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魔女はペン先と黒インクにて集う  作者: wicker-man
腑の章
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腑の魔女3

「スノウル領は長いんですか?」


水桶の上で雑巾を絞りながら、クロスは訊ねた。

今は床に飛び散った血を拭いているところである。


「ここは2年ってところね。パーダー領で1年、総督領で半年、ボノハウロ領で3ヶ月、テギナエ領で7ヶ月、その前はパーダー領に2ヶ月で、あとはえーと」


逡巡しながらも、傾いだ椅子は戻さず茶を啜る。

それから、腹に乗せた皿の上へ器用にカップを戻した。


「ま、デルグンドラ領には合わせて15年ぐらいは居るかなあ。もうすっかり諸侯全員と顔見知りになっちゃった」


頭の後ろで手を組み、赤子の揺りかごのように椅子を揺らす。

それでも、茶は一滴も零れなかった。


「そんなに。でも、それならスノウルの滞在は長い方ですよね?」

「まーね。ここは一回来ちゃうと出て行くのが面倒になるし、デザンからも歓待されてるからね。苔の煮しめや漬物も案外美味しいし、茶葉程度なら"鳥の魔女"に届けてもらえる。金は滅茶苦茶かかるけど」

「どうしてデルグンドラなんです?」

「需要と供給の問題よねー」


残った茶を一気に飲み干す。それから床に置かれたポットに手を伸ばし、おかわりを腹の上で注いだ。


「ここじゃ医者は引っ張りだこよ。おかげで生活には困らないし、重症例も多いから研究だって捗る」

「さっきの、あの寄生虫、ですか?」

「あれは研究用じゃないわよ! ストランソームの卵は滅茶苦茶頑丈で強くてね、下手な処理をすると、腹の中の卵が環境中にバラ撒かれちゃうのよ。だから魔女協会に送って、強酸で念入りに処理してもらうわけ。知ってる? 虫や魚の卵には、カラカラに乾いた砂漠の中で何百年も保って、偶然水と出会った時に孵るものもあるのよ」


「へぇ〜」と感心しながらポットを持ち上げて床の血を拭き取り、ついでにポットの底も拭う。


「それよりデザンにはもう会った? 今のスノウル女公なんだけど」

「会いましたよ。詐欺師呼ばわりされた上に剣で脅されました」


帽子と立て襟の奥から「ぷっ」と噴き出す音が漏れた。

茶を含んでいれば、鼻に入っていただろう。


「グーグと協会長から聞いてるよ、あんたやり手なんだってね? でも、ここじゃ用心しなよ。言葉の策略が通じるのは、聞く気のある奴だけだからね」


嘘が通じない人間は二種類。賢い者と、愚かな者だ。

相手の言葉を聞く程度の愚かさと賢さが相手に備わっていてこそ、嘘は効き目がある。

理解しているつもりだが、未だ実感に足るほどの経験は無い。


ひょっとしたら、それを知る良い機会なのかも──



「デザンさんて、どういう方です?」

「何? 惚れたの? 歳も近いしねぇ」

「そういう訳では無いですけど、なんとなく気になりまして」



流石に、自分の人生経験のため、とは言えなかった。

この際そのような勘違いをさせておいてもいいかと思いもしたが、後から面倒なことになるかもしれない。

クロスは「やっぱりいいです」と言おうとしたが、そのために息を吸ったところで、ヘラシュ=ノグの方から喋り出した。


「3年ぐらい前に先代のスノウル女公は怪我の後遺症で大トカゲに乗れなくなってね、引退することになったのよ。そしたら、総督はスノウルと姻戚でしょ? 総督の娘を養子にして継がせようって案が出たんだけど、先代は『政略と贔屓じみていて気に入らない、総督は皆の総督でいるべきだ』なんつって断ったのよ。それで、当時まだ9歳だったデザンに跡を継がせた」

「9歳から!? ってことは、デザンさんは今12歳なんですか」


9歳からとは、おそらく現"眼の魔女"が"原初の目"を継承した歳よりも幼いだろう。

デルグンドラとスノウル女公の性格から考えて、隠居した先代は口うるさい助言を挟みもしていまい。

そうすると、彼女はたった一人で、過酷極まる地の数百もの同胞を3年間も守ってきたことになる。

想像していた以上に、彼女から学ぶべき事柄は多いのかもしれない。


「ま、母親の後遺症は1年後にあたしが治しちゃったんだけどね、一度跡目を継げばやり直しは効かないから、今は騎兵団長として騎兵と大トカゲの管理をやってるみたいよ。統治には口出ししてないみたいだから、デザンは立派な、デルグンドラ諸侯の一員ってことね。来賓に会うときはたまにあたしが同席するけど」


デザンが自分を警戒した理由がわかった。

彼女にとって"腑の魔女"は母の恩人であり、貴重な腕利きの医者であり、重要な助言者なのだ。

幼く、経験も浅いデザンより、ディゴ荒野を15年も回ったヘラシュ=ノグの方が各諸侯については遥かに詳しい。

判断力や理性の問題ではなく、知識量の問題として彼女は"腑の魔女"を重要視しているのだ。



「まだ子供だから色々知らないこともあるけど、性格は完全にデルグンドラの古い諸侯って感じよね。統王に負ける前のあいつらって、みんなあの子みたいだったんじゃないかしら? 我が強くて、恐れ知らずで、短気で、でも矛を収める勇敢さもある」

「今は、違うんですか?」

「諸侯たちも昔よりはだいぶ丸くなったわよ。飼い慣らされたって言えばいいのかな。統王と総督のおかげで、楽に豊かになっていけば、そりゃあ変わらざるを得ないわよね。戦うよりも商いや生産に精を出し、兵よりも麦に力を注ぐ。まあ、統王の目論見通りよね」



デルグンドラ諸侯の武力を制御するには、まず総督を置いて頭を押さえ、次に経済と文明で飼い慣らす。

国や部族を調教する手段としては定石であるが、あまりにも有効であるがために定石とされるのだ。


「でも、あの子は違う。スノウルは中央の発展から外れ、先代は己の経験から我が子に若い内からデルグンドラ流を叩き込んだ。あの子にはまだ若く鋭い牙が残っている。未だ血を知らない牙だけれどね」


残った紅茶を空にし、皿とカップを床に置く。

それから体をうねらせて跳ねるように飛び起きると、クロスに「掃除はそこまで」と告げた。


手を止めてみると、風の音に混じって人の声が聞こえ始めた。

遠くからこちらに向かって来る、複数の声。怒声ではないが、何やら緊迫した声色だった。

それを以って彼は察し、バケツに雑巾を投げ入れると急いで部屋の隅に寄せた。




「お遊戯の時間よ、坊やたち」




魔女が舌なめずりと共に手袋に利き手を差し入れる。

その直後、診療所のドアが破城槌に破られた門のように開け放たれた。

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