炉のみだ。
「よかったんですか? あの母親今頃怒ってますよ」
「好きにしたらいいわよ。怒りたいのは彼女の勝手だわ」
「そういうんじゃなくて、その」
「なぁによ、あの母親を納得させろっていうわけ? そんなのお断りだわよ」
患者を手術台に移すと、戸板は壁際まで投げ捨てられた。
それから、漏斗の注ぎ口がついた袋のようなものを、トレイから持ち上げる。
袋を押すと注ぎ口からは水が噴き出し、それで少年の体を満遍なく洗い始めた。
「虫垂炎は放置すると腹膜炎や腸炎に広がるってだけじゃない。ものすっごく苦しいのよ。今こうしている一秒一秒が、この子の魂を突き抉り続けている。そんな時に悠長に母親のご機嫌取りだなんて、真っ平だわ。同意も理解も必要ない。この空間で必要なのはたった一つ、治療よ」
洗い終われば、注射器でトレイに置かれた瓶から中身を取る。
葦ほどの太さがある針を少年の腕に突き刺して薬液を注入すると、あっという間に少年は気を失った。
えづきや痙攣も止まり、緊張していた全身がぐったりと脱力する。
「全身麻酔? 注射で?」
「原理で言えば酒で酔わせたり、魔法で昏倒させておくのと大して変わんないわよ。一時的な神経の抑制で魔力を遮断して反応を弱める。でも酒だと効果が十分じゃないし、魔法だと神経への負荷が大きすぎるから、新しく麻酔薬を作ったわけ」
「わかったらさっさと準備なさい!」と続けて、前掛けを押し付けられる。
口と鼻を塞ぐための布も渡され、手術の助手としての役割を与えられた。
「じゃ、最後に壁全体と天井をあなたの魔法で炙ってくれる?」
「はえ?」
「火の魔法が得意だって聞いてるわよ。ほら、さっさとやって」
「あの、戸板は?」
「隅っこで燃えさしときゃいいでしょ! 早よしろ!」
「は、はいっ!」
手術用の短刀を握ったまま両手を振り上げる魔女に逆らえるはずもなく、魔鳴法で暖炉から一握りの火を取り出す。
それを火種として、両手の中で燃えさせたまま息を吹きかけると、勢い良く炎が壁に向けて放射された。
壁を丹念に焼き、天井を炙り、転がってる戸板まで燃やす。
全てが済むと、両手を閉じて火を消した。
そうして手術台の方を振り向くと、手術は既に始まっていた。
蒸留酒を染み込ませた綿で患者の白い腹を拭き、インクでアタリをつけてから、正確に刃を刺し入れる。
研ぎ上げられた短刀の切れ味は抜群であり、ほとんど抵抗もなく少年の腹は切り裂かれた。
当然、血が溢れ出るが、クロスは魔力を送って血を弾いて除く。
その間に"腑の魔女"は鉗子で手早く止血を行い、肉や脂肪をかき分けて、患部を露わにした。
赤い肉の洞窟の向こうで蠢く小さな臓器は、羊の解体を思わせたが、クロスはそれすら未経験である。
トントン拍子に人の、それも子供の臓器をまざまざと見せられて、不気味に思わないはずはなかった。
「見なさい、クロス。虫垂が出たわ」
そんな彼に、容赦なく手術の模様を見せつける。
かなりの悪臭も立ち上る中、クロスは呻きやえづきを懸命に堪えながら、言われた通りに創部を覗き込んだ。
そこから見えたのは、腸に付属するごく小さな臓器、から更に少しだけ飛び出た瘤のような器官だった。
周辺と比べても明らかに赤い上に膿に塗れたその瘤は、一目で病気の原因であると察せられた。
「こいつが炎症を起こしてる病巣よ。痛いはずだわ、腸管と癒着しかかって、膿まで出てる」
「ど、どうするんですか?」
「血管を塞いで、間膜も切り離して、液漏れしないよう根元から括って切り離す。でもその前に癒着部を切り離さないと、腸管や腹膜を傷つける恐れがあるわ。膿もちゃんと取り除かないと」
解説しながらも、視線は一瞬たりとも患部から切らない。
「綿丸を」
「はい」
いよいよ本番だ。視線と集中を切らさないまま、指示を出す。
クロスはそれに即座に応え、先端に小さな白い球が挟まった鉗子を手渡した。
綿丸とは、水にさらしてよく延ばした木綿を球状に編んだものである。
細かい繊維を一本一本編み込んであるため端屑や繊維屑が出にくく、患部を汚染せずに洗浄や血液の吸収を行える。
また、球状であるためガーゼのように吸着したり埋没してしまうようなこともない。
それ故に熟練した技術と手間は必要になるが、"腑の魔女"はこれを愛用していた。
この綿丸で、まずは膿をよく拭き取る。
膿を残したまま手術を続けると、新たな炎症の原因となる場合があるからだ。
しっかりと全て除去できるまで、いくつも綿丸を使い、丹念に、そして慎重に拭き取るのだ。
綿丸をおよそ15個前後使用して拭き取った後は、水を吸い込ませた綿丸で虫垂を拭う。
擦るように拭き取るのではなく、優しく当てがうようにして繊細に扱うのだ。
水には焼き締めたハレアン果実の皮を漬けて、消毒効果を僅かに持たせてある。
「2番トキリ」
「はい」
それが済めば、次は癒着部の切離である。
これには、先端にいくほど細くなっていく木製の道具、トキリを使う。
先端にはやや歪曲した銀製の鋭利な被せ物がしてあり、細かい作業に向いた道具だった。
番号は先端部の歪曲具合の違いを表しており、ここには4番まで用意されているようである。
腸は、基本的には不潔な部位だ。それが表す意味を、医者である彼女は腑の底から理解している。
ごく僅かな傷が新たな病巣となりかねない。
だが大胆さを欠き、躊躇いからまごつけば、腹膜がべりりと剥がれて傷がつく。
繊細に、そして手早く、あたかも簡単な一手順であるかのように済ませなくてはならない。
はたから見れば、僅かに手先を動かしただけ。
何らかの行動を取ったようにすら見えないかもしれない。
ただ立っているだけに思えても、彼女は確実に、それを成し遂げた。
刃の動きは素早く、クロスすら何が起きたのかを理解できなかった。
ただ、彼女が突き返すトキリを受け取り、次の指示を待つだけだった。
「癒着部切離と間膜切離は済んだわ。小鉗子ちょうだい」
「は、はい」
次は小さな鉗子で、虫垂に栄養を送る血管をしっかり挟んで塞ぐ。
それから麻糸で虫垂の根元を縛り、右手に持つ鉗子で虫垂そのものを挟んだまま、左手の鋏で虫垂を根元から切断した。
「綿紗。水つけて」
「はい」
鋏を押し付け、その手でそのまま、ガーゼを挟んだ鉗子を受け取る。
そのガーゼの上に、切除した虫垂をそっと乗せ、確実に傷口から取り上げた。
「焼き鏝。一番小さいやつ」
「あ、はい」
取り出した虫垂を鉗子ごと銀皿に置くのを見届ける暇もなく、新たな指示が下された。
暖炉にはやはり何本かの焼き鏝が差してあり、クロスはその中から一番小さいもの──小指よりも細く短いもの──を選んで慎重に手渡した。
一体これで何をするのかとクロスが見守る中、"腑の魔女"は手早く焼き鏝を腹に差し入れる。
そして、虫垂ごと切断された栄養血管の断面を一瞬で焼いて閉じてしまった。
僅か一秒の早業である。しかも、針程度の太さしかない血管を、すぐそばには腸も盲腸もある中で。
クロスは目を見張った。
技術だけではない、恐るべき胆力の持ち主だ。
「早く、この焼き鏝戻してもらえる?」
「あ、はい、すいません」
思わず謝ってしまう。新たに涌いた畏怖からの態度であった。
それからは、残った虫垂の切れ端をかがり縫いで盲腸に埋め込むように縫合し、縛っていた麻糸を取り出す。
吻合と縫合を繰り返しながら鉗子を外し、切開創を閉じてきっちり縫い合わせたらば手術は完了。
消毒用の蒸留酒と保護用の軟膏を塗り、折り重ねたガーゼを当てて、包帯を巻く。
「はい、おーわり♪」
「お疲れ様でした」
笑みを浮かべて少年の頭をなでるヘラシュ=ノグと、大きく息をつくクロス。
どちらがより消耗していたかは明らかであった。
「この子、どうなるんでしょう」
「まあ入院だわね。上手くいったとは思うけど、合併症の心配もあるし、経過によっては腸閉塞も起こりうる。そういった諸々含めてまぁーあ6日間てとこね」
「いえ、そうじゃなくて」
少年の顔を横目で見遣る。
麻酔が効いて眠っている顔は安らかというより脱力しきっており、だらしなく口は開いて涎が垂れていた。
「やっぱり、このことを憶えたまま育つでしょうから」
クロスがどういう人間なのか、"光の魔女"──というよりクリン──から聞いている。
なればこそ、心配しているのは子供の将来ではないだろうと容易に察せられた。
「ま、あの母親から色々吹き込まれて育つかもね。でも知ったこっちゃないわよ。あたしは治療で手一杯なんだから、他の奴はやりたいようにしたらいいわ」
だが彼女にとって、そのような心配など既に周回遅れである。
デルグンドラを相手に15年も、医療の最前線で戦ってきたのだ。
クロスが今更抱く想いなど、彼女の目からは滑稽にすら映るだろう。
「それよりあんた、よく手術器具の名前がわかったわね」
「お師匠様に仕込まれましたから。"屍の魔女"の弟子なら、手術の助手ぐらいは務められるようになりなさいって」
「ああ、そういやあんた"屍"の弟子だったわよねぇ」
かつての"腑の魔女"が腑分けを行なっていたのは"屍の魔女"のためである。
つまり"屍の魔女"は本来、"腑の魔女"以上に人体と外科技術について精通するものであるのだ。
時代を経たとしても、屍術が人体・生体への深い造詣から成り立つものである限り、その構図は変わらない。
そして、助手を立派に務められるという技能は、場合によっては執刀医の技量以上に重要な要素であった。
「さて、休憩は終わりよ。まだまだ患者は列を成してんだからね」
「はいっ!」
手術台に敷かれた布を担架代わりに、少年を持ち上げる。
二人は息を合わせ、石壁の出入り口へ向かって歩を進めた。




