光の魔女13
数分前──"光の魔女"とクリンはエントランスにいた。
行政使府から、押収した書類の内容について訊ねたい、との呼び出しがあったからだ。
大方"光の魔女"の字が汚すぎて読めなかったのだろうが、行政使府からの呼び出しとあっては仕方ない。
留まる予定を急遽変更し、二人は支度を整えてエントランスに差し掛かったのである。
然して、今日の"光の魔女"は朝からいつにも増して落ち着きを欠いていた。
体を揺らしたり、手足をばたつかせたり、意味もなく歩き回ったり、まるで子供のようだった。
クリンがいくら訊ねても諌めても「んーん」と気のない返事をするばかり。
だがクリンにはわかっていた。彼女は心配なのだ。
大勢の、それも対立する魔道士会の魔法使いたちと、商業の街で目の肥えた行政使府の役人たちに"ガル・プリズム"を披露する日なのである。
クリンがいくら「フォーリーズさんが上手くやってくれますよ」となだめたところで、心配の波は途切れず寄せ続けた。
もし調整が十分じゃなかったら? もし小さな傷がついていたら? もしクロスが間違った使い方をしてしまったら?
もし魔道士会に難癖をつけられたら? 成功率は高くなくとも、もし盗まれてしまったら?
もし湿気や露がプリズムに付着していたら? もしプリズムの表面が曇っていたら? もし不測の事態が起きたら?
本当に、本当にすべて万全なのだろうか?
発明品は"光の魔女"にとって、学者にとって、己の全てであり、我が子のようなもの。
今日は期せずして、それが初めて衆目に晒される晴れ舞台。
大丈夫? 本当に大丈夫? 本当の本当に大丈夫? 本当の本当の本当に?
思考と感情がない交ぜになったものが回転し、その表層がクリンにも流れ込んでくる。
それでもなんとか、彼女をエントランスまで連れて来た。
正直に言ってこの呼び出しはクリンにとって渡りに船だった。
彼女を光陽社から引き離せば、主人の心配に対して自分が心配をする必要もなくなる。
離れてしまえば、彼女がプリズムをどうにかしようと思っても、それは不可能になるのだ。
「さ、行きましょう光陽様」
「うん」
落ち着きなく周囲を見回しながら応える"光の魔女"。
その目が、あるものを捉えた。
瞬間、閃く。その時には、既に体は動き出していた。
突発的なアイデア。反射的な決断と実行。
クリンがそれを感じ取った時には、全てが終わっていた。
「クリン、先行ってて」
その言葉が言い終えられる瞬間には、彼女は既に魔力昇降機に飛び込んで扉を閉じていた。
「なっ」
さしものクリンも、驚きの表情のまま顔面が硬直する。
速やかに魔力昇降機の隠し扉に駆け寄り、力づくで扉を開いたが、そこにあるのは縦穴の空洞と上がっていく昇降機の底のみ。
それを見るや否や、彼女は扉も閉めずに、階段めがけて駆け出した。
執務室に到着した"光の魔女"は、鼻歌でも歌いながらプリズムの広間に向けて歩き出した。
既に監査団は広間に入っているようで、彼女は机の上に放置されていた砥石を手に取る。
先日、執務室で研磨をした時に用意して、そのまま放置していたものだった。
──やっぱり、こうして良かった。このクルーラー・グーニィがきっちりと整えてあげないとね!
朝からの心配より解放されていた彼女は足取りも軽く、勇んで広間へ向かった。
自らに浴びせられる栄光と賞賛、魔道士からの羨望と嫉妬を想像しながら。
そうして彼女は、偽物の灯火を見たのだ。
(光陽様!)
融合した魂の中で、呼びかけ続ける。
今や荒れ狂う魂は光に蚕食され、濁流と化しながら崩壊を続けていた。
渦巻く感情は怒り、憎しみ、恐怖、復讐心、虚栄心。いずれも外装を失った本質そのままに、ひたすら暴れていた。
(光陽様! いずこに!)
しかし彼女は呼びかけ続けた。縋るように、懇願するように。
壊れつつある魂の、どこでもいい、自我の片鱗が残ってはいないか。
単なる力と化した制御不能の濁流に溺れる、真なる魂の部分が助けを待っているのではないか。
彼女は探し続けた。"光の魔女"の残留した意識を。
そして、見つけた。記憶領域の遥か奥底に隠れるようにして蹲る、か細き断片を。
(光陽様!)
駆け寄るように接近し、呼びかける。
記憶に潜っていた意識は呼び覚まされ、僅かに光の勢いが緩んだ。
(クリン! こんなとこで、何やってるのよ。あんたの魂まで崩壊しちゃうわよ!)
それは最も純粋な意識だった。無意識は全て解放され、表に現れている。
その分、意識が魂の底に蒸留されていたのである。
(助けに参りました。私の使命を、果たしに来たのです)
(もう手遅れよ、太陽は沈み始めた。薄明の輝きを最期に、この命も夜へと呑まれるわ)
(何を仰います。この私が最後までついている限り、日輪は中天に輝き続けますとも)
精一杯元気付けても、魂融合中のアーゲルン人であるクリンには、相手の心が伝わってくる。
(いいえ、ここまでよ。それがあたしの望み。これはあたしが望んだことなの)
覚悟、諦観、そして自責。激しさの奥底にある感情は、今や押し潰される寸前だった。
(がむしゃらにやってきた。欲しくて、壊したくて、殺したくて、死にたくて、だからここで終わりなのよ。あたしは死に、プリズムは残る。あたしの残した光で世界は滅茶苦茶にぶっ壊れるでしょうね。それで満足よ)
引き剥がそうとする力を感じる。融合を拒絶しているのだ。
だがそれも、子供の一押し程度のものであった。
それだけ、この自我は弱り切っているのだ。
(光陽様)
僅かな力を跳ね除けるように、更に近付く。
彼女は今、初めて主人の意思に背いた。
(遺された私は、どうしろと仰るのですか? あなたに破壊される世界を見届けて、無残に焼き尽くされれば良いのですか?)
返答は無い。沈黙こそが、返答か。
伝わってくるものは、強いて言えば当惑。
(私はあなたの従者です。あなたを守る盾です。主人が死ねば、盾はどうなるとお思いですか? 泥土に打ち捨てられ、顧みられることもないまま、数多の足に踏みしだかれるのですよ。主人を守れなかった盾は、二度とその使命を全うする機会など与えられないまま朽ち果てるのみです。私にそうなれと?)
(……あなたには、悪いと思っているわ)
ようやく、そう絞り出した意思は弱々しかった。
しかしその言葉は、とうとう、彼女に突き刺さった。
激しい感情が巻き起こり、それは"光の魔女"の自我に肉薄する。
それは具体的な言葉には言い表せぬ、激しさ、としか形容できぬものであった。
(悪いと思っているですって! それで全てを済ませるのですか! 詰まるところ、あなたはただ諦めているだけです! ずっと昔からそうでした。理解を諦め、人間を諦め、許しを諦め、和解を諦め、世界を諦め、変えることも変わることもしない。より良い世界、より良い状況など無いと諦め、ただ壊すのですか! 自分すらも!)
襟があれば、掴んでいただろう。
喉があれば、怒鳴っていただろう。
彼女が見せまいとしていた真実がそこにあった。
(ちょっ、クリン、落ち着いて)
(これまでずっと私は落ち着いてきました。しかし、しかし今だけは言わせていただきます! あなたは自分が持っているものに全く気付いておられない! 誰もが望みながらついに得られず生涯を終えてしまうような、貴いものをあなたはいくつも持ってらっしゃいます。それこそがあなたの真の輝きであり、光です!)
ありありと"光の魔女"の当惑が伝わってきた。
しかし、その感情はむしろクリンを更に激昂させた。
(あなたには愛がある、富がある、才がある。そして、あなたを気にかけてくれる人は何人もいる! なのにそれを一顧だになさらない! ふざけんじゃあありませんよ光陽様。絶望も憤怒も憎悪も、そんな暇なことやっとる場合じゃあないでしょうが! あなたの果たすべき責任は、向けられたものに正確に報いること! そのために時間を使うべきです!)
(でも、でも、こんなあたしなんかじゃ、できっこない。魔法も使えない魔女なんて、ただの"忌み子"なんて、誰にも求めてもらえない)
(じゃっかあしい! 今更んなこと言ってどうすんですか! 私にはあなたしかいないんですよ! まずは、その私への責任を果たしてもらいます!)
クリンの自我が光を放つ。魔力と溶け合った光が、荒れ狂う光と混じり合う。
(な、何してるの?)
異変は感覚として現れた。意識全体に広がるのは温もりと、微かな圧迫感。
何もかもが溶け合いそうな温かさと、心音に似た律動だった。
(あなたを助けているんです。度重なる感応と融合で、私たちの魂は同一化しかかっている。だから、怒りや敵意に弾かれずにここまで来られました。あなたと、私は、もう一つになりかけているんです)
光は分散し、拡散してゆく。クリンの意思をあちこちから同時に感じた。
(まさか!)
今まで一度も覚えたことのない感覚。常に倒れそうだったものをそっと包んで支えるような、安心感。
それ故に、彼女は何が起こっているのかを理解した。
(完全に、一つになりましょう、クルーラー・グーニィ)
クリンの魂が分解されているのだ。
それだけではない。分解された魂の断片が"光の魔女"の魂の欠損を埋めていく。
傷口を塞ぐように、パズルの空白を埋めるように、魂を繋いでいるのだ。
(そんな、やめなさいクリン! バラバラに分解されたら、あなたはいなくなってしまう! あたしの魂の性質に同化したら、意識も自我も消えちゃうのよ!)
(これが私の使命です。本当は、もっと後にこうするつもりでした。魂の深奥で、私の魂を単なる断片として欠けを塞ぐ。フォーリーズさんを治療した方法の擬似再現です)
(初めから、初めからこうやってあたしを治すつもりだったの!? あなたを犠牲にするために、協会は、協会は!)
(そのために私は蘇ったのです。光陽様の、私に対する責任は一つ。この救いを受け入れること、それだけ)
光が広がるごとに、クリンの存在の中心は薄らいでゆく。
クリンの光が増すほどに、グーニィの光は弱まる。
融合している状態だからこそ、はっきりと感じられた。
彼女の存在が消えかけているのだ、と。
(やめなさい! ダメよ、絶対許さないんだから。命令よ、やめて! あんなこと言っておいて、あたしを独りぼっちで残していくの? あなたが、あなたがいないと、私なんにも出来ない! なんにもなれない!)
(心配はいりません。治療が済めば、あなたはもう、ちゃんと一人でやっていけるようになっていますよ。だから、私の光を受け入れてください。私のClin vi kantは、いま0を迎えるのです)
(そんな、そんな)
悲しみが伝わってくる。愛情が伝わってくる。
どちらも、彼女の本質とは相容れないもの。
クリンはそれらを、魂で抱擁した。
流れぬ涙も、響かぬ嗚咽も、全て包み込んだ。
(やめて、クリン。あなたがいないと、あたし、あたし)
(その想いだけでも、私には過ぎたるものです。初めから、生きてなどいない魂には、十分過ぎます。悲しまないでください。あなたと過ごした日々は、辛かったけれど──)
全ての記憶が光に映し出されていく。
街の雑踏。商人の売り込みに困惑するグーニィ。"眼の魔女"の笑顔。
平原のむせ返るような草木の匂い、吹き渡る風に、揺らめく帽子。瞳には太陽の輝きが映る。買った指輪は今も着けている。
初めて見た海の、雄大な律動と波の力強さ。焼ける砂浜を足で感じ、はしゃぐ主人を見守り、転ぶたびに助け起こした。
工房で学び、それを生かして、一心不乱に実験に打ち込んだ。その横顔は真剣そのもので、生涯をかけて支えるべきなのだと決意を新たにさせた。
朝も、昼も、夜も、起きている姿も眠っている姿も、常に見守ってきた。
喜びも、怒りも、悲しみも、笑顔も、全て魂に刻んである。
この記憶は、消えはしない。共に歩んだ旅なのだから。
(──とても、楽しかった)
光が、より一層の輝きを見せた。
消える直前の最期の輝き。
"光の魔女"の叫びが、慟哭が魂に響く。
クリンの魂は、自我は、千々の光と化し──
──再び、集合し始めた。
(これは)
真っ先に異変を察知したのは"光の魔女"だった。
何かを感じる。魂の中に、自分とクリン以外の存在を感じるのだ。
それは、あるものに似ていた。一人でいる時、ふと何かが気になって、何もない空間を振り返る。
その何かがいる。見られているような感覚。視線が、魂の中にあるはずのない感覚がある。
(まさか、この力!)
クリンの放った光の一粒一粒、一条一条が拾い集められ、集まってゆく。
温もりは去りつつあり、濁流は勢いを取り戻し、ざわつくような不安が立ち込める。
だが、だからこそ、それはクリンの再生の証左となってくれた。
("原初の目"!)
その視線が、存在しない空間を満たす。
その瞳孔が、存在しない光を鷲掴む。
その虹彩が、存在しない希望を寿ぐ。
"眼の魔女"の瞳が、赤と灰色の星が天空を満たした。
クリンの咆哮が響き渡る。抵抗しているのだ。
だが抗い切れるはずもなく、全ての光は集約し、収斂し、そしてついに光ではなくなった。
彼女の魂と自我は復元され、完全に再生されたのだ。
(何故! 何故、邪魔立てするのですか!)
灰と赤の夜空へ向けて叫ぶ。拳があれば、振り上げ、突き上げていただろう。
(何故、どうして、方法はこれしか無いのですよ!? 光陽様は、彼女は、死ぬべきだとでも言うのですか!)
夜空は、問いかけに答えなかった。
それはまるで天のように、地を這う人々を見下ろすばかりだった。
クリンの魂はその沈黙に打ちひしがれ、無い膝を折って項垂れた。
(クリン、やっぱり、運命なのよ。何も、何も変えられないんだわ。小さな私たちには、何も)
その絶望に寄り添うのも、また絶望だった。
激しい光と濁流は次々と魂を侵食し、奥底の領域までも再び塗り潰し始める。
(もう拒絶しない。あなたも、ここで共に……)
影と光が、二つの自我に迫る。
津波のように、あるいは大渦のように。
呑み込み、引き裂き、撹拌し、そして忘れ去るために。
赤色と灰色の空は、その光景をただ見ていた。
手を下す必要が無かったから。
突如、光が向きを変えて闇に躍りかかった。
それは濁流と揉み合い、混ざり合い、そして遂には押さえつける。
荒れ狂う猛獣が如き感情の逆巻きを、ただの魔力が意思を持つかのように鎮圧したのだ。
そして、それはあらゆる領域で引き起こされていた。
光は魂を、肉体を貪ることを止め、感情と格闘を繰り広げていたのだ。
それはさながら戦のような対立であり、形勢は光に傾いていた。
一体、何が起きているのか。
まるで理解できぬまま、二つの魂は急速に事態が収まってゆくのを如実に感じ取っていた。
最早暴れる感情もなく、魂は凪ぎ、魔力は外へと向かい始めていた。
(あっ)
ごく小さな、ぱちんと弾けるような感覚。
それと同時にクリンの魂も外へと弾き出された。
これは知っている。魂融合中に"光の魔女"が気を失った時の現象だ。
そうして、クリンの四つの目は開かれた。閉じる時には、もう開くつもりのなかった目が、再び開いたのだ。
へたりこむようにして座っている彼女の腕の中では、気を失った"光の魔女"が横たわっていた。
眩い光に包まれながら、四つの目は中空を見回す。
そして、見つけた。
"光の魔女"の肉体から発される光を、掲げた右手に吸い込んでいるクロス・フォーリーズを。
掲げた右手は救いを求めるかのように天へ伸ばされ、左手は胸を押さえていた。
目は見開かれており、自分で自分に起きている出来事に驚いているかのようだった。
胸を押さえている左手の隙間からは、微かに光が漏れ出ていた。
そうか、"ガル・プリズム"!
クリンは思わず心の内で叫んだ。
極限のギリギリ、クリンが魂融合を始めた時、クロスは思い出したのだ。
"ガル・プリズム"が懐に入ったままであることを。
使い方など知らなかったが、先ほどキルデンザックが偽物の石で行なっていたことを真似してみた。
魔鳴法で右手から魔力を吸い、左手のプリズムへと送り込む。
彼はこれで光を吸入していたのだ。
それだけではない。"ガル・プリズム"の力は魔力と光を恐るべき効率で結びつける。
クロスの魂に制御される彼の魔力は、プリズムを通じて光に繋がり、魔女の魔力に繋がっていた。
無意識に、光を鎮めようとする意思から、彼は逆に光を操作していたのである。
光を鎮めようとする彼の意思が、そのまま彼女の魔力に浸透し、魂の暴流を収めたのだ。
そして今は、魂の外に溢れ出た残留魔力を吸い込み、プリズムを通してただの光に変換しているのだ。
その用法は、まさに偶然の産物。クリンも"光の魔女"でさえも思いがけない、奇跡の現象だった。
この方法を使えば、感情の暴走も魔力漏出も未然に防ぐことができる。
発展させていけば"忌み子"の傷ついた魂すら、治せるかもしれない。
──そうか、答えは、とっくのとうに出ていたんだ。
「光陽様……」
主人の体を抱き締める。閉じられた四つの目には、涙が滲んでいた。
「やっぱり、あなたは天才です」
彼女は既に、自分を救っていたのだ。
変えられないと嘆きながら、既に全てを変えていたのだ。
30秒後、光は、全て消えた。
キルデンザックとクルーラー・グーニィ。
二人の負傷者は出したものの、奇跡的に死者は0に抑えられた。




