腑の魔女1
かつてある魔道士が言った。「ディゴ荒野は地獄と呼ぶには息づく命は多く、天国と呼ぶには全うされる命は少ない」と。
荒野を吹き渡る突風の中で、クロスはその言葉の意味を嫌という程実感していた。
夏だというのにフードを押さえる手はかじかみ、地面は水を打ったが如く冷たかった。
ディゴ荒野に入ってより3日、彼は街道を進み続けていた。
だが寒風吹きすさび、冬には容赦なく積雪する広大な大地の全てに、十全な街道を張り巡らせて維持するなど到底不可能。
整備と維持がかろうじて可能なのは軍の通行路となる幹線程度であり、それ以外の道はただの少し抉れた溝だった。
目指すスノウル女公領は荒野の外れにある岩棚地帯。
荒野の中では、ハサクリツタゴケ等の食料栽培が可能な分、比較的安定した文化を持つ。
だが岩場の道は険しく、起伏に富み、大トカゲ無しでの通行は難しい。
そのせいで、道が殆ど整備されていないのだ。
大トカゲ無しでの通行が難しい以上、整備によって得られる恩恵より維持の損失の方が大きいのである。
太陽を見上げて時刻を確認したいが、強風と吹き上がる砂塵がそれを阻む。
俯き、フードを押さえ、ただ迷わぬための目印としてしか機能していない道を見失わぬよう、必死に目を凝らす。
そうして、一歩、ただ一歩と確実に進む。もう少し進めば、風除けの休憩小屋に着くはずだ。
道が整備されていない代わりに、一定間隔で建てられている宿泊可能な小屋。
クロスは既に三日間、それを泊まり継ぎながら進んでいた。
不意に、風が弱まったように感じた。
押し返すような向かい風が弱まり、砂塵の量も減る。
コートは未だはためいているが、視界は明瞭となり、それによって彼は地面を覆う影に気付いた。
影の元を確かめようと、何の気なしに顔を上げる。
そんな彼の眼前にそびえていたのは、三騎の大トカゲ騎兵だった。
壁のように並んで立ちはだかる三頭の大トカゲに跨るのは、麻布の上衣を纏い、顔面を完全に包帯で覆った男たちである。
背中には木製の槍を背負い、腰には伝統的な木棍が差してある。
他の地域であれば山賊かと見まごう格好であったが、額部分の包帯に描かれた藍色の目は彼らがデルグンドラ蜥蜴騎兵であることを示していた。
あるいは、それも結局は山賊と大差無いのかもしれないが。
「クロス・フォーリーズか?」
影の上から問いを投げかけられる。
高圧的な態度と出で立ちには警戒を抱いたが、デルグンドラ諸侯の兵であれば、悪いことは起きないはずだ。
何せ自分は統王に会っている。デルグンドラ騎兵に何ができるというのか。
「はい、そうです」
しかし、返答は結局礼儀に則ったものであった。
騎兵の一人が大トカゲを進ませ、更にクロスに肉薄する。
その構図はまさしく、トカゲに見下ろされる小鳥だ。
騎兵に見下ろされるという初めての威圧感にたじろぎはしたが、怯えはしなかった。
「デザン様がお呼びだ、来い」
それも、大トカゲが口を開いて彼にかぶりつくまでだったが。
「部下が失礼を働いたようだが、大事ないか?」
一時間後、クロスは砦の応接間に引き出されていた。
スノウル女公領の岩苔砦は、岩棚の頂点に建てられた砦だ。
彼はそこで、スノウル女公本人に会見しているのである。
「はい、襟首がやや縒れはしましたが」
「結構」
そのスノウル女公だが、卓を挟んで座しているのを加味したとしても、明らかに小さかった。
声には凛とした力強さがあったが、顔つきはやはり幼く、10代前半にしか見えない。
それでいて堂々と、兵たちに僅かな手振りのみで指図をしていた。
「スノウル女公閣下、その、不躾ですが」
「お前をここに連れて来たのは見定めるためだ」
言葉を遮る彼女の目は鋭く、それでいて冷静だった。
"眼の魔女"の脱力して悟ったような目つきとはまるで異なる。
だがそれ故に、違った強さを具えた深い藍色の瞳が輝いていた。
「何を、でしょうか?」
「必要なものを、だ。よそ者には必ずそうする」
言葉通り、射抜くような視線は明らかにクロスを品定めしていた。
警戒心の強さと排外的な気風はデルグンドラの共通項目。
特に食物の産地であるスノウルは昔から攻撃に曝されることが多く、防衛本能は長い時間をかけて研ぎ澄まされている。
だがスノウルは代々女が治める地なだけあって、魔女協会の徒であるクロスに対しては、これでも手心ある方と言えた。
「お前はヘラシュ=ノグに会いに来たのだろう? 彼女に何用か」
「"腑の魔女"様ですか? ご存知──」
「ヘラシュ=ノグだ」
少し威嚇するように語気が強められた。
「そのものを示すのはそのものの名前だけだ、称号などで呼ぶのは止めろ。私のこともデザンと呼べ。スノウルは私の一族と領地を指すが、私を指してはいない」
失敗したか。クロスは瞬時に己の過失を心中で悔いた。
デルグンドラ独特の文化への理解が浅かった。機嫌を損ねてしまったかもしれない。
しかし、最も不味いのは冷静さを失うことだ。慌てて失態を重ねては、最悪領外に追い払われる。
ここは威風堂々と、失敗など犯していないかの如く振る舞わなくては。
「──ご存知かと思いますが、ヘラシュ=ノグ様への魔女学会への招待状をお渡しに参りました」
努めて繕い、一筋の汗すらかかぬようゆっくりと言上する。
デザンは視線の鋭さこそ変えないものの、椅子の背もたれに背を預けて大きく鼻で息をついた。
そしてやにわに右手を差し出して、一言。
「見せよ」
決然と言い放った。
「へ?」
「見せよと言った。お前からは嘘を感じる」
流石の直観力といった所だろう。
だがクロスが嘘つきであると見抜いていても、その嘘がどういう種類と動機かまでは知る由もない。
要求の内容も、彼女の立場と文化からしてみれば妥当であるようにも思われたが……
「それは、ダメです。本人以外に渡すわけには参りません。ご容赦を」
「たかが紙とインクだ。重要機密が書かれているのでもないのだろう。見せよ」
「申し訳ございません、無礼は承知の上ですが、何卒ご容赦を」
頭を深々と下げながらも、コートのポケットは握り締める。
クロスの役目は、確実に招待状が本人の手に渡るよう守ること。
本人以外の者に渡すなど、絶対にあってはならないのであった。
「スノウルの領主スノウル・デザンが命じているのだ。即刻、その手紙を見せよ」
立ち上がり、声を張って命じられても、クロスはただ「なりません」と応えるばかり。
業を煮やしたか、デザンは入口で待機していた二人の衛騎兵に「トグル! ベイン!」と呼びかけた。
それだけで命令を理解した衛騎兵らは抜刀しながらクロスに迫る。
「なりません!」
その足音を聞くや否や、振り向きざまにカンテラを掲げた。
灯火は瞬時にして明るさと大きさを倍化させ、カンテラの中で激しく燃え上がった。
その様子に、衛騎兵は足を止めて腰を落とす。
相手が武器を抜いたことで、振るうべき暴力の性質が変わったのだ。
クロスにとっては、不味い状況だ。目鼻を塞いだデルグンドラ騎兵に炎は示威効果が薄い。
これは、一戦交えてしまうかもしれない。勝っても負けても、使命は果たせないだろう。
ならば
「寄らば、デザン殿の御命はありません!」
カンテラを騎兵ではなく、デザンへ向ける。
衛騎兵もデザン本人も、まるで怯む様子は無かったが、後には引けない。
「魔女の方々に招待状を手渡すのが私の使命です。あくまでそれを阻むというならば、この砦を、領地を焼き払うことも厭いませんよ!」
掲げたカンテラを更に強く握り、魔力を送り込む。
炎は益々激しく燃え上がり、カンテラを掴む手からは汗が滲んだ。
進んでも退いても命は無い。ならば、力強く踏ん張り、留まるのみだ。
クロスの目の奥底で、魔力の炎が灯る。
「もうよい、下がれ」
その時、デザンの命令が下った。力強く冷静な声色は、些かも怒りや呆れなどで濁ってはいなかった。
命令は即座に実行され、二人の衛騎兵は剣を納めて背を向ける。
「いいだろう、私が案内する」
軽やかに卓を飛び越え、従者からコートを受け取り、袖を通しながら進む。
一切の威儀を乱さず歩み、四名の屈強な従士を伴う姿は、クロスの腹ぐらいまでしかない少女を数倍大きく見せた。
それでも、真ん前で向かい合えば、彼女は飛ぶ鳥を射上げるようにクロスの顔を見上げることになる。
「お前は嘘つきだが、骨はあるようだ。決着は後でつけよう。来い」
それだけ言うと、クロスの腰を強めに叩き、その横を通り抜けて行った。
クロスは掲げていたカンテラを下げて、金具に固定し直す。
そして息を吐きながら頭を振ると、小走りでデザンの後を追った。
スノウル女公が居を構える岩山地帯は"雪の関所"と呼ばれている。
向かい合う二つの大きな切り立った岩山が作り出す、渓谷様の地形には冬に於いて大量の雪が堆積する。
それを避ける為、人々は古来より岩屋に住まい、今では高所の岩肌に自ら穴を穿ち暮らしている。
住居の外側の岩肌ではハサクリツタゴケを栽培し、岩山の裏の大虚ろでは泥炭が採れた。
どちらも、二つの岩山を通り抜ける冷たい強風による賜物である。
彼らにとって風は天敵でありつつ、自然の恵みの大元だ。
冬以外の全ての季節を使って、彼らは冬に備える。デルグンドラ諸侯の標語にも、冬や雪との戦いの歴史を滲ませるものが数多くあった。
二つのうち一つの岩山の頂点にあって、岩苔砦はスノウル女公領最大の建築物である。
建てられた目的は支配階級の象徴と軍事拠点として、という意味もあったが、最大の理由は風除け雪除けである。
砦の中には数十軒の民家が建てられ、軍事拠点というよりはちょっとした村の様相を呈していた。
行政使府や換勘場も置かれ、地下には騎乗用大トカゲの飼育場がある。
風に曝される砦外壁では、ついでにハサクリツタゴケの栽培まで行なっていた。
クロスとデザンは、領主館を始めとした各軍事施設の密集する軍区画から、生活施設や民家のある村区画へと向かっていた。
泥で隙間を塞いだ木造建築の数々は年季が入り、いくつもの補修の跡が見て取れた。
泥炭運びや汲み取り人、巡回騎兵の他には人通りも無く、今までで最も色あせた村だった。
二人と供回りの兵たちは無言で、そこを歩く。気まずさ故ではない。
デルグンドラ生来の気骨と、砦の壁に遮られてはいるものの厳しい寒さを保った風が、無駄口を叩かせなかった。
「あれが診療所だ」
やっと口が開かれた時には、目的地に辿り着いていた。
一際大きな石造りの平屋が、デザンの幼さを残した指に指し示される。
クロスが礼を述べて向かうと、彼女とその一行は答えもせず踵を返して去ってしまった。
デルグンドラ諸侯、聞きしに勝る扱いづらさだ。
虚飾やおだてが一切通じないのは、彼にとって「やりづらさ」を感じるのみだった。
役目を果たして早く立ち去りたいとの想いは、寒風に吹かれていた時よりも強くなっていた。
ともあれ、平屋に歩み寄り、出入り口の扉を強めに叩く。
少し待っても返事がなかったので、二回、三回と叩くと、ようやく扉越しに声がかかった。
「開いてるよ! 診療所に鍵かけるわけないだろ!」
伸びのある、高音と低音が入り混じったような奇妙な声。
大きくて高い声を、少し押し潰して縒りを底へ纏めたような、形容しがたい声だった。
扉に手を引っ掛け、風の圧力に負けぬよう体重を乗せて引く。
開かれた扉の先でクロスが最初に目にしたのは、飛び散る血飛沫であった。




